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第10話

 三日三晩アオはうなされるほどに苦しんだ。意識が混濁するなか、ときどきふっと眠りから覚めることがあって、そのたびにリコがアオの手をぎゅっと握りしめてくれた。 「アオ、大丈夫? 苦しい? 何かほしいものある?」  アオは頭を振ると、再びすうっと吸い込まれるように眠りへと落ちていった。  四日目の朝、目が覚めるとほんの少しだけ身体は楽になっていた。顔を横に傾けると、リコがアオの手を握りしめたまま、すうすうと規則正しい寝息をたてていた。  リコを起こさないよう、アオはわずかに上半身を起こした。とたんにくらりと目眩して、ほとんど何も入っていない空っぽの胃の中から、ぐっとせり上がるものがあった。アオは何度も唾を飲み込んで、それをこらえた。そうしてようやく吐き気が落ち着くと、リコの肩にかかっていた毛布がずり落ちそうになっているのを、そっと手で直した。  パチリ、と微かに木の爆ぜる音がした。夜明け間際のこの時間、気温はぐっと下がっているはずなのに、暖炉に火が入っているせいか、室内は心地よい温度に保たれていた。   周囲のようすを窺うまでもなく、アオはここがシオンの屋敷であることに気がついていた。部屋の間取りも調度品も、確かに見覚えがある。ここは、以前滞在したときと同じ部屋だ。  どうしてここに、と疑問の余地はなかった。倒れる前のことはうっすらとだが覚えている。街中で突然発情期がきてしまって、危ないところをまたシオンに助けられたのだ。シオンの顔を見た瞬間、なぜだか安心してしまって、そのあとの記憶はあまり定かではないが・・・・・・。  そのとき、うーん、とリコが身じろぎした。まだ眠そうな目をぱしぱしとまたたいて、アオに気がついた。その目が大きく見開かれる。 「アオ、起きた!」  リコはうれしそうに声を上げてから、自分の声が室内に響いてしまったことに気がつき、慌てたように口を両手で塞いだ。 「ごめん」  申し訳なさそうに小さな声で謝るリコに、アオは首を振った。ここにくるまでのことを訊ねようとして、声が掠れていることに気がつく。リコは、待ってて、と呟くと、テーブルの上にあった水差しからガラスのコップに水をそそいで、アオのところへと持ってきてくれた。 「はい、ゆっくり飲んで」  喉を伝う冷たい水が気持ちよかった。水を飲んでいる間、リコがアオの背中を支えていてくれた。 「・・・・・・またシオンに助けられたんだよな?」  確かめると、リコはこくんとうなずいた。 「スーパーの前で倒れたところをたまたま通りかかったんだって。アオ、発情期がきちゃって、自分では動くことができなかったんだって? あと少し遅かったら大変なことになっていたって・・・・・・」  リコの目にうっすらと涙が滲んでいるのを目にして、アオは舌打ちを打ちたい気分になった。  その話を誰かから聞いたとき、リコはさぞや心配し、胸を痛めただろう。  助けてもらったことには感謝するが、まったく関係のないリコにまで詳しい話をすることはないじゃないかと、アオは身勝手にも腹をたてた。 「心配かけてごめん」  アオが謝ると、リコは慌てたように頭を振った。 「ううん、ううん。全然、全然! アオに何もなくてほんとよかった!」  リコは瞼を手で擦ると、うれしそうに笑った。  アオは部屋の中に視線をめぐらせた。広い客室はしん、としていて、アオとリコ以外誰か人のいる気配は感じられなかった。ただパチパチと薪の爆ぜる音が聞こえてくる。  アオは知らずのうちにがっかりしていた。どうやら自分は目が覚めたら、その場にシオンがいるものだと思い込んでいたらしい。いったいどうしてそんなふうに考えたのだろう、そんなことあるわけはないのに。心のどこかでがっかりしている自分に気がつき、アオは嘲笑した。  リコはそんなアオの気持ちを見透かしたように、イスの上でお尻をもじもじとさせていた。 「あ、あのね、シオンとカイルはアルファだから、この部屋に入るのは危険なんだって。本当はふたりもアオのことを心配していたんだよ?」  リコから気を遣われていることがわかって、アオは申し訳ない気持ちになった。 「特効薬って、普通の抑制剤よりも強いんだね。こんなに具合が悪そうなアオ見たの初めてで、何度かお医者さんが診てくれたときに、大丈夫だからって言われても、ずっと意識が戻らないから、すごく怖かった・・・・・・」  リコはふっと顔を曇らせると、アオの手をぎゅっと握りしめた。 「ずっと・・・・・・? ・・・・・・ずっとって、いま何日だ?」  アオはハッとなった。  倒れてからすでに三日も経っているとリコから聞き、アオは真っ青になった。 「仕事・・・・・・っ!」  ようやく苦労して見つけた仕事なのに、三日間も無断欠勤したら間違いなく首になってしまう。  慌てるアオに、リコは平然とした顔をしていた。 「大丈夫、目が覚めたらアオがきっとそう言うだろうって、カイルが連絡をしてくれたよ」 「カイルが?」 「うん」  リコの言葉に、アオはほっとした。 「本当は、アオは別の仕事をついたほうがいいって・・・・・・。俺もそう思うけど・・・・・・」  リコが言いづらそうに、もごもごっと口ごもる。  確かにアオの勤める職場がどこなのかは、リコに聞けば簡単にわかることだ。けれど、たかが一人のオメガの仕事がどうなろうと、カイルには関係のない話だ。細やかな気遣いを見せてくれたことに、アオは感謝していた。一見怖そうに見えるあの男が、実際は人が好く、アルファらしい傲慢なところが一切ないことに、アオはとっくに気づいていた。そんな相手がリコのつがいの相手であることに、アオは感謝するべきなのだろう。  アオは、にわかにリコがこの状況についてどう思っているのか気になってきた。この状況とはつまり、自分たちがシオンの屋敷で世話になっていることだ。普通だったら何の関係もない赤の他人であるアオたちに、彼らがここまでする理由はない。  リコは、カイルが自分のつがいの相手であることを、まだ告げられてはいないようだった。仮にその事実を知ったとき、リコはどんなふうに感じるのだろう。否応なしに自分に降りかかる運命を、果たして受け入れることができるのだろうか。 「あ、あのさ、リコはカイルのこと、どう思う?」  アオとしては、リコがカイルに対してどんな印象を持っているのか訊ねたつもりだった。ところがリコは、なんでそんなことを訊くんだろうと一瞬きょとんとした顔をしてから、 「カイルって、たぶんだけど、俺のこと好きだよね。ねえ、アオもそう思わなかった?」  あっけらかんと訊くので、アオはびっくりした。 「えっ! す、好き、好きって・・・・・・、どうして思うんだ・・・・・・!?」  思わず動揺するアオに、リコは目をまん丸くしてから、おかしそうにくすくすと笑った。 「だって、一見表情は変わってないように見えるけど、俺と話をしているとすごくうれしそうなんだもん。やけにじっと人の顔見てることもあるし。こっちが何も頼んでいないのに、あれこれ気をまわしてくれるのは助かるけどさ。正直、アルファっぽくはないよね、あの人。なんていったっけ、もうひとりの人・・・・・・そうだシオンだ! あの人はもろに偉そうで、アルファって感じだったけどさ」  リコの口からシオンの名前が出てきて、アオはどきっとした。けれどいまはそんなことはどうでもいいのだと、アオはすぐに考え直した。それよりもリコだ。思ってもみなかった弟の姿に、アオは驚きのあまり言葉も出てこない。  リコって、こういうやつだったか・・・・・・?  思わずじっと眺めると、アオの視線に気がついたリコが、気まずそうにもじもじとした。 「・・・・・・だって、これまでずっと俺はアオにとって足手まといだったから。アオが俺のことを守ってくれているみたいに、俺だってアオのために何かしたいと思ってた。カイルが本当に俺のことが好きで、それがアオの役に立つなら、俺はいくらだってカイルに媚びてやる。カイルを利用してやる。そんなことなんてことない・・・・・・!」 「リコ・・・・・・!」  アオはぎょっとした。目を大きく見開き、茫然とリコの顔を見つめる。  瞳に思いつめたような昏い光を滲ませ、引き攣ったような笑みを浮かべるリコは、けれどまるで泣くのを我慢している子どものような途方に暮れた顔をしていた。  アオは唇を引き締めた。リコに、弟にこんな表情をさせているのは自分だと思った。 「リコ」  もう一度その名前を呼ぶと、アオを見たリコの瞳が迷うように揺れた。 「こっちへきて」  手を差し伸べると、最初は躊躇うように、けれど必死にその手を握り返してきた。アオを見つめるリコの瞳の奥に、微かな不安が見え隠れする。その昏い光を見た瞬間、アオの胸はぎゅっと痛んだ。胸に感じた痛みをリコには悟られないよう、アオはそっと深呼吸した。 「リコは足手まといなんかじゃない。一度だって、そんな風に思ったことなんてない」  リコの瞳に、縋るような光が浮かぶ。その光は、アオの言葉を信じたい、と必死に告げていた。 「アオ・・・・・・」  ・・・・・・ほんとに?  言葉にならないリコの声が聞こえるようだった。アオはにっこりと笑った。心細そうに自分の手を握り返すリコの手に、そっと力を込める。 「本当に」  ーーうそつき。  深い闇の底から、ねっとりとアオに囁きかける声がする。その声は、本当に一度もそんなふうに思ったことはなかったか、とアオに問いかける。 「リコ、聞いて? リコは足手まといなんかじゃない。俺の、大切な弟だ。たったひとりの、大事な家族だ。だから、そんなことこれっぽっちだって考えちゃいけない。人の気持ちを利用するなんて言ったらだめだ」  リコがきゅっと唇を噛みしめる。  その瞳には、だけど・・・・・・、というリコの逡巡が見えるようだった。本来のリコは素直な性質だが、ときどきこうやって強情な部分を覗かせることがある弟に、アオはふっと瞳をゆるめた。 「俺は、リコがいてくれてよかったよ。お前の存在が、俺や、父さんや母さんにとって、どんなに大切だったかわかるか? 大好きだよ、リコ。俺は、誰よりもお前に幸せになってほしいんだ」 「アオ・・・・・・」  リコは握っていた手を離すと、アオの首にぎゅっと抱きついてきた。柔らかいリコの髪の毛が、アオの頬のあたりをくすぐる。子どもの頃から、何度自分たち兄弟はこうやって互いを慰め合ってきただろう。  ほっとしたように自分に甘えるリコの背中を、アオは慰めるようにぽんぽんと軽くたたいた。  ーーうそつき。  ふふっと、闇の中でアオを嘲笑する声が聞こえた。それは誰でもない、自分自身の声に聞こえた。  ーーお前はうそつきだね。人の気持ちを利用しちゃいけないだって? 平然と自分の身体を売っているお前が、いったいどんな顔して言えるんだろうね。リコにも言えるのか? お前は俺が身体を売ってきたおかげて、これまで満足に食べることができたんだ、生きてこられたんだって。  その声は、アオの心に毒を一滴垂らしたみたいに、じわじわと蝕んでいく。  うるさい。うるさい。うるさい。黙れ・・・・・・っ!  アオの胸の奥には、普段は決して目に入らない、その存在があることすら忘れている、禁断の箱がある。アオはその箱に頑丈な鍵をかけて、分厚い布で目隠しをしている。まるでそんな箱など最初から存在していないかのように。 「・・・・・・アオ、好き。大好き・・・・・・!」 「俺もリコが大好きだよ」  じわりと胸の中に広がりそうな昏い思いを振り払いつつ、アオはリコの後頭部に顔を埋めた。

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