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第9話
翌日、アオはすぐに職探しに出かけた。オメガであるアオが何の紹介もなく、新しい仕事を見つけるのは厳しい。実際、仕事はなかなか見つからなかった。たとえ求人があったとしても、アオがオメガであることがわかると、すぐに門前払いを食ってしまう。何日も足を棒にして探し回り、段々と焦燥が募ると、アオの脳裏に「もうひとつの仕事」の影がちらつき始めた。おそらく以前のアオだったら、それがどんなに望まない行為であれ、仕方のないものだと受け入れていただろう。けれど、諦めようとするたびに、なぜかシオンの顔がちらりと浮かんだ。
「あともう少しだけ。もうちょっとだけ探してみよう」
アオは、自分がいったい何を気にしているのかわからなかった。もう二度と会うはずのない男を想っていったい何になるのだろう。
そうこうしている間に、街外れの産業廃棄物の処理工場で求人があると聞き、アオはようやく職を得ることができた。
その日は、北風がびゅうびゅうと吹き荒ぶ午後だった。アオはゴム手袋を外すと、両手を擦り合わせ、マスクを下げた。あかぎれだらけの指先にふうっと息を吹きかける。産業廃棄物として出されたゴミの中には、ときどき危険物が紛れていることもあるため、マスクとゴム手袋は必須だった。再びマスクを引き上げ、手袋を装着する。
シオンの屋敷での滞在から、間もなく三ヶ月が経とうとしていた。
工場での勤務は、朝の九時から夕方の六時まで。残業はそのときどきの状況によって違うが、一日を終えると腕を上げるのが億劫になってしまうほど、仕事はきつく辛かった。
屋敷で過ごした日々はすでに夢物語かと思うほどに遠く、アオの前には厳しい現実があった。
リコは、あれからもときどきカイルと会っているようだった。カイルは、自分がリコの”運命つがい”の相手であることを、リコ本人にはまだ話していないようだった。ときどきカイルから差し入れてもらった高級な食材や新鮮な果物が食卓に並んだ。
リコはカイルのことをどう思っているのだろう?
アオ自身は、リコがカイルと会うことについて、何も触れることはなかったが・・・・・・。
アオはマスクの内側で、ほうっと息を吐いた。自分の吐いた呼吸で身体がほんの少しだけ温かくなる。
リコが大人になるまで、あと少し。それまでに、リコが自分のような生活を送らずにすむよう、がんばらなければ・・・・・・。
疲労した身体に、ずん、と重たいプレッシャーがのし掛かかる。この仕事に就いてから、アオは常に身体のどこかが疲弊していた。笑顔が消えた自分のことを、リコが心配していることには気づいていたが、それを気にするだけの余裕はアオにはなかった。
アオの耳にシオンの噂話が入ってきたのは、そんなときだった。その日の勤務を終え、作業着から私服に着替えているアオの後ろで、シオン、という名前が聞こえた気がした。アオが振り返ると、普段アオと同じ作業をしている同僚の男たちが、タバコをふかしながら、一冊の雑誌を見てああだこうだと話をしていた。中心にいるのは、オメガに対して元々嫌悪感があるのか、普段からアオをよくは思っていないらしい三十代のベータの男だった。
「こいつさ、若くしてラング一族のトップなんだろ?」
「知ってるか? こいつら金持ちの資産を集めると、世界の半分と同等なんだってよ」
一人の男が、ヒュ~ッと口笛を吹いた。
「マジかよ。ちょっとでいいから、俺たちにも恵んでくんないかな」
「なんでラング一族のトップがお前に恵むんだよ」
どっと笑う声。アオは服を直しているふりをしながら、こっそりと聞き耳をたてた。
「普通はさ、一族の中でも能力が一番高いやつが後継者につくんだよ。それがさ、こいつの場合、生まれたときから周囲と比べて能力が段違いだったらしいぜ」
「ひえ~、生まれついてのアルファ様かよ。てか、お前なんでそんなこと知ってんだよ。こいつのファンかよ」
ゲラゲラと笑う仲間たちの言葉に、聞かれた男は不機嫌そうにフン、と鼻を鳴らした。
「俺じゃなくて、俺の女がこいつのファンなんだよ。もし万が一、街でばったり会う機会があったら、あんたなんかさっさと捨てて、玉の輿に乗るんだわ~なんてよ」
「お前の女だったら、玉の輿に乗るどころか相手にされずに終わるだろ」
「うるせえよ!」
仲間にからかわれた男は、面白くなさそうに、ガンッ、とロッカーを蹴った。
「でもこいつ、マジきれいな顔してんな。天は二物を与えねえってありゃ嘘だろう」
「金があるんだ。どうせ整形でもしてんじゃないのか?」
「目ん玉なんか、何色だこれ? 宝石みたいだな。ルビーってやつか?」
「ばっか、それを言うならサファイアだろ!」
「宝石のことなんか俺が知るかよ」
「一生俺たちには縁がないもんな」
「うるせえよ! 黙れ!」
思わず吹き出しそうになるのを、アオは首に巻いたショールに顔を埋めてこらえた。
「あ? こいつ何見てんだよ」
こっそり気づかれないようにしていたけれど、微かに声が漏れていたらしい。
「別に」
顔をそらし、ロッカーの扉を閉じて立ち去ろうとしたアオの進路を塞ぐように、男は腕を伸ばした。
「なーに、帰ろうとしてんだよ?」
「おい、いきなりどうしたんだよ」
険悪な雰囲気に、仲間の男たちは引き攣ったような笑みを浮かべ、冗談で流そうとした。
「こいつ、さっきから俺たちの話を盗み聞きして、ニヤニヤしてやがった」
「別にニヤニヤなんかしていない」
さりげなく横を通り抜けようとしたアオの足を、突然男が蹴りつけた。とっさのことに避けられず、アオは休憩室の床に転がった。
「・・・・・・っ」
転んだときに口の中を噛んだのか、血の味がした。
「おい、何してんだよ・・・・・・っ!?」
仲間の男たちが慌てて男を止める。
「こいつ、いつも俺たちのことバカにした目で見やがって。オメガのくせに生意気なんだよ!」
アオは舌で口の中の傷を確かめた。よかった、たいした傷じゃない。
「バカになんかしてない」
本当にそんな覚えはまったくなかった。ただ、男たちがいつも寄り集まって楽しそうにしているのを見て、仲間がいたらどんな感じなのだろうと思ったことはあるが。
「嘘つくんじゃねえ!」
男はアオの言葉にますます激昂したように、拳でロッカーを殴りつけた。
「嘘なんかついてない」
「おい、もういいじゃんか。こいつだってそんなつもりはないって言ってることだし」
「そうだよ。こんなやつに構ってないで、さっさと飲みにいこうぜ」
名前も知らない同僚のひとりがアオを助け起こし、いまのうちにいっちまえ、と目で合図する。
「お前、こないだかわいい子がたくさんいる店見つけたって言ってなかったか? いいから早くいこうぜ。こんなやつに構っていないで」
仲間たちに諭され、男はチッと舌打ちした。テーブルの上にあった雑誌を手に取ると、ぐしゃりと握り潰した。睨むようにアオを見て、雑誌を投げつける。
「さっさといっちまえ! くそオメガが・・・・・・っ!」
雑誌はアオの胸に当たって、バサリと床に落ちた。アオはとっさに雑誌を拾うと、ジャケットの中に押し込み、逃げるようにしてその場から走り去った。
周囲に誰もいないことを確認してから、アオはようやく足を止めた。
「痛ってえなあ・・・・・・」
血の混じった唾を、路地裏に吐き出す。
こんなことぐらいで傷つくなんておかしい。理不尽な目に遭わされるのは、とっくに慣れっこのはずだった。
「くそったれ」
ジャケットの中から雑誌を取り出し、手のひらで擦るようにして皺を伸ばす。
アオは、どうしてとっさにこれを持ってきてしまったのかわからなかった。自分には必要のないものだ。
さっき男たちが見ていたページを開く。そこには、約三ヶ月ぶりに見るシオンの姿があった。冷たい美貌はほんのわずかな狂いもなく、カメラのレンズ越しに他者を拒んでいるようだ。
「へへっ。相変わらず愛想がないでやんの。若きリーダーさまがいいのかよ、笑顔のひとつも見せないで」
なぜだか胸の奥がぎゅっと苦しくなった。これまで感じたことのない自分の感情に戸惑い、アオは再び雑誌を握りつぶそうとして、ーー止めた。
シオンの写っているページを破りとり、丁寧に皺を伸ばしてから折りたたんでポケットにしまった。その理由を、顔見知りのやつだから捨てるに忍びないだけだ、と自分に言い訳をして。
落ち葉を踏みながら、アオは自分が鼻歌を歌っていることにも気づいていなかった。最近、あまりリコに構ってやれなかったことを思い出して、せめてもの罪滅ぼしに、好物のリンゴを買って帰ろうとスーパーへ向かう。
生鮮食品売場で、青と赤、どちらのりんごもおいしそうで、少しだけ迷った。結局両方ともカゴに入れ、ついでにきょうとあしたの分の食材も買って、スーパーを出た。
ちょうど帰宅時間ということもあって、夕闇に沈む街には人が多かった。ひとり家で留守番をしているリコの元へと急いで帰ろうとしたそのときだった。
どくん。
心臓を拳で叩かれたような衝撃があった。カッと身体中の血が沸騰するようだった。
「あ・・・・・・」
手から離れ落ちた袋の口から、リンゴが地面を転がっていった。冷や汗がびっしょりと全身を覆う。アオは手で胸を押さえ、その場に膝をついた。
どくん。どくん。どくん。
ーー発情 だ。
どうして、と考えるだけの余裕はなかった。本来なら発情期まではまだしばらくあるはずだった。
喉がカラカラに乾く。目がとろんとして、身体が熱を帯びる。
「あぁ・・・・・・っ」
誰かの精を内側に取り込むため、自分の身体から誘うような甘い花のような匂いが放たれているのがわかる。
「オメガだ・・・・・・っ!」
「なんでこんなところに?」
「まさか発情しているのか・・・・・・?」
あ・・・・・・っ。
人々の目が吸い寄せられるようにアオに向く。その目には理性を失ったような光が浮かんでいる者もあった。
怖い・・・・・・!
恐怖なのか、それとも発情のせいか、身体がガクガクと震える。全身から汗が吹き出すたびに、匂いはますます濃くなっていくのがわかった。アオの発情に誘発されて、周囲の人間たちがじり・・・・・・、と近づいてくる。
嫌だ。怖い。怖い。誰か助けて・・・・・・っ!
アオは両手で自分の身体を抱きしめるように、ぎゅっと小さくなった。そのときだった。
「このバカが!」
ーーえ・・・・・・?
ひどく懐かしい声を聞いたと思ったら、突然何か布のようなものを頭からかぶせられる。次の瞬間、両脚をすくい上げるようにふわりと身体を持ち上げられた。頭にかぶせられた布が少しだけずれて、その端正な顔を珍しく歪ませているシオンの姿が目に入る。
シオン? どうして・・・・・・?
「カイル!」
「わかっています!」
シオンの鋭い声が聞こえた後、太股のあたりにチクリ、と鋭い痛みが走った。身体に何か液体のようなものを注入される。液体の正体が特効薬だ、と気づいた瞬間、アオは焼けつくような激しい痛みに襲われた。
「ーーーーー・・・・・・っ!」
特効薬は劇薬なため、当然のことながらその副作用も強い。ちょっとでも気を抜けば痛みに苦痛の声を上げてしまいそうで、アオはぶるぶると瘧のように身体を震わせながら、唇を噛みしめ、必死に悲鳴を堪えた。
「痛みがひどいなら、我慢しなくていい」
まるで小さな子どもをあやすように、布越しにぽんぽんと頭の後ろをたたかれる。
シオン。シオン。シオン・・・・・・!
堪えきれない身体の痛みと、心の一番深く柔らかいところを不意打ちのように思いがけないやさしさで包み込まれ、これまで必死に押し込めていた感情のダムが、あふれるように決壊する。
シオンの顔を見てほっとした瞬間、アオは自分の感情に気づいてしまった。これまで自分がどれほどシオンに会いたいと願っていたことに。
こんなに嫌なやつなのに。自分とは全く住む世界が違うのに。
けれど心を覆っていた鎧が剥がれたいま、アオの心はこんなにも脆かった。アオは自分を抱き止めてくれているシオンの首に、ためらうようにその腕をまわした。
アオの頬に、ぽたりと滴のようなものが垂れた。不思議に思ったアオが顔を上げると、シオンの額にびっしょりと汗が滲んでいるのが見えた。その表情は何かの衝動を必死に堪えているかのようだ。
え・・・・・・?
「カイル、頼む・・・・・・」
すぐ耳元で苦痛の滲むシオンの声が聞こえ、カイルの腕の中へと受け渡たされる。
やだ。なんで・・・・・・っ?
アオは無意識のうちに、空いた手をシオンのほうへ伸ばしていた。
「あなたとシオンとでは親和性が高すぎるのですよ。たとえ特効薬を打ったとしても、いまの時期のあなたの匂いは、シオンには毒すぎます」
親和性・・・・・・?
きっと縋るような眼差しをしていたのだろう。空をつかんだアオの手を、なぐさめるように上からぎゅっとカイルの手に包まれた。
「本当だったらシオンに限らず、アルファの私でも相当きついんですがね、シオンに比べたらまだマシなので・・・・・・」
そんなの知らない。わかんない。
痛みで意識が朦朧としているせいで、アオは自分が子どものようになっていることにも気づかなかった。何かを言おうとしたアオの目の上を、カイルの大きな手が覆い隠すようにそっと塞ぐ。
「眠りなさい。辛いでしょう。目が覚めたら、いまよりは少しだけマシになっているはずですよ」
嫌だ、眠りたくない。
「リコのことは心配しなくて大丈夫。あなたを屋敷に連れていったら、ちゃんと迎えにいきますよ」
俺のことは大丈夫だから。こんな痛み、なんてことないはずだから。だから、ねえ、お願い、眠らせないで・・・・・・。
けれどアオの身体は限界を感じて自動的にシャットダウンするように、深い闇の底へと落ちていった。
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