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第8話
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一週間ぶりに自宅へ帰ったアオたちを待っていたものは、玄関のドアの前に無造作に積み上げられた家具や私物の数々だった。
「えっ」
そのとき、隣の家から四十代くらいの女が姿を現して、茫然と家の前で立ち尽くすアオたちに声をかけた。
「なんだ、あんたたち戻ってきたのかい。しばらく戻ってこないと思ったら、大家があんたたちの家から荷物を運び出しているから、てっきり夜逃げでもしたと思ってたよ」
「サーシャさん」
彼女は、まだ幼いふたりの男の子を持つ主婦だ。彼女の家もアオたちと同じで決して裕福ではないが、これまで兄弟だけで暮らすアオたちのことを何かと気にかけてくれた。
「・・・・・・アオ」
リコが不安そうな眼差しで、アオの腕に触れた。アオはぎゅっと唇を噛みしめた。胸の中を冷たい風が吹き抜ける。押しつぶされそうな不安を堪えつつ、アオは自分がしっかりしなきゃと、腹に力を入れた。
「夜逃げなんてしていません。ちょっと具合が悪くて、ある人の・・・・・・知り合いの家に、世話になっていただけです」
アオの言葉に、サーシャは「あちゃー」という顔になった。気の毒そうな目でアオたちを見るが、彼女に何もできないのは、お互いにわかっていた。
「その知り合いの人には頼れないのかい? しばらく世話になったんだろ?」
アオはうつむき、首を振った。
「・・・・・・知り合いと言っても、俺たちとは何も関係ない人たちだから」
「うちもねえ、余裕があるわけじゃないからねえ・・・・・・」
サーシャもまた、アオたちとはただ近所に住んでいる他人にすぎない。それでも寒空の下、アオたち兄弟を見捨てて部屋に戻るのは気が咎めるのか、その場を立ち去るそぶりは見せなかった。
「・・・・・・あの、俺これから大家さんのところにいって何とかしてもらえないか頼んでくるので、それまでの間だけでもリコを預かってもらえませんか?」
「アオ! 大家さんのところへいくなら、俺もいくよ!」
「リコはいいから、サーシャさんの家で待ってて」
恐らく話し合いは居心地のいいものにはならないだろう。リコは不満の声を漏らしたけれど、アオは聞かなかった。
「もちろんそれぐらいならうちは構わないがねえ。頼んだところであのごうつくばりがどうにかなるかねえ・・・・・・」
心配そうなサーシャに、アオは「大丈夫、何とかします」と無理矢理笑みをつくった。サーシャはちらっとアオを見ると、ちょっと待ってな、と言って一度家の中に入り、再び戻ってきた。
「これ。少ないけどね。ないよりはましだろ?」
そう言って手のひらに握らされたのは、わずかだがサーシャの家にとっても大事な金だった。アオはぎゅっと唇を噛みしめた。胸が苦しくなる。
「・・・・・・すみません、本当に。このお金は、絶対に返しますから」
深く頭を下げると、サーシャは急に自分のしたことが恥ずかしくなったのか、アオの背中を力強くたたいた。
「そんなに頭を下げられるほどたいした金額じゃないよ、いいから早くいってきな。リコはうちで預かっておくからね、心配しなさんな」
「はい」
アオは笑みを浮かべた。
そうはいうものの、決してアオにも何か当てがあるわけではなかった。
大家の部屋のドアをノックすると、薄く開いたドアの隙間から、陰気そうな老人の顔がのぞいた。大家はアオを下から上にすくうように見ると、
「おやあんたかい。約束の金は払わないし、連絡もないから、てっきり踏み倒されたかと思ったよ」
と面白くなさそうな声で言った。
「あの、そのことはすみません、ほんとに・・・・・・。でも、いまここを追い出されると、俺たちいくところがないんだ。月末には必ず滞納した分も含めて払うから、何とかここにいさせてください。お願いします」
アオは頭を下げた。
「悪いがこっちもボランティアじゃないからね」
目の前で閉じられそうになったドアの隙間に、アオはとっさに手を差し入れた。
「だからだろ! ボランティアじゃないんだったら、なおさら俺たちを追い出したら損をする!」
「・・・・・・どういう意味だ?」
老人の目はアオの言葉に疑わしそうだったが、ひとまずは話を聞いてくれそうでほっとした。
ここが正念場だ。
冷や汗が背中を伝い落ちる。アオはぐっと腹に力を込めた。内心の緊張を悟らせまいと、アオはわざと平然とした顔で笑ってみせた。
「どうせ俺たちを追い出したって、すぐに人は入らないだろ? 俺は絶対に月末には払うと言っている。たかだかあと半月だぞ? だったら月末まで待って、俺たちの家賃を貰ったほうがいいに決まってる」
どうする? それでも無理矢理追い出すか? そして、みすみす損をする?
本当は不安でたまらなかった。ここから追い出されたら、アオたちはどこへもいくところはない。そんな生活をリコにさせるのか?
冷や汗がアオの背中を伝い落ちる。
老人は忌々しそうに舌打ちした。
「月末だぞ! それ以上は一日だって待たないからな!」
目の前で勢いよくドアが閉じられる。アオはほっとして、その場に膝をつきそうになった。
よかった、これでとりあえずは首の皮一枚つながった。
けれど、これはただの気休めにすぎなかった。期日までに金が用意できなければ、アオたちは今度こそ追い出されてしまうだろう。
金だ。金がいる。アオたちがここに住めるだけの金がすぐにでも。アオはぎゅっと唇を噛みしめた。
次にアオが向かったのは、前に勤めていた工場だった。一週間前に、仕事を首になったばかりの敷地内に足を踏み入れると、作業員の中には見知った顔もあって、こいつ何しにきたんだ? という顔をアオに向けてきたが、すぐに興味を失ったように作業に戻った。
案外すんなり工場内に入れたことに内心ほっとしながら、アオはベルトコンベアの横を通り過ぎ、まっすぐに事務所へと向かう。デスクで何か書類作業をしていた工場長は、室内に入ってきたアオの姿を見るなり、ぎょっとしたような顔をした。
「な、な、な、お前何しにきたんだ! 首にしたはずだろう! いったい何の用だ!?」
「未払いの給料を受け取りにきた」
「はっ! 何バカなこと言ってる!? お前に払うものなんか何もない! さっさと帰れ・・・・・・っ!?」
工場長は、手元にあった薄い雑誌をアオに投げつけた。雑誌はアオの胸のあたりにぶつかって、バサリと床に落ちた。
「先月の給料で未払いの分があるはずだ。それから、今月も首になるまでの一週間分が」
「そんなものはない! お前に払う金などない! いいからさっさと帰れ! 通報されたいか!」
「・・・・・・いいのかよ、そんなことを言って」
アオは工場長から目をそらさず、わざと口元に薄い笑みを浮かべた。
「な、な、何がだ。一体何を言っている・・・・・・」
工場長は一歩も引く気配のないアオの迫力に呑まれたようだった。
「あんたさ、オメガの存在を嫌悪しているくせに、よく俺のこと嫌らしい目で見てたよな? それどころかこっちが我慢しているのをいいことに、好き勝手なことしてくれたよな?」
鼓動がどくどくと鳴っている。両手の平には冷たい汗が滲んでいるが、顔色には何も出していないつもりだった。
「あんたさ、俺が何も考えずにただじっと我慢していたと思ってんのかよ?」
甘いよ、とアオは笑ってみせた。
「あんたさ、奥さんと子どもがいるんだろ? あんたと結婚するような物好き、俺にはちっとも理解できないけど、女の子はまだ小さいんだってな? 大好きなパパがもし職場のオニイチャンに無理矢理性的な嫌がらせをしてたと知ったらどうするかな? あんた、この先一生大切な娘から嫌悪の目で見られることなんて堪えられる?」
工場長の顔色が赤くなり、次の瞬間すっと血の気が引いた。アオを見つめる工場長の目が据わる。
「このガキ。人が大人しく聞いていれば」
工場長はイスに仰け反ると、はっ、と鼻で笑った。その目はまるでアオを絞め殺してやろうかとでもいうかのように、ギラギラしている。
「どうせはったりなんだろ。証拠なんて何もないんだろ?」
ふてぶてしく開き直った表情は、アオの嘘を見抜いていた。
間に机を挟んで、一瞬も目を離さず互いに睨み合う。
ここで目をそらしたら自分の負けだ。
つ、とアオの背中に汗が伝い落ちた。アオはすっと呼吸を吸い込んだ。
「どうする? それに賭けてみるか?」
自分では気づいていなかったが、アオの口元に艶やかな笑みが浮かぶ。
さきに目をそらしたのはアオではなく、工場長のほうだった。男は忌々しげに唾を吐くと、事務所の奥にあった金庫を開け、そこから金を取り出した。札の枚数を碌に数えることなくアオに投げつける。
「これでいいだろ! さっさと出ていけ!」
アオは床に散らばった札を拾い上げると、一枚一枚その枚数を数えた。そのようすを男が睨みつけるようにじっと見ている。
男が投げつけた金は、必要な金額よりも十数枚多かった。
アオは内心、ほっと胸を撫で下ろしながら、多かった札を男のほうに向けた。
「これ多いんだけど、どうする? 返そうか? あ、いままでさんざん嫌がらせを受けたから帳消しなんだっけ?」
自分が首になったときに言われたセリフをそのまま返すと、男は「出ていけ!」と叫んだ。
「言われなくてもこんなとこ出ていくよ」
「二度とその顔を見せるな・・・・・・っ!」
事務所から出ると、騒ぎに気づいていた作業員たちが手を止め、アオを見ていた。その中には例のオメガ、彼の名前は何ていっただろう・・・・・・、同じく工場長に嫌がらせを受けていた気の弱そうな青年の姿もあった。
「お騒がせしてすみませんでしたー! みなさま、元気でねー!」
ぺこりと頭を下げ、ひょうひょうとした足取りで出口のほうへと向かうアオの姿を、作業の手を止めた作業員の視線が追いかける。これまで一度も話をしたことのないオメガの青年の横を通り過ぎるとき、アオは素早く彼のポケットに、さっき多くもらった札を捻り込んだ。青年はポケットの中身を確かめると、ぎょっとしたように、アオの顔を見た。
同じ境遇の青年を助けるだけの余裕はアオにはないし、こんなこと同情以外の何物でもないことはわかっている。恐らく彼はこれからもさんざん嫌な目に遭うだろうし、工場長の嫌がらせが止むとは思えなかった。けれど、このわずかな金でも、ひょっとしたら彼の助けになるかもしれない。
「・・・・・・ありがとっ」
背後から、ささやくような声が聞こえてきたけれど、アオは振り向かなかった。
その後、滞納していた分と、今月の家賃を大家に支払うと、アオの手元にはほとんど残らなかった。アオたちは家の前に積まれていた家具や私物を部屋の中へと運び込むと、ささやかな食事をとった。その夜、リコは疲れが出てしまったのか、再び寝込んでしまった。赤い顔をしてベッドで横になりながら、「アオ、ごめんね」と悔しそうに謝るリコに、アオは「大丈夫だから、リコは何も心配しなくていいから」と慰めの言葉を伝えることしかできなかった。
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