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第7話

 翌朝。アオはすぐにでも家に帰るつもりだったのを、カイルに止められた。せめて体調が戻るまでは屋敷に留まってほしいと言われ、アオは困惑した。  もう充分すぎるくらいによくしてもらっておいて、これ以上世話になるわけにはいかなかった。第一、その理由がない。  話し合いが平行線をたどるアオたちの横で、使用人たちによって次々と運ばれてくる朝食を前に、リコは目をまん丸くさせている。 「ねえ、これ食べていいの?」 「リコ!」 「もちろんです。どうぞお好きなだけ食べてください」 「やった!」  リコの言葉に、カイルはほっとしたようだった。黙ってると厳めしくも見える相好を崩す。 「アオ、食べていいって! せっかくだからいただこうよ。おいしそうだよ」  にこにこと無邪気に笑うリコに、アオは脱力した。 「さ、どうぞ冷めないうちに。足りないようなら、まだ持ってこさせますよ」  ひとまずカイルとの話し合いは休戦にして、アオはリコに手を引かれるまま、窓際のテーブルに用意された席についた。窓からは冬枯れの庭が見える。いまは花もあまり咲いておらずもの悲しく見えるが、春がきたらさぞや立派だろう。 「アオ、おいしいね。一食分浮いてラッキーだったね!」  一晩寝て、すっかり熱も下がったリコは元気だった。アオたちの家の家計からしたら遙かに豪華な朝食を前に、旺盛な食欲を見せるリコの姿を、カイルがほほ笑ましそうに眺めている。朝食は確かにおいしかったが、リコのように無邪気にこの状況を喜べないアオは居たたまれない思いになりながら、黙々とフォークを口元へと運んだ。  朝食がすむと、再びさきほどの使用人たちが、今度は片付けをするため部屋に入ってきた。アオたちの存在を無視したように、機械的に働く彼らからは、無言の非難の声が聞こえてきそうだ。  再び室内にアオたちだけしかいなくなると、カイルは居住まいを正した。カイルの緊張が伝わってくるように、アオもわずかに身構える。 「このまま戻ってどうするんですか? 仕事はあるんですか? この間みたいな目に遭ったらどうするつもりですか? いつも助けがくるとは限らないんですよ」 「カイル!」  アオが思わず声を張り上げると、カイルは「失礼」と呟いた。 「この間みたいなことって何のこと? 助けって?」  リコが敏感に反応するのを、何でもないから、とアオは言った。 「カイルと大事な話があるから少し黙ってて」 「アオ!」  アオがちらっと視線を向けると、リコはむっと黙り、しぶしぶとアオたちからは距離をとった。 「すみません・・・・・・」  申し訳なさそうに謝るカイルに、アオは頭を振った。かわいそうだけれど、いまはリコに構ってやれない。 「ここまでよくしてもらったのには感謝する。でも、正直言うと、なんでそこまで見知らぬ俺たちによくしてくれるのかわからない。ぶっちゃけ、何か裏があるんじゃないかと勘ぐっちまう。不幸なオメガなんて珍しいもんじゃないだろ? なんで俺たちなんだ?」  他人の親切を無条件に信じられるほど、これまでアオは恵まれた生活を送ってはいなかった。人間は必ずといっていいほど裏切る。何よりも自分がかわいい。オメガのひとりやふたりの存在なんて、ないに等しいというのが、世の中の真実だ。アオはこれまで嫌ってほど、身に染みてそのことを知っていた。  そしてアオにはリコがいる。何よりも大事にしなければいけないリコが。万が一、リコに危険が及ぶようなことだけはあってはいけなかった。それぐらいだったら誰に何を思われても、どんなに恩知らずだと罵られても、アオは構わなかった。  腹を割って話すアオに、カイルは絶句したようだった。苦しそうな表情を浮かべると、 「それならせめて具合がよくなるまではこの屋敷に留まってもらえませんか?」  と告げた。 「なんでそこまで・・・・・・」  カイルは背後にいるリコを気にするそぶりを見せた。リコに聞こえないよう、声のトーンを落とす。 「彼は、リコは”つがい”についてどこまで知っていますか・・・・・・?」 「え?」  ”つがい”・・・・・・?  思わずアオはリコを振り返った。  リコは心配そうな表情を浮かべながら、アオとカイルのやり取りを見守っている。そのようすを見ていたら、アオの心に迷いが生じた。確かにリコのことを思えば、二、三日だけでも屋敷に滞在させてもらえるのは、ありがたい話だった。  アオはぐっと唇を噛みしめた。 「・・・・・・で、でもあいつは、俺たちが屋敷に留まることをきっと望まないと思う」  青い宝石のような瞳を思い出して、アオの胸はずきんと痛んだ。  なぜだろう、あの男のことを考えるだけで、アオがこれまで意識的に捨ててきた、懐かしい気持ちを思い出す。感情を揺さぶられてしまう。 「シオンは構わないと思いますよ」  アオの迷いを見透かすように、カイルは言った。けれど、アオは決してそうは思えなかった。  気まずそうに顔を背けるアオには構わず、カイルはリコには聞こえないよう、アオの耳に素早くささやいた。 「後で大事な話があります。リコのいないところで少しだけ時間をいただけますか?」 「え?」  カイルは、内緒話をされてむっとしているリコを振り返った。 「お兄さんからの許可が出たようですよ。しばらくの間ここに留まってもいいそうです」  具合がよくなるまでだって言ったじゃないか。しばらくの間なんて言ってない。  アオの心の中の突っ込みが聞こえるはずもなく、カイルは普段は厳めしく見える表情をどこかほっとしたようにゆるめて、「だったら専用の部屋を用意しないといけませんね」と言った。  リコの瞳が、いったいどうなってるの? とアオに問いかける。アオは肩をすくめた。そんなこと、アオのほうが知りたい。  屋敷は広く、外から見たらまるで小さなお城かホテルのようだと思ったその内部は、案外現代的だった。シンプルな家具は趣味がよく洗練されていて、居住者が居心地よく過ごせるようさりげなく配置されている。きっとそのどれもが値段を聞いたら目玉が飛び出るほど高価なものなのだろう。  アオたちのゲストルームは東側にあって、窓からは広大な庭がよく見えた。  驚いたことに、カイルの話とは、リコがカイルの”運命のつがい”の相手だということだ。カイルはひとめリコを目にして、そのことに気がついたのだという。リコが何も気づかないのは、おそらく発情期前だからだろうとの話だ。そのとき、「まさか”運命のつがい”がこんなに高い確率であるなんて・・・・・・」と独り言のように呟いたカイルの言葉の意味はよくわからなかった。  カイルからその話を聞いたとき、アオは正直戸惑った。果たしてそれがよいことなのか、それとも悪いことなのか、とっさに判断できなかったからだ。  最初は二、三日のはずであった滞在は三、四日に延び、気がつけば一週間にまで延びていた。その間、アオたちは大切な客人として扱われたが、使用人たちの儀礼的な態度からみても、その存在が望まれていないことは伝わってきた(唯一の例外があるとしたら、カイルくらいだ)。カイルの目が届かないところで、アオはときどき使用人たちから嫌がらせを受けることがあったーーそれは、アオのティーカップにだけ砂糖の代わり塩が入っていたり、誰も見ていないところでチクリと嫌みを言われたりするくらいの、ほんの些細なものだ。正直よい気持ちはしないが、彼らの面白くない気持ちがわかるだけに、アオは告げ口をしなかった。  屋敷の中には多くの人間が暮らしていて、そのほとんどがベータだった。アルファも十数名ほどいるとの話だったが、その中でもトップに位置するのが、シオンだ。  シオンは、一族の若きリーダーで、そのカリスマ性は群を抜いているのだという。  カイルがシオンの従兄に当たると聞いたとき、アオはひどく驚いた。容姿のタイプが違うこともあったが、あの高慢さも、嫌みな性格も、カイルとは重ならなかったからだ。似てねえ、と思わず本音を漏らしたアオに、カイルは苦笑していた。  そんなカイルは、リコの側にいるのがうれしくてたまらないようすだった。何も知らないリコは、最初はそんなカイルに戸惑っていたようだったが、自分たちを差別しないでひとりの人間として扱ってくれるカイルにすぐに懐いた。カイルはアオたちが過ごしやすいよう気を配ってくれたが、体調が戻るにつれて、これ以上滞在する理由がなくなると、アオは次第に居づらくなった。  明日で一週間という日、アオは屋敷を出ることをカイルに告げた。これまで世話になった礼を述べるアオに、これ以上引き止めることは無理だと悟ったカイルは、「もし何か困ったことがあったら、遠慮せずにいつでも言ってください」とまで言ってくれた。  シオンの姿は、結局あれから一度も目にすることはなかった。カイルによると、忙しいからで決してアオたちを避けているわけではないとの話だったが、それが本当の理由でないことにアオは気づいていた。  避けられている。  アオの胸に、つきんと痛みが走った。  シオンからはひどいことも言われたが、助けてもらったのもまた事実で、せめて一言礼が言いたかったが、シオンがそれを望んでいない以上無理強いはできなかった。  他人を助けることができるのは、余裕があるからだ。  アオは心の中でうそぶくと、唇をぎゅっと噛みしめた。  そのとき、つんと服の裾を引っ張られた。振り向くとリコが心配そうな眼差しでじっとアオを見ている。 「アオ? どうしたの? どこか痛むの?」 「なんでもないよ。どこも痛まない」  ーーどうせ、もう二度と会うことはない。 「帰ろう」  手を差し出すと、リコは子どものように、アオの手をぎゅっと握り返してきた。

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