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第3話

2  その日は朝から頭が重かった。まるで水の中にいるみたいに、身体が思うようにならない。数日前、いきなり降り出した冷たい雨に濡れてから、なんだかずっと調子が悪かった。  アオが働いているのは、さまざまな部品を作る下請け工場だ。主に車の部品を作ることが多い。学歴がないので文句は言えないが、仕事はきつく、給料は安かった。  今朝、家を出る前、アオの具合を心配したリコには、「きょうは休めないの?」と訊かれた。アオは「大げさだな」と笑って出てきたものの・・・・・・。  まだ発情期までには間があるはずで、アオは近日中に薬をとりにいかなければと思いながら、なかなかそのタイミングが見つけられずにいた。そのとき、くらりと目眩がした。まずいとアオが焦ったときには遅かった。  ガラガラガッシャーン・・・・・・!   突然甲高い音が工場内に鳴り響き、アオは作業途中の車のパーツが散らばる中に尻餅をついていた。 「アオ! ちょっとこっちへこい!」  でっぷりと太った工場長に呼ばれ、アオは散らばった部品の後片づけもそのままに、事務所へと向かった。 「お前、そろそろアノ時期なんじゃないか?」  発情期の間は抑制剤を飲んでいても何も手につかなくなるため、数日間仕事を休ませてもらっている。もともと工場長がそのことをあまりよく思っていないことに、アオは気づいていた。 「あの・・・・・・、すみません」  迷惑をかけているのは事実で、アオは唇を噛みしめうつむいた。 「お前さ、臭いんだよ。メスの匂いがぷんぷんしてるんだよ」  アオが反論できないことを見通すと、工場長はその顔に嫌らしい笑みを浮かべた。 「なあ、オメガってのは精をもらえるなら相手は誰でもいいんだろ? 相手の精がほしくてほしくてたまらず、アンアンよがるんだってな」  工場長はアオに顔を近づける。男の息は、腐ったタマネギのような臭いがした。 「いったいここに何人くわえこんでんだよ?」  耳元でささやかれ、アオはかっとなった。ミミズのような太い指が自分の尻を撫で回すのを、アオは下を向いて堪えた。以前からたびたび、アオは工場長から性的嫌がらせを受けることがあった。そして、自分以外にも、彼が弱い立場の者に対して同じような行為をしていることをアオは知っていた。その中には、アオと同じオメガの青年もいた。  駄目だ、堪えろ。こんなこと何でもない。たいしたことじゃない。  きつく握りしめた拳が、ぶるぶると震える。  工場長はアオが無反応なことが面白くないようだった。ふん、と鼻息を荒く吐き出すと、手を離し、ニヤニヤと汚らしい笑みを浮かべた。 「お前の弟もオメガなんだってな。お前みたいなかわいげのないやつはゴメンだが、まだヴァージンなら俺がもらってやってもいいぞ。俺のでかいブツを思いきりぶちこんで・・・・・・」  気がつけばアオは工場長を殴りつけていた。男のでっぷりとした身体が、リノリウムの緑色の床に転がる。  男は恨めしげな目でアオを睨みつけた。 「く、首だ・・・・・・! 首だ! いますぐここから出ていけ・・・・・・っ! 二度とくるな!」  取り返しのつかないことをしてしまったという自覚はあった。アオは肩で息をすると、真っ青な顔で男を見下ろした。 「きゅ、給料をくれよ。未払いの分があるだろ」  アオの言葉を、工場長はバカにしたようにせせら笑った。 「そんなんいままでさんざん迷惑をかけられた分で帳消しだ。こっちはボランティアでオメガなんかを雇ってやってんだ。ろくに仕事もできない役立たずが!」 「そ、そんな・・・・・・っ! そんなの困るよ・・・・・・!」  悔しいけれど、男の言うことはもっともだった。すぐに発情期だと仕事を休むオメガは、雇う側からしてみたらどうしても敬遠しがちになる。アオもここの仕事をクビになったら、すぐに新しい仕事を見つけることは厳しいだろう。そんなアオの頭にあったのは、給料日になったら必ず払うからと、滞納する家賃のことだった。このままではいまのアパートを追い出され、リコとふたり路頭に迷ってしまう。  工場長は服についた汚れを払い落とすと、アオの存在など既になかったもののように、仕事に戻ろうとした。 「なあ、待ってくれ、頼むよ! このままだと住むところもなくなっちまう・・・・・・!」  思わず縋りつくように男の腕をつかんだその手を、乱暴に振り払われる。 「はっ。そんなん知ったことか」  まるで犬猫を追い払うように工場から引きずり出されて、アオは茫然となった。 「どうしよう・・・・・・」  この先の未来どころか、明日をも知れぬ身に、アオはぶるりと身を震わせた。朝から具合が悪かったことなど、とっくにアオの頭にはなかった。  陽が落ちた街に、灯がともりはじめる。 「仕事・・・・・・。仕事を探さなきゃ・・・・・・」  まずは金がいる。きょうとあしたを生き抜くための金が・・・・・・。  頭痛はますますひどくなっていた。動かすのが億劫なほど身体はだるい。けれど、いまは休んでなんかいられなかった。手っ取り早く稼げる方法は、アオにはひとつしか思い浮かばなかった。アオはきつく唇を噛みしめると、何かを決意したように、暗い目で正面を睨みつけた。

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