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第21話

 それから数日は、何事もなく過ぎていった。  それまで休むことなく毎日庭に顔を出していたマリアは、あれから一度もその姿を見せなかった。あるとき、アオはカイルをつかまえてマリアの具合を訊ねたが、彼の話では問題ないとのことだった。ただ、まだ少しだけ混乱しているから、休養が必要なのだと。  マリアとのことでシオンと小さな言い争いをしてから、アオは再び彼に避けられている。  アオは作業の手を止め、はあ、とため息を吐いた。マリアが姿を現さなくなってから、習慣になっていたティータイムは一度も開かれていない。何もかもすべてが変わってしまった。 「アオ。手が止まってるぞ」 「あ、ごめん」  アンリに注意されて、アオは慌てて手を動かした。あれから変わった出来事があるとすれば、それはアンリのことだ。それまでは庭仕事の指示を出す以外は無駄口をいっさいたたかず、アオの存在などまるで空気か何かのように扱っていたアンリが、作業の合間にほんのわずかな会話を交わしてくれるようになったのだ。  風が髪をなぶり、アオは手を止め、空を見上げた。雲がものすごい早さで流れてゆく。  夏咲きの球根の植え付け作業が一段落ついた後、アオとアンリは休憩にした。アオは保温ポットから紅茶を注ぐと、カップをアンリに手渡した。マリアがいたころのようにティータイムのお菓子はない。 「・・・・・・アンリはさ、マリアの相手のこと、知ってるの?」  アオの質問に、アンリはちらっと視線を向けた。 「何でそんなことを訊く」  嘘やごまかしはいっさい利かないという鋭い目に、アオは責められている気がした。 「俺さ、マリアがこないだ泣いたとき、思ったんだ。オメガって、俺たちっていったい何なんだろうって。ほら、世の中さ、アルファが中心の世界じゃん? オメガに生まれた時点で、ほとんどの場合は俺たちに選択肢なんてないんだ。でもそれってなんで? おかしくない? なんで俺たちばかりが我慢しなきゃなんないの?」  これまで疑問に思っていたこと、心の中にわだかまっていた怒りや不満が堰を切ったようにあふれ出す。  そんなんずりいよ。なんで? なんで俺たちばっかりが・・・・・・。  アオは顔をぐしゃりと歪めた。胸の奥底にあるのは深い悲しみだった。これまでずっとアオは堪えてきた。オメガであること。当然のことのように、社会から差別されること。だって、言っても仕方がないことだから。世の中そういうふうにできているものだから。それが決まりだから。アオが何を言ったって、叫んだって、誰ひとり聞いてくれない。オメガに生まれたときに、アオの運命は決まってしまったから。オメガであることなど、アオ自身は一度だって望んだことなんかなかったのに。  でも、なんで? なんで俺たちばかりが我慢をしなきゃいけない・・・・・・?  アンリは、じっとアオを見ている。 「・・・・・・マリアに起こった出来事は、ひどいことだと思う。でもさ、マリアは無理矢理つがいにされた相手に、いまでも囚われている。相手はとっくに死んじまってんのにさ、いまでもまだ苦しんでる。そんなひどい相手なのに、自分が何か大事なものをなくしたんじゃないかってさ。それって、不幸だ」  アオは、アンリを見てきっぱりと言い切った。 「マリアは一度過去を認めないと、きっとずっと苦しいままだ。そりゃあもちろん、実際に知ったときのショックは大きいかもしんないけどさ、マリアにはカイルや、シオンや、アンリや、俺たちがいる。マリアのそばにいる。・・・・・・このままじゃマリアがかわいそうだ」  この先ずっと喪失感を抱えて、自分が何をなくしたのかもわからないで。もし、俺だったらそんなのは嫌だ。耐えられない。でも・・・・・・。  アオの胸の中に、迷いが生まれる。でも、もしそれがアオの勘違いだったら? 知らずにすむことが、マリアが幸せだったら・・・・・・? 「シオンにも言われた。俺には関係ない。よけいな口出しはすんなって」  そのとき感じた痛みが甦り、アオは唇を噛んだ。自分でもなんて説明をしていいかわからずに、もどかしい。 「・・・・・・アンリは、アンリはどう思う? 俺、学校いってないし、頭よくないからわかんないけど、やっぱりシオンの言ってることのほうが正しいと思う?」 「・・・・・・わしにはわからん」  アンリが腰を上げる。その場から立ち去る気配を感じて、アオは慌てた。 「アンリ・・・・・・っ!」 「・・・・・・二年前の冬。ヴェニグマ旧市街で通行人四人を巻き込んだ悪質な自動車事故があった。そのとき、二人の人間が亡くなっている。五歳の男の子を庇った両親が、即死でな。加害者は酒に酔っての居眠り運転だった。誰が見てもその男に非があるのは明らかだったが、そいつの親が警察関係者のお偉いさんでな、我が子かわいさに事件を揉み消そうとしたのだよ。・・・・・・結局は無駄だったが」 「なんだよそれ・・・・・・」  ひでえ、という言葉がアオの口から漏れた。アオたちの両親も、似たような事件で亡くなっている。そのときの加害者は、まだ十六歳の少年だった。 「・・・・・・マリアにとって一番何がいいかなんてわしにもわからん。だが、わしはもう嫌なんだよ。マリアのあんなつらそうな姿を見るのは・・・・・・」  アンリの表情には、苦悩と疲労が滲んでいた。小柄な老人は、一気に歳をとってしまったように見えた。肩を落とし、庭から出ていくアンリにかける言葉はアオには見つからなかった。  その日の夕食後、アオはカイルに頼んでノートパソコンを借りた。できればリコのいないところで調べたくて、けれど同じ部屋を使っている以上それは難しかった。アオが図書室を使いたいと言うと、カイルは不思議そうな顔をしたものの、すぐに了承してくれた。  窓の外は夜の帳が降りている。樹木の枝は窓に打ちつける勢いで、風に揺れていた。  おおよその時期とヴェニグマ旧市街という場所、自動車事故、それから四人の死傷者という検索キーワードで、問題の記事はすぐに見つかった。記事自体は短く、事件の概要と男女ふたりがその事故で亡くなったということしかわからなかったが、もう少し詳しく調べてみると、個人向けの情報サービスの中に、事件を起こした加害者の知人らしき人の書き込みを見つけた。それによると、加害者の男はヴェニグマ墓地に埋葬されているとのことだ。  知りたかった情報を見つけたいまも、アオはこのことをマリアに伝えるべきか迷っていた。  翌朝。アオは、カイルにマリアの見舞いにいきたいことを伝えた。ひょっとしたら断られるかと思っていたが、カイルは拍子抜けするほどあっさりとアオの頼みを受け入れてくれた。 「マリア。入るぞ」  カイルがノックをし、ドアを開ける。水色の壁紙に、落ち着いた色合いの花柄のベッドカバーと、ピンク色のカーテン。少女らしい部屋だった。ベッドの中で枕を背に本を読んでいたマリアは、カイルに続いて部屋に入ってきたアオに気がついて、目を見開いた。 「アオ! わ~、どうしたの? ずっといけなくてごめんね。作業をアオたちにまかせっぱなしになってたこと、気になってたの!」 「具合はどうだ?」  思ったよりも元気そうなマリアのようすにほっとして、アオはベッドに近づいた。 「もうね、全然だいじょうぶなんだよ~! なのに、シオンがまだベッドから出ちゃいけないって言うから。毎日時間が長くて、超たいくつ!」 「それは、マリアのことが心配なんだろ」 「わかってるけどさ~!」  本人の言葉どおり、よほど退屈だったのか、マリアは憤慨したようすを見せたが、アオが身体の後ろに隠そうとしたものを目ざとく見つけて、うれしそうに、ぱっと瞳を輝かせた。それは、さっきアオが庭で摘んだデイジーの花だった。  数日前に開いた花は、昨夜の強風に散ってしまったと思ったが、朝早くアオが確かめにいくと、前日と変わらない姿で風に揺れていた。可憐な花を見ていたら、アオはマリアが喜ぶかと思ったのだ。けれど、部屋に置いてある立派な花瓶に活けられていた花を見て、アオは急に恥ずかしくなった。 「それ、もしかしてわたしに?」 「あ、ああ。でも、このまま持って返るよ・・・・・・」 「どうして? アオがわたしに持ってきてくれたんでしょ?」 「それはそうだけど・・・・・・」  不思議そうなマリアに、アオはもじもじとした。ちらっと横目で花瓶と見比べる。花瓶に活けられている豪華な花に比べて、自分が摘んできたデイジーのなんて見劣りがすることか。そう、例えるならば、目の前にいる少女とアオくらいの差があった。こんなものを喜ぶと思ったなんて、まるで子供騙しだ。アオは、かあっと赤くなった。  やっぱりこれは持って帰ろう。 「お兄ちゃん、グラス、グラスを持ってきて」  マリアの言葉に、カイルがバスルームへと向かう。 「や、マリア。見舞いの花なら、また今度、バラとかもっと立派なやつを持ってくるから・・・・・・っ」 「アオ」  慌てるアオに、マリアは顔をしかめた。 「アオは、デイジーとバラに優劣をつけるの? バラに比べて、デイジーはみっともないと思ってる?」 「いや、そうは思わないけど、でも・・・・・・」 「アオ!」  マリアの目がまっすぐにアオを見た。 「わたしはデイジーも、バラも、どっちも大好き。摘んできてくれてありがとう」  差し伸べられた手に花を渡すと、マリアはそれをカイルが水を汲んできてくれたグラスに挿した。 「かわいい」  マリアが指で花弁にそっと触れると、花は答えるように、かすかに揺れた。 「うん・・・・・・」  アオは恥じらうように小さくほほ笑んだ。  マリアは、ぽんぽんとベッドの端を軽くたたいた。 「ここ、座って。わたしがいけなかったここ数日間、何があったかおしえて」 「えっ! いいよ」  ぎょっとしたアオが慌てて身体を引こうとするのを、マリアが不満そうな声を漏らす。 「え~、なんでよ~? ほら、早く、早く!」  アオはさすがにカイルが止めるだろうと思った。だがカイルは穏やかな表情で、そんなアオたちを眺めているだけだ。  ・・・・・・えええ~?  アオは真っ赤な顔でもじもじっとした。こういう態度をとられることは慣れてはおらず、いったいどんな反応をしていいかわからない。マリアが期待のこもった目でじっと見ているので、アオは内心でリコと一緒だと思おうとした。 「お、お邪魔します・・・・・・」  聞こえないくらいの小さな声で呟いて、アオはちょこんとベッドの端に腰を下ろした。 「えへへへへ~」  何が楽しいのか、マリアがうれしそうに笑う。ここへきて、アオの中で迷いが生まれていた。無邪気に笑う少女を見ていると、シオンの言葉が正しいように思えてくる。このまま、知らずにすむのなら、そのほうがいいんじゃないだろうか? 傷つくとわかっていて、あえて真実を告げる意味があるのだろうか? それに第一、カイルがいる場所では話せないと、アオが考えたときだった。 「それじゃあ、私はそろそろいきますね。マリア、あまりアオにわがままを言ってはいけませんよ。アオ、マリアをお願いしますね」 「えっ!」  思わず声を上げたアオに、部屋を出ていこうとしていたカイルは足を止めた。 「何か?」 「や、何でもない!」  アオはぶんぶんと頭を振った。カイルはまだ不思議そうな顔をしていたが、それ以上問いつめることはなく、そのまま部屋を出ていった。 「はあ~」  アオは一気に脱力した。それ以上は何も考えられないとばかりに、ベッドの上に頭を伏せる。  マリアがくすくすと笑った。 「変なアオ」  マリアの指がそっとアオの髪を撫でた。  胸の中がくすぐったいような、おかしな気分だった。マリアもカイルも変だ。生きるため、これまでアオは人に誇れるどころか、蔑まされても当然な生き方をしてきたのに、まるで許されているような気がする。ここにいてもいいのだと勘違いしそうになる。  シオンだってそうだ。初めて会ったころは、軽蔑を隠そうともしていなかったのに、いまではそんなアオを受け入れてくれるような錯覚さえ抱いてしまう。  マリアが髪を撫でてくれる感触があまりに心地よくて、アオはうっとりと目を閉じてしまいそうになる。だから、マリアが自分の名前を呼んだとき、アオはすっかり油断しきっていた。少女の声にわずかな緊張が混じっていることにも気づけないほどに。 「アオ」 「・・・・・・ん?」 「アオは何か知ってる? わたしのこと。みんながわたしに隠そうとしていること」  アオは、はっと身体を起こした。 「か、隠そうとしてるって何が? マリア何のことを言ってんだ?」  マリアにすべてを話すつもりできたのに、いまのアオにはそれが正しいことなのかわからなくなっていた。  マリアがじっとアオを見ている。すべてを見透かすような瞳に、ああ、アオもか、という諦めの色が滲んだ。その瞬間、アオの胸はずきっと痛んだ。  誰にだって自分が知りたいと思うことを知る権利はある。他人にどうだと勝手に決めつけられることの苦痛を、アオは誰よりもわかっていたはずなのに。 「・・・・・・マリアは、知りたい? たとえばそれで傷つくことになったとしても」 「知りたい」  マリアはきっぱりとうなずいた。その瞳には、迷いのかけらもなかった。  アオがマリアに真実を告げたとしたら、シオンはきっと自分を許さないだろう。それは、いまのアオにとってはとても怖いことだった。 「いいよ。俺が知ってることは教えてあげる」  取り返しのつかない予感を抱きつつ、アオは覚悟を決めてうなずいた。

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