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第6話

 リコが屋敷についたのは、それから一時間もしないころだ。  アオの顔を見るなり、リコは全身に張りつめていた緊張をふっと解くと、勢いよくしがみついてきた。 「よかった! やっぱりきょうは無理を言ってでも休ませればよかったって後悔してた。アオ、ごめんね! アオ!」  首にまわされたリコの腕の体温が、いつもよりも高い気がする。アオは弟の身体をそっと引き剥がした。 「リコ、熱があるのか? 連絡ができなくてごめん。心配しただろう」  リコはふるふると頭を振った。アオの顔を見て、ほほ笑む。 「俺は大丈夫。それよりもアオに何もなくてほんとによかった」  それから、あらためて豪華な部屋の中をぐるりと見渡すと、 「この家、すごいね。いきなり知らない人が訪ねてきて、アオがここにいるからって連れてきてもらったんだけど、俺、こんな立派な家入ったの初めて。アオにそんな知り合いがいたなんて知らなかった」  と目を丸くした。それから、急にイタズラを思いついた子どものような無邪気な表情を浮かべて、アオの耳にこっそりとささやく。 「ねえ、アオ、知ってた? ここの家、玄関だけでうちが全部入っちゃうくらい大きいんだよ。いっそのこと、家から荷物を全部持ってきて、こっそり玄関を間借りさせてもらっても、俺たちの存在に気づかないんじゃないのかな?」 「だったらそうするか?」  アオが冗談に乗ると、リコはうれしそうにくすくすと笑った。  リコは大丈夫だと言ったが、その顔色はわずかに上気しているように見える。テンションが普段よりも高いのも、熱が上がる前のそれだと思うと納得ができる。 「リコ、お前やっぱり熱があるだろ」  アオがリコの額に手を触れようとしたとき、すっと横から伸びてきた手が、エスコートするみたいにリコの腰にまわされた。 「カイル・・・・・・」 「すぐに主治医がきます。すぐ側の部屋を用意したので、案内します」  カイルのリコに対する態度は、親しいものに対するというよりは、むしろ恋人に接しているようで、アオは眉を顰める。さきほどの自分に接する態度からも、カイルが悪い人間だとは思えなかったが、そのアンバランスさが逆にアオに違和感を抱かせた。 「え? あ、うん、でも俺、もう少しアオといたい」  リコの瞳にも、戸惑う色が浮かぶ。 「あした、いくらでも会えますよ」 「アオ・・・・・・」  リコは助けを求めるように、アオを見た。  アオはひとつ息を吐いた。さまざまな疑問や不安は残るが、いま騒ぐのは賢明ではない。まずはリコを医師に診てもらいたかった。 「世話になるのは感謝してるし、こんなことを言えた義理はないが、リコのそばには俺がついてる」 「アオ!」  リコは喜色を浮かべ、カイルの腕から逃れると、アオに抱きついてきた。  カイルはまだ何か言いたそうなようすだったが、 「わかりました。そうしましたら、こちらにもうひとつベッドを入れさせますね」  と、自分の意見をすぐに引っ込めた。 「えっ。こんなに広いんだから、別に一緒のベッドでも・・・・・・」  そんな手間をかけさせては申し訳ないと、アオはカイルを止めた。その間にも、カイルに命じられた使用人はてきぱきと部屋の中にもう一台ベッドを運び込んでしまう。  リコがちらっとアオを見た。その瞳は言葉に出さなくとも、半ば呆れを含みつつ、「すごいね」と告げていた。  そのとき、コンコン、とドアをノックする音が聞こえた。 「よろしいですかな?」  屋敷の主治医は、眼鏡をかけた六十代くらいの白髪の男だった。ヤギのような髭までもが白い。男はカイルを見て小さくうなずくと、アオに視線を向けた。 「ああ、だいぶ顔色がよくなっていますね。さっき、熱が少し高かったので、勝手に注射を打たせてもらいましたよ。栄養が足りていないようでしたね。ここ数日だいぶつらかったんじゃないですか? 食べるものを食べて、ゆっくり安静にしていればすぐに元気になるでしょう。・・・・・・ふむ。発情期はいつですかな?」  男の口振りからしても、どうやらアオの知らないうちに初顔合わせはすんでいるらしい。 「アオ! やっぱり具合が悪かったの!?」 「まだ一週間くらいはあるはずだけど・・・・・・」  勢い込むリコを目で制しつつ、アオが答えると、男は顎髭をいじりながら、もう一度、ふむ、とうなずいた。それからアオたちのやり取りをじっと見守っていたリコに視線を移す。 「顔が赤いですね。目も潤んでいるようだ。ちょっと失礼」  男はリコの脈を測った。それから舌を出さない目だけのあかんべをさせるみたいに、涙袋のあたりに指を置き、じっと白目をのぞき込んだ。 「ふむ」 「おじいさん、それが口癖なの?」  リコはわずかに首をかしげつつ、ぱちぱちとまばたきをした。 「リコ!」  せっかくタダで診てもらっているのに、リコの言葉に男が気分を害したらと、アオは慌てた。  リコの胸に聴診器を当てながら、老医師は驚いたように一瞬だけ目を大きくすると、ふごふごと不明瞭な音をたてて笑った。それからふっと笑みを消して、アオを見る。 「弟くんの発情期はまだですかな?」  アオはこくりとうなずいた。 「・・・・・・まあ、弟くんは大丈夫でしょう」  そこで老医師はアオではなく、なぜかカイルを見た。 「え?」  それってどういうーー? 「微熱がありますね。心臓が少しだけ弱いようですが、これは元からですか?」  前身頃をはだけたリコの胸に聴診器を当てながら、老医師が訊ねる。 「・・・・・・ああ」  リコの身体が弱いのは、恐らく生まれたばかりのころに、実の両親に寒空の下、放置されていたからだ。というのを、リコがまだ幼いころに診てくれた医師が言っていた。  アオは苦い思いを呑み込んで、うなずいた。アオたちの会話を、リコは大人しく聞いている。 「はい、いいですよ。服を着て」  リコは素直にシャツのボタンを留めた。 「どうもありがとう」  にっこりと笑ったリコの言葉に、医師はまるで孫を見るような目で、頬をゆるめた。 「どういたしまして」  老医師が出ていくと、部屋にはアオとリコ、それからカイルの三人になった。パチパチと、暖炉に入れた木が爆ぜる音がする。 「これからのことは、あした朝起きてからまた話し合いましょう。それでは、お休みなさい。ゆっくり休んでくださいね」 「カ、カイル・・・・・・っ!」  アオは、部屋を出ていこうとしたカイルを呼び止めた。カイルが足を止め、振り向く。 「・・・・・・いろいろと助かった。本当にありがとう」  アオはベッドの中で背筋を伸ばすと、深く頭を下げた。  危険に遭いそうになったとき、助けてくれたこと。そして、リコを医師に診せてくれたこと。どんなに感謝しても足りない。 「それからあのさ・・・・・・」  本当はシオンにもちゃんと礼を言いたかった。けれどあのつんと澄ました美貌の白皙を見ていると、どうしてか自分でも制御しがたい気持ちがふつふつと沸いてくるのだ。素直に礼を言うことが難しい。 「はい?」  まるで犬のような思慮深い瞳に見つめられて、アオはぐっと言葉につまった。アオのちっぽけな気持ちなど、すべてその瞳に見透かされている気がした。 「な、何でもないっ」  慌てて頭を振ると、それ以上追求することなく、カイルは明かりを落として、部屋を出ていった。 「は~、びっくりしたね」  部屋に残ったのが兄弟だけになると、リコは自分のために運び込まれたベッドへダイブした。 「すごい、このベッドふわふわ!」  上半身を起こし、驚いたように告げる。 「いまのひと、アルファだったね。でも、ほかの人たちにみたいに、俺たちに偏見は持ってないみたいだった」  薄明かりの中で、リコの表情はよく見えなかった。 「リコ?」  呼びかけると、リコがにっこりと笑ったのが気配でわかった。 「ね、アオ。そっちいっていい? この部屋、広すぎて、なんだか逆に落ち着かないや」  アオが上掛けを持ち上げると、リコはうれしそうにベッドの中に潜り込んできた。アオの腰に自分の腕を回し、「俺たちの知らない世界もまだあるんだね」と呟いた。 「・・・・・・俺がいなかったら、アオはこんなにつらい思いをしないでよかったのかな」 「リコ?」  すう・・・・・・っと息を吐くように、腕の中でリコが眠りに落ちるのがアオにはわかった。アオは熱でうっすらと汗ばんだリコの額の髪を撫でた。 「・・・・・・そんなことないよ。リコがいなかったら、俺は生きている意味なんてきっとなかった」  身じろぎしたリコがアオの腰に手をまわす。しばらくリコの寝顔を見つめていたアオは、やがてそっと瞼を閉じた。

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