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SS②

 カイルから「これはどうだ?」と訊かれたリコは、う~ん、と唸った。カイルが指しているのは生後一ヶ月の新生児から使用できるベビーカーで、超軽量というだけでなくハイシートになっているため、赤ちゃんの乗り降りや世話がしやすいという人気のタイプだ。 「悪くはないけど、ベビーカーはもうすでにシオンが注文していた気がする」  リコの言葉に、カイルはそうかと自分の提案を退けた。 「そしたらこれはどうだ。無織糸……無織糸ってなんだ? とにかく、バスポンチョセット。帽子がクマになっていて、バスミトンとハンドタオルがセットになっているらしいぞ」 「そんなの、シオンがもう五十セットくらい用意しているよ!」 「そうか……」  休日のショッピングモール。客が賑わうギフトショップの中で、ふたりは再びう~ん、と頭を悩ませる。リコはカイルと一緒に、もうすぐ生まれるアオの子どもへの贈り物を探しにきていた。 「もう! それもこれもシオンが悪いんだよ! バカみたいに広い部屋を赤ちゃん用に改装したと思ったら、山のように贈り物を買ってるんだもん! しまいにはあれもこれもと買いすぎて、アオに怒られてるの、いい加減にしろってさ。おかげで俺たちはアオへの贈り物にこんなに頭を悩ませるはめになる。何もかもすべてシオンが準備しちゃったから、もう足りないものなんてないんだもん!」  人混みでの疲れもあって、ついに苛立ちを爆発させたリコに、カイルはちょっとこっちへとベンチに誘った。 「ほら」  カイルから手渡されたものは、すぐ近くのスタンドで買ってきたカップ入りのジェラートだった。淡いピンク色をしたジェラートに、乾燥したイチゴのトッピングが散らされている。なんだか子ども扱いされているようで面白くないが、ジェラートに罪はないので、リコは素直にぺろりと舐めた。うん、イチゴ味だ。果肉が入っていて、とてもおいしい。 「シオンはうれしいんだよ。アオと出会うまでは自分の子どもをつくる気なんてなかったから、もうすぐ子どもが生まれることも、山のように贈り物を買ってアオに怒られるのも、すべてがうれしくてたまらないんだ」  だから大目に見てほしいというカイルの従兄弟への愛情が伝わってきて、リコは黙々とスプーンを口に運ぶ。 「そりゃ、わかるけど……」  わかるけど、イライラする気持ちがおさまらないのだ。  リコの表情から納得していないのがわかったのか、カイルはその瞳をゆるめると、「どうした?」とやさしく訊ねた。 「……どうしたって、何が?」 「最近のリコはずっとイライラしている。大好きなアオがシオンに取られて寂しいか?」 「……そんなことないけど」  まったくないとは言わないけれど、それだけが理由じゃない。むすっとした顔のまま、不機嫌そうにうつむくリコに、温厚なカイルは困惑を滲ませた。 「だったらなんだ? なぜそんな顔をしている? いったい何が気に入らないんだ? リコは理由もなくワガママを言うような子どもじゃないだろう?」  心配そうな表情は決してリコを責めてはいないのに、まるで小さな子どもを相手にするようなカイルの態度に、リコはカチンとなった。 「……たようなこと言うな」 「え?」 「わかったようなこと言わないでよ! ーー俺、先帰るっ!」  リコは食べかけのジェラートをカイルに押しつけると、驚くカイルをその場に残して、逃げるように駆け出した。  急に走ったので、心臓が苦しくなってしまった。ドキドキと早鐘を打つ胸のあたりに拳を押し当て、リコは空いているベンチに倒れ込んだ。 「くっそ……」  こんなことぐらいですぐに悲鳴を上げる貧弱な身体が悔しい。物心ついたころからリコは身体が丈夫ではなく、普通の人だったらなんてことのないただの風邪でも、実際に何度か死にかけた。  自分が両親やアオとは血の繋がりがないことを知ったのは、三歳のときだ。きっかけは、口さがない近所の噂話で、それまでまったく疑ってもいなかったリコはショックで茫然となった。  ぼくは、「おめが」だからほんとうの両親に捨てられちゃったの……?  目の前が一瞬真っ暗になって、胸の中は悲しみと恐怖と不安でいっぱいだった。  ぽろぽろとリコの目から涙が零れる。  自分が「ほんとうの家族」でないのなら、いまの家にいてはいけないんじゃないかと、リコが思ったときだった。  背後から疾風のような何かがリコを追い抜いていったと思ったら、それは噂話をしていた近所の主婦たちに食ってかかった。 「リコはいらない子なんかじゃない! おれの大事な弟だ! 何もかんけーないくせに、勝手なこと言うな!」  年齢も、背丈も相手には敵わない小さなアオが、ぴんと背筋を伸ばして、主婦たちをまっすぐに見上げている。それから、気まずそうな彼女たちをその場に残して、小さく震えているリコの元へと戻ってくると、その手をとった。 「リコ、大丈夫?」  リコの顔をのぞき込む顔のアオの瞳は心配そうで、指先はかすかに震えていた。  あ……。  リコは呼吸を飲んだ。 「かえろ?」  そのときにっこりと笑ったアオの顔を、リコは一生忘れることはできないだろう。アオは空いているほうの手でリコの涙をそっと拭うと、困ったように首を傾げた。 「……リコ?」  労るような、心配そうなその声からは、疑いようもないリコへの愛情が伝わってきて、リコはこくりと頷いた。  家に帰って、アオから話を聞いた母は、目を真っ赤に腫らしたリコを見ると、何も言わず抱きしめてくれた。温かく力強い腕の中に包まれていると、胸の中のダムが壊れて、せっかく止まった涙が再びあふれた。  ぼくはここにいてもいいんだ……。  胸の中に浮かんだ思いは、それまで自分なんかいてはいけないんだと思っていたリコを温かく包み込み、あふれるほどの愛情で満たしてくれた。 「おれも! おれも!」  両手を前に伸ばして、自分もとせがむアオごと、母は抱きしめてくれる。リコは躊躇いがちに母の背に手を伸ばすと、服の表面をきゅっと握りしめた。そのとき、母の腕の中で、隣にいたアオと目が合った。髪の毛は天使みたいにくるくるとして、まるで宝石みたいなきれいな緑色の瞳が、リコを見つめてキラキラと輝く。 「これからはおれがリコを守るから! もう絶対、泣かせたりしない。だって、おれの大事な弟だもん!」  リコはぱちぱちと瞬きをした。 「……ぼくも、ぼくもアオを守るから」  震える声で勇気を出してリコが告げると、アオは口を横に引いて、にいっと笑った。その後、母が作ってくれたホットケーキを、リコたち兄弟は口の周りをシロップでべたべたにしながら、お腹いっぱい食べた。  あの日きっと、リコは本当の意味で、アオたちの「家族」になったのだと思う。  リコという名前をつけてくれたのは、両親だ。リコとは、若葉とかつぼみを意味する。  本当の親は知らない。まだ生まれたての赤ん坊だった自分を、おくるみに包むこともせずに捨てることができたのだから、きっとろくな人間ではなかったのだろう。  リコはアオが大好きだった。四つ上の兄を、リコは何があっても自分が守らなければと心に誓った。アオはリコの家族で、親友で、そしておそらくは淡い初恋の相手でもあった。  両親が不慮の事故で亡くなり、リコたち兄弟が残された後、アオは変わった。これまで太陽のように眩しかったアオの笑顔に影が差すようになり、ときおり思い詰めたような顔で考え込むことが多くなった。アオが身体を売っていたことも知っている。それを何よりもリコに悟られたくないとアオが思っていたことも。アオは、リコの幸せだけを願い、自分が傷つくことは少しも躊躇わなかった。 ーーぼくも、アオを守りたい……。  リコが誰よりも幸せにしたいと思っている相手はアオなのに、自分はただアオの重荷にすぎなかった。だからどんなに苦しくても、リコはそれを嫌だと、止めてほしいとアオに言うことはできなかった。アオが傷つくたびに、胸の中に流れる血を必死で隠して、リコは何も気がつかない振りをした。アオが望むとおり、幸せな弟の顔で笑っていた。いつか絶対に自分がアオを守ろうと、心の中で決意しながら。  一度だけアオに黙って、自分も同じような真似をしようとしたことがある。相手は名前も知らない、ただ街でリコに声をかけてきた若い男で、けれどリコは実際の行為をする前に、具合が悪くなって吐いてしまった。ゲエゲエと饐えた臭いをさせながら、しまいには吐き出すものさえなくなってしまったリコに、気がつけば相手はいなくなっていた。ふらつく身体でようやく家にたどり着き、その後何日も寝込むはめになったリコは、役立たずの自分を恥じた。  いつかアオに恩返しがしたい、誰よりもアオに幸せになってほしいと願いながら、結局アオに守られるばかりでしかなかったリコの前に、あの男が現れたのはそんなころだった。  ラング一族のトップでもあり、選りすぐりのエリート。自分が望んで手に入らないものは何もないのだと心の底から信じているような、美しくも傲慢で自惚れた、アルファの中のアルファ。  アオがシオンのことを意識しているのは、かなり早いころから気づいていた。おそらくアオは自分がシオンに嫌われていると勘違いして傷ついていたが、アオが気づいていないところで、シオンがいつもアオを見ていることにリコは気づいていた。  そのころ、リコはふたりが「運命のつがい」であることをまだ知らなかったけれど、彼らが惹かれ合っているのは、端で見ていたら一目瞭然だった。  当時のシオンにはマリアという婚約者がいた。いろいろあって一度は駄目になりかけたが、想いが通じ合ってからのアオは幸せそうだ。これまではたとえ笑っていても、どこか張りつめたような緊張感がアオを包んでいたのに、いつしかそれがすっかり消えて、ひどく穏やかになった。ときおりはっとするほどにきれいな、幸せそうな表情で笑っていることがあって、ああ、本当に幸せなんだなと思う。  アオが幸せなのは、リコにとって何よりもうれしいことだ。けれど、ときどきふっとした寂しさがリコの胸を締めつける。誰よりもアオの幸せを願っているのはリコなのに、自分はもう必要ないんだという思いにとらわれる。  カイルが自分の「運命のつがい」だと知ったとき、正直驚いたけれど、リコはうれしかった。カイルが自分に好意をもっていることは伝わってきたし、誠実なカイルの気持ちを疑うつもりはこれっぽっちもなかったけれど、ときおり自分の中にいる別の誰かが「本当に?」と冷たく囁きかけた。  カイルが自分を大事にしてくれるのは、リコが彼の「運命のつがい」だからだ。カイルがリコ自身を好きだからではない。だって、自分にはカイルに好かれるだけの理由も魅力もない。  リコの年齢だったらとうに発情期がきていてもおかしくないのに、その兆候はいまだに見られない。カイルの目に、シオンがアオを見つめるときのような熱を感じたこともない。発情期は個人差があるが、ひょっとしたら自分の身体の弱さも関係しているのだろうかと、リコは思い悩んでいた。  ーー自分はできそこないのオメガだ。  ぽつりと落ちてきた言葉が、まるで透明な液体に黒いインクを垂らしたように、リコの胸に広がっていく。 「カイルのバカ……」  俺のこと、ほしくないの……?  ずきんと胸が痛んだ。もちろんリコは、それがただの八つ当たりにすぎないことを知っている。  カイルは何も悪くない。駄目なのはすべて自分だ。 「うわぁーー……んっ!」  突然、聞こえてきた子どもの泣き声に、リコはハッとなった。  気がつけば、三歳くらいの女の子が通りの真ん中で泣いていた。近くに連れらしき大人の姿は見当たらない。迷子だろうか。女の子の手には、真っ赤な風船が握られている。そのときリコは、女の子がオメガであることに気がついた。リコの頭に昏い考えが浮かぶ。 「……どうしたの? お母さんは一緒じゃないの?」  驚かさないようそっと話しかけたのに、びくっとした女の子は濡れた目をリコに向けてきた。少女の手から風船が放たれる。あっと思ったときには遅かった。風船はショッピングモールの偽物の空へと上り、少女の目が大きく見開かれたと思ったら、眉根に皺が寄って、大粒の涙が零れ落ちた。 「わーわー、ごめん! いきなり話しかけて悪かったよ。頼むから泣かないで……」  小さな子どもと接したことがないリコは、その扱いがわからない。おろおろと周囲に助けを求めても、みな知らん顔だ。どこかで演奏しているらしい生バンドの音が、やけに大きく聞こえて不快だった。ガヤガヤとざわめく人々の声。女の子の泣き声が一層大きくなった気がして、頭の中がパニックに陥りそうになる。 ーーこんなとき、アオだったら…。 そうリコが思ったときだ。すっと伸びてきた手が女の子を抱き上げた。颯爽とその場に現れた人物に、リコは目を見開く。 「カイル!」  突然見知らぬ大人に抱き上げられた女の子は、驚きのあまり固まっている。カイルの目が、腕の中の女の子からリコに流れた。 「どうした、迷子か?」 「う、うん。たぶんそう。話しかけたら泣かれちゃって、風船もそのときに飛んでいっちゃって……」  まだ心に動揺が残っているリコは上手く説明ができない。リコは舌打ちした。 「この子、オメガなんだ……」  先ほど感じた不安がリコの口から零れ落ちる。そのとき、ぽんと背中を叩かれた。まるでリコの想いをすべて見透かしたように、大丈夫だからと告げるカイルの目を見ていたら、リコの身体からほっと力が抜けた。 「風船? ーーああ、あれか……」  リコの視線を追って、カイルがショッピングモールの天井に引っかかっている風船を見つけた。 「そう。俺が急に話しかけたから驚いて……」  いったん泣きやんでいた女の子の目に再び涙がじわりと盛り上がる。 「ふぅあーー……っん! うあーーん…っ!」 「名前は?」  女の子が泣いても少しも慌てず、カイルは女の子に訊ねる。慣れたようすで、ぽんぽんとカイルの大きな手が腕の中の小さな背中を叩くにつれて、女の子は落ち着いてきた。 「……リナ」 「そうか、リナか」  涙に濡れた少女の大きな瞳がじっとカイルを見る。 「母親と一緒にきたのか? はぐれたのか?」  答えを急かすことなく、あくまでも相手のペースに合わせた落ち着いたトーンの声に、女の子は親指をしゃぶりながら、こくりと頷いた。 「そうか。だったら一緒に母親を探そうな」 「すごい……」  リコは、感心したように呟いた。さっきまであんなに一方的に腹を立てていたのに、いまこの場にカイルがいることを心強く思う。 「昔、うちにもこのぐらいの女の子がいたからな」  いたずらっぽく甘い笑みを浮かべるカイルの瞳に、リコの心臓はおかしな風に跳ねた。  もう……っ。  ドキドキする心臓の音がカイルに聞こえないよう祈りつつ、リコは拗ねたようにそっぽを向く。いつしかカイルと接するうちに、ときおり自分の気持ちがこんなふうに思いもよらない誤作動を見せることがあった。  カイルは全然へいきそうなのに、どうして自分ばかりが……。  もやもやとした気持ちが戻ってきて、リコは唇を噛みしめる。この想いにつける名前があることをリコは知っているが、認めるのはひどく勇気がいった。  だって、怖い……。勇気を振り絞って、もし好きだと伝えても、何事もなかったようににっこりと笑って「俺もだよ」なんて言われたら、いったいどうすればいいのだろう。 カイルが俺のことを好きなのは、本当に俺と一緒の意味なの? 違うと言われたら、そのとき俺は……? 「リコ」  名前を呼ばれてハッとすると、女の子を抱き抱えたカイルが少し離れた場所でリコを待っていた。  いけない。 ついぼうっと考えごとをしていたリコは慌ててふたりに駆け寄った。  カイルと一緒に女の子をインフォメーションへ連れていくと、店員と話をしていた母親らしき女がリコたちに気がついた。 「リナ!」 「ママ!」  カイルの腕の中でニコニコとしていた女の子は下に降ろしてもらうと、駆け寄ってきた母親にきつく抱きしめられた。 「ひとりにしてごめんね。怖かったでしょう?」  一瞬きょとんとした女の子は、母親の声を聞いて不安な気持ちが戻ってきたのか、次の瞬間顔を歪めてわーん、と泣き出した。そのようすをリコはどこか他人事のような気持ちで眺めていた。 女の子が故意に親から置いていかれたのかもしれないと考えたのは、リコの思い過ごしだった。そのことにリコは安堵を覚えた。  自分は確かに実の両親からは捨てられたけれど、決して不幸なんかじゃなかった。それは、育ての両親やアオから、大切に育ててもらったからだ。特に両親が亡くなってからは楽な生活ではなかったが、リコは一度だってアオの愛情を疑ったことはない。それがどんなに幸せなことか、リコは知っている。  自分は幸運だった。けれど、世の中にはそうでない子どもがたくさんいるのだ。  母親の腕の中で安心したようにぐずぐずと泣いている女の子を眺めながら、どうかこの子の未来が同じオメガの性を持つひとりの人間として、幸せなものであることをリコは願った。 「で、さっきリコが言っていた、俺が何も知らないっていうのはなんのことだ?」 「えっ」  迎えの車の中で、隣に座っていたカイルに突然訊かれたリコは焦った。 「な、なんでもないよ。ちょっとだけ情緒不安定だっただけ」  本当にさっきのは、ただの自分の八つ当たりにすぎないのだ。笑って否定をしたリコは、その手をカイルに握られ、ぎょっとなった。 「カ、カイル……ッ!?」  すぐ隣にいるカイルの肉体を意識して、かあっと血が上ってしまう。心臓はドキドキと早鐘を打ち、いまにも破裂しそうだ。 「ほ、ほんとになんでもないからっ」  意識していることをカイルに悟られたくなくて、振り解こうとした手を逆に握り込まれたリコは、真っ赤になった。 「なんでもなくはないだろう。何がだ? 俺がリコの何を知らない?」  普段のカイルとは違う、まるで怒っているかのようにも聞こえる艶のある低い声を耳にして、リコは震えた。じわっと目の表面に水の膜が張る。 「……カイルは、俺のこと好きなのかな。本当は、何か勘違いをしてるんじゃないのかな……」  これまで胸に秘めていた不安をぽつりと呟けば、 「……どういう意味だ?」  今度こそ明らかに気分を害した声で訊かれ、リコの胸はぎゅっと締めつけられた。  ……なんでそんな怖い声を出すんだよ。文句を言いたいのは、泣きたいのはこっちなのに。  震えそうな唇を、リコはぎゅっと噛みしめた。大人しそうに見られる見た目と、病弱な身体には似合わない、生来の気の強さが表れる。 「だ、だって、カイルは俺に何もしない。「運命のつがい」だと言ったって、俺はまだ発情期さえきてない役立たずのオメガだ。カイルは俺のこと何も知らない、本当は俺のことなんてどうでもいいんだ。だって、会ったときからカイルはやさしかった。それって、ただ俺の見た目と運命のつがいだってだけの理由だろ? 結局相手が誰でもいいってことじゃーーふぁん……っ!」  いきなり噛みつくような激しいキスをされ、リコは目を瞠った。  カ、カイル……ッ!?  いったい何が起こったのかわからず、頭の中はパニック寸前だ。 「ま、待って……っ」  逃げるつもりなんて微塵もないのに、カイルは大きな手でリコの後頭部を掴むと、キスを深くした。 「ふぅ……あん……っ!」  ぞくぞくっと腕の表面が粟立つ。頭の中は沸騰しそうだ。口蓋を舌の先でくすぐるように撫でられて、絡み合った舌からは、くちゅくちゅと濡れた音がした。 「誰が誰でもいいって? 本気で言っているのか? ーーリコ?」  自分を見つめるカイルの瞳には明らかな欲情がある。普段のカイルとは違う、その目の奥に怒りとも悲しみともつかない色を見つけて、リコの目からぽろぽろっと涙が零れ落ちた。リコはぎゅっと瞼をつむると、ふるふるっと頭を振った。  胸の奥が痛くて、苦しかった。心臓はいまにも破裂しそうだ。 自分がばかなことを言っているのはわかっている。でもリコは怖かった。カイルの前では、これまでリコが持っていた自信など容易に吹き飛んでしまう。  お願い、呆れないで。俺のこと、嫌いにならないで……。どうか、どうかーー。 「……だって、そんなのわからない。カイルは俺にやさしいけど、何も言ってくれなきゃわからない。俺、俺……っ」 「ーーリコ」  やさしく呼ばれて胸が震えた。勇気を出してリコが顔を上げると、そこにはいつもと同じ穏やかな瞳をしたカイルが、少しだけ困ったような顔をしてリコを見ていた。 「好きだよ。リコが好きだ」  カイルの大きな手が、やさしくリコの頬に触れる。 「怒って悪かった。これまでリコが悩んでいるなんて気づかなかった」  許してほしいと囁かれ、伏せた睫にキスをされる。涙が一粒リコの頬を伝い落ちた。 「……俺も、俺も好き。カイルが好き……」  カイルの首に腕を回すと、そっと包み込むように抱きしめてくれた。  車はいつの間にか屋敷の前に着いていた。  一言も発さず、表情さえ変えずに、けれど心配そうにふたりのやり取りを見守っていた運転士がほっと胸を撫で下ろしていたことを、リコは知らない。  車から降りると、カイルが手を差し出してきた。リコはわずかに気恥ずかしさを感じながら、カイルの手をとった。  エントランスで執事に「お帰りなさいませ」と出迎えられ、リコははにかんだような笑みを浮かた。「ただいま」と答えたとき、いまさらながらにこの場所が、自分の新しい家であることに気がついた。  結局アオへの贈り物は買えなかった。けれど、焦ることはない。ゆっくりと考えればいいのだ。リコは、アオに喜んでもらいたかった。これまでリコの唯一の家族であったアオとそのパートナーであるシオンに、新たな命が誕生することを言祝ぎたかった。  廊下を進むと、アオたちの声が聞こえてきた。何やら揉めているような、穏やかでない空気である。 「だから、こんなに同じもんばっかり買ってどうするんだよ! いったいどれだけ買ったら気がすむんだ!?」 「……でもアオ」 「でももくそもない! シオンが子どもの誕生を喜んでくれるのはうれしい。でも、俺は赤ん坊を必要以上に甘やかしたくないんだ。この子は、運良く恵まれた環境の中で生まれるけど、世の中にはそんな子たちばかりじゃない。勘違いをしてほしくない」 「……ごめん」  シオンがアオに謝る声が聞こえて、リコはぎょっとしたように目を見開いた。  シオンが謝った! あの、すべてが自分の思うとおりになるのではないかと信じているような、唯我独尊男が!  ぱくぱくと口を開閉しながらカイルを見れば、彼もわずかに驚いた表情を浮かべている。  アオ、すごい、と心の中でリコが感心していると、いつの間にか沈黙が落ちていた。  いったいどうしたのだろう。  にわかに心配になってようすを覗き見れば、ちょうどアオとシオンが抱き合ってキスをしているところだった。 シオンの手が愛おしそうにアオに触れている。伏せた目元をうっすらと赤く染めるアオは、これまでリコが見たことがないくらいかわいかった。  リコはカイルと視線を合わせると、足音を立てないようその場から去った。  アオはもう大丈夫だ。リコがいなくたって、充分幸せだ。いままでリコは、いつかアオにそんな日が訪れることを、少しだけ寂しく思っていたような気がする。けれど、アオが幸せなことを、リコはいま心からうれしく思う。そしてリコ自身もーー。  手のひらから伝わるカイルの温もりに、胸の奥がくすぐったくなる。リコはとても幸せだった。  END

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