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レクチャーⅠ:どうして、そうなる!?2

***  江藤とはじめて出逢った日はとても憂鬱だったのを、今でもしっかりと覚えている。 「胃が痛い……」  おなかを押さえながら肩を落とし、ひとりきりでトボトボ歩く高校からの帰り道。胃痛の原因は自分の中ではばっちりできたと思っていた数学のテストが、これでもかといわんばかりにひどいありさまだった。  あまりの情けなさにため息をつきながら足元にある小石を蹴飛ばして、家の近くの交差点に差し掛かった刹那、後ろからいきなり腕を掴まれ引き留められた。  ハッとして顔を上げると、目の前をすごいスピードの自転車が通過していく。 「あっぶねぇな、おい!!」 「は……?」 「そこのミラーに、自転車が映っていただろうが。おまえが俯いたままで突進したら、小学生とぶつかっていたぞ。気をつけろよ」  掴んでいた腕を手荒に放り投げ、見知らぬ男は注意してきた。顔の前に、手にしていた紙をピラピラ見せつけるという変な行動をしながら。    それを不思議に思って、よく確認すると―― 「あ~っ!」 「出席番号46番、宮本 佑輝くん。この点数じゃあ、目の前が真っ暗になるのは当然だよな」 「ちょっ、何なんだよアンタ?」 「俺様は、おまえの兄貴の友人だ」  ニヤリと笑って見上げる、その顔がムカつくことこの上ない!  (何が、俺様だよ。どちら様なんだってぇの!) 「ほら、行くぞ。ちょうどおまえの家に行く途中だったんだ。雅輝(まさき)のヤツはバイトで遅くなるから自宅で待ってろって言われてるし、暇つぶしに勉強を見てやる。俺様ってば超優しい」 「いえいえ、そんな。お気遣いなく!」  やんわりとでも、ハッキリと断った。得体の知れないコイツに、勉強なんて教えられたくない。黙って兄貴の部屋で、エロ本でも物色すればいいんだ。 「遠慮することはないぞ。雅輝には、いろいろと世話になってるからさ。少しでも恩返しできればと思ってるんだ。大丈夫、とって食ったりしないから」  肩をバシバシたたかれながら説得されても、当時の俺は不安が拭いきれなかった。自分の周りを見渡しても、コイツのような変な人物を知らない。二人きりになったら、とって食われるかもしれないと激しく思った。  そんな予測がついたのでもう一度丁寧に断ったというのに、まったく言うことを聞かない俺様の強情さに呆れ果てるしかなく――項垂れながら家へと、一緒に辿り着いたのだった。 *** 「ホント、何ていうかドジ。いんや、おっちょこちょいと表現した方がいいのか」  部屋に入るなり答案用紙を見ながら、肩を揺すってクスクス笑い出す俺様が憎らしかった。しかし世話になっていたため、冷蔵庫から持ってきた冷たい麦茶を無言で差し出してやる。 「おっ、サンキュー。気が利くな」  コップを丁寧に両手で受け取り、なぜだか顔をまじまじと凝視してきた。 (顔に、何かが付いてるのだろうか?)  不審に思った当時の俺は、両手で意味なく顔を触ってしまったんだ。その様子を見て俺様は思いっきり顔を歪ませ、ぷっと吹き出す。 「兄弟でも全然似てないんだな。雅輝とは全然違う」 「ああ、よく言われます。性格も真逆だし」 「確かに。見た目はおまえの方が繊細そうなのに、答案用紙の文字はすっげぇガサツに書いてある上に、解答はおちょこちょいだし、雅輝がしっかり者になるのが分かるわ」  答案用紙をわざわざヒラヒラさせ、笑いながら失礼すぎることを次々指摘してきた。  唇を尖らせて俺様をじと目で見つめると、頭をくしゃくしゃと乱暴に撫でられてしまった。 「そんな不安そうな目で俺様を見るな、大丈夫。この次は絶対にこれよりもいい点が取れるように、キッチリ教えてやるからさ」  その俺様に教えて戴くこと自体が超不安なんだと思いながら、答案用紙に視線を落とした。  そんな不安な心中を抱えて、今日ミスったところを中心に丁寧に教えてもらった。 「この難しい問題は解けるのに応用ができていないのは、やっぱ痛いよな」 「はあ……」 「あとここ。この計算問題さ、難しく考え過ぎ。しかも字が汚い――間違ってるここの問題、途中まで合ってるじゃないか。バカだなおまえ」 「すんません……」  椅子に座ってるできの悪い俺の背後にピタリと張り付き、的確なアドバイスをしながらとても分かり易く教えてくれた。しかも学校の先生よりも分かりやすい。この人、いったいナニモノ?    思わず、答案用紙と俺様の顔を交互に見やる。 「チッ、おしいな。この問題も途中まで解き方は合ってるのに。……そういや俺様も、似たような問題でミスったのを思い出しちまった」  ププッと吹き出して俺の頭を小突いてきたので、俯かせていた顔を上げた。すぐ傍にある俺様の姿に、一瞬息を飲む。    窓から入ってくる光の加減で薄茶色の瞳が淡い色を放ち、それが妙に色っぽく見えるせいで思わずドキッとした。しかも笑うたびに柔らかい髪がフワフワと揺れて――そこからわずかにいい香りがする。 「何だ、その顔。俺様だってミスることくらいあるんだよ。佑輝くん」 「あのっ、名前……教えてください。何て呼べばいいか分からなくて」 「そういや教えてなかったな。俺様の名は江藤 正晴 。みんなからは江藤ちんと呼ばれているが、おまえは江藤様と呼ぶがいい」  江藤ちんだろうが江藤様だろうが、どっちも呼ぶのはイヤだった。こんな呼び名をするこの人の友人たちはきっと、兄貴を含めて変な集まりなのかもしれない!  さあ呼べ。今すぐ俺様を呼べ。  そう言わんばかりの視線を、俺に向かってびしばしと飛ばしてきた。そんな無言のプレッシャーのせいで口元を引きつらせながらだったけど、大きな声で言ってやる。 「江藤さん、勉強を教えてくれてどうも有難うございました」  目の前にある顔をじっと見つめてから、しっかりと頭を下げた。    そんなお礼の言葉を聞いて一瞬だけ眉をひそめつつも、頬を人差し指で掻きながらどこか照れたように笑って、俺の頭をぐちゃぐちゃと乱暴に撫でてくれたんだ。    そのときの笑顔が、いつまでたっても忘れられなかった。

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