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SS①

 シオンは生まれながらにしての王者だった。目の前に広がる灰色の世界で、シオンはすべてを手にしていた。  この世界は、アルファ、ベータ、オメガからなる、完全なるヒエラルキーの世界だ。シオンの祖父、パトリックはラング一族のトップで、その影響力は政財界にも及んだ。シオンの父もまたアルファだったが、権力にはいっさい興味がなかった父は、祖父に言わせれば”できそこないのアルファ”だった。  容姿、生まれ、アルファとしての能力や、金・・・・・・。生まれながらにしてすべてを手にしていたシオンは、自らの意志で何かを望んだことはなく、また手に入らないものがあることなど、想像すらできなかった。  物心がつく頃になると、シオンは同じアルファの中でもその能力に違いがあることがわかった。例えば自分が父や祖父よりも、能力では上なこと。そんなシオンの周囲には、アルファとしての自分を恐れる人間か、もしくは媚びへつらう者ばかりが群がっていた。シオンにとっては祖父や両親でさえ、その他大勢と変わらない、遠い存在だった。唯一の例外があるとすれば、それは従兄弟であるカイルとマリアだった。彼らだけがシオンをラング一族の後継者としてではない、ただのシオンとしてみてくれた。その少女にある悲劇が訪れたとき、シオンは「つがい」に振り回されるすべての運命を憎んだ。  そのエメラルドのような瞳を初めて目にしたとき、シオンの中で何かがコトリと音を立てた。それまで視界に入っていたすべてのものが消え去り、吸い寄せられるようにアオから目を離すことができなかった。  ーー「運命のつがい」だ。  おそらく一緒にいたカイルには気づかれなかったと思うが、シオンは内心でひどく動揺した。  二度目に会ったとき、アオは辛うじて下半身にジャケットを巻いているだけどいう、ひどい格好だった。アオが身体を売っていることはすぐにわかった。アオはいまにも泣きそうな不安げな瞳でシオンを見た次の瞬間、キッと睨みつけてきた。カイルがアオに触れたのを目にしたとき、シオンは焼け付くような感情に襲われた。  そいつは俺のものだ。  頭の芯が焼き切れるほどの衝動に、相手がカイルでなければ殺していたかもしれない。  アオはオメガで、地べたを這いつくばるようにして生きてきた。のちにそれは同じオメガであり病弱な弟を養うためであることを知るが、そのときのシオンに知るすべはない。また、これまで苦労することなくすべてを手にしていたシオンにとって、世の中には努力をしてもまるで手のひらから砂粒が零れ落ちるような生活を送るしかない人々がいることを、理解できるはずはなかった。 「いまの生活が嫌なら抜け出せばいい。たいした努力もせずに不満ばかり述べている者の気持ちなどわかりたくもない」  そう言い放った自分は、なんて傲慢だったのだろう。シオンを見つめるアオの瞳が、一瞬光を失ったように虚ろになった。アオに告げたことは間違いなく本心であったはずなのに、その目を見た瞬間、シオンは自分が何かとてつもなく大きな間違いを犯した気がした。  アオたち兄弟が屋敷に滞在するようになってからは、シオンはなるべくアオには近づかないよう避けていた。アオに会っている間、いつも感じる胸のざわめきは、彼が自分の「運命の相手」だからとだと思っていた。  アオと会っているときだけ、これまでなんの感動を覚えることなく目の前を通り過ぎていた世界が鮮やかに色づく。空気は匂いを持ち、どこかぼんやりと霞んで見えた世界はクリアになる。世界はこんなにも美しいものだということを、シオンは初めて知った。  アオのことを避けているくせに、気がつけばいつもどこかでその存在を意識していた。これまで不幸な人生を送っていたアオが、自分以外の誰かと笑い合っているのを目にするたびに、ほっとすると同時に胸にちくりとした痛みを感じた。それが嫉妬だということに、シオンは気がつかなかった。  アオはいつでも一生懸命だった。まだ幼いときに両親を亡くして、それからはたった一人で弟を育ててきた。大切に、慈しむように。自分の幸せなど思いもつかないといったようすで、ただ弟の幸せだけを願っていた。  決して近づかないようにしていたのに、気がつけばシオンはアオを避けることができなくなっていた。  アオが初めて泣いているのを目にしたとき、シオンはこれまで感じたことのない激しい胸の痛みに襲われた。  自分なんか必要ない、生きていても仕方がないと慟哭するアオを前にして、シオンは自分が木偶の坊にでもなった気がした。  ただ目の前の青年が愛おしかった。そんなことはない、お前は必要な人間なんだと伝えたかった。そのくせ惨めな姿で泣いているアオを前にして、激しい劣情を感じていた。そのとき、シオンはようやく自分の気持ちに気がついた。自分がアオを愛していることに。これ以上自分の気持ちを誤魔化すことができないことに、気づかされたのだった。  ーーシオン・・・・・・。  アオが自分の名前を呼ぶたびに、シオンの胸はどうしようもなく騒いだ。自分がやさしくすれば恥ずかしそうに笑うアオが愛おしくて、その華奢な身体を抱きしめたくなった。これ以上アオが何の苦労もしなくてすむよう、守ってやりたかった。しかし、シオンにはマリアがいた。マリアは、ある不幸な事件をきっかけに、心を病んでいた。マリアに対する思いは決して恋ではなかったが、シオンにとってはかけがえのない家族だった。  壊れもののような少女を、自分が守らなければいけない。  だから、シオンは「運命のつがい」であるアオにやさしくすることはできなかった。  自分の元からアオが去ることを決めたとき、シオンは苛立った。アオの言っていることが正しいとわかっているのに、どうしても納得することができず、傷つけた。そのくせ、裏から手をまわして、アオがこれ以上苦労しなくてもすむよう取り計らった。  アオが目の前から消えたとき、それまで色づいていたシオンの世界は、再び灰色に戻った。自分の肩には何万という社員の生活がかかっている。だから頭を切り替えなければいけないと思うのに、これまで何の疑いもなく信じていたものが信じられなくなった。  自分は何のために存在するのだろう。  意識したとたん、それは重たい足枷となってシオンを苦しめた。気がつけば、シオンはアオが勤める花屋の近くを意味もなくうろついたりした。アオにひとめ会いたくて、その声が聞きたかった。そんなシオンに、アオは戸惑っているようだった。シオンはアオが作ってくれた安っぽいブーケを持って帰り、色のない自室に飾った。そうしていると、ほんの少しでもアオの気配が感じられる気がした。  瞼にあたる光が眩しくて、シオンは目を瞬かせた。 「悪い、起こしたか?」  シオンがたてる微かな物音を拾って、アオが振り向いた。朝の光を浴びて、アオの周りだけがキラキラと輝いて見える。シオンは眩しげに目を細めた。  アオを見るとき、シオンはいつも野生の子鹿を連想した。敏捷そうでしなやかな肉体にはきれいな筋肉がうっすらとついていて、とても美しいと思う。もっともシオンがそう言うと、アオは頬を染めて照れたように怒ってしまうので、心の中でひっそりと思うだけなのだが。  アオに会えなくなったとき、萎れたシオンを叱り飛ばしてくれたのは、他でもない、これまで自分が守らなければと思いこんでいた少女、マリアだった。 「シオン。私はもう守らなければ生きていけない、か弱い少女なんかじゃない。アオがそれを気づかせてくれたの。同情なんて、まっぴらごめん。シオンがいま会いたいと思っているのは誰? 本当に大切なものを手に入れて、シオン」  一回りも二回りも強く成長した少女は、そう言ってシオンの背中を優しく送り出してくれた。  シオンはベッドから下りると、アオの身体を抱きしめた。かぐわしい匂いを放つ青年の首筋に鼻先を埋める。クンと匂いを嗅ぐと、腕の中でアオが戸惑うようにわずかに身じろぎした。 「シオン?」  けれどアオは逃げることなくシオンの後頭部に腕を回すと、くしゃりと髪を撫でてくれた。 「何お前、甘えてんの?」  その声にわずかな微笑が含まれる。  シオンは首をかしげてアオを見た。そうだとも告げず、甘えるようにその目をじっと見つめると、アオの頬がじわりと上気した。  アオには異国の血が混じっていて、その肌はわずかに浅黒い。ダークブロンドの髪はくるんと丸まっていて、天使のようだ。どんな宝石などよりも美しいと思っているエメラルドの瞳がシオンを見つめ返し、期待できらきらと輝いていた。  指でアオの目の縁をこすり、唇に口づける。甘やかな吐息を漏らす唇の合間から舌を滑り込ませると、その匂いはますます強くなった。 「シオン・・・・・・」  何か気になることでもあるのか、呼吸の合間にわずかに顔をそらすその頬をとらえ、キスを深くする。エナメル質の歯列をたどり、アオの弱点でもある口蓋を舌先でくすぐると、わずかに抵抗していたその身体からふっと力が抜けた。 「アオ。アオ・・・・・・」  誰よりも愛おしい名前を呼ぶ。潤んだ瞳で自分を見つめ返すアオがかわいかった。舌先を絡めるように吸い上げると、アオは甘い声を漏らした。 「ふ、あ・・・・・・んッ!」  シオンの腰のあたりに、ぞくぞくっと痺れが走る。シオンの雄は固く勃ち上がっていて、アオの中に入りたがっている。そのことを隠そうともせず、むしろわからせるように強く押し当てると、アオがハッとしたのがわかった。 「シオン・・・・・・?」 「欲しい」  わずかに戸惑いを見せるアオの耳元で囁くと、アオは真っ赤になった。 「ちょ、ちょっと待って・・・・・・っ!」 「待てない」  焦ったように腕の中から逃げようとするアオの膝の裏に腕をまわし、すくい上げるようにその身体を抱き上げる。 「わっ!」  明るい部屋の中、アオをそっとベッドの上に下ろした。シャツを脱がせ、きれいな鎖骨に舌を這わせた。吸い上げるように軽く痕をつけると、感じやすいアオはびくんと身体を跳ね上げた。 「シ、シオン! いまはダメだ! お、俺っ、仕事にいかないと・・・・・・っ」 「仕事? きょうは休みのはずだろ」  アオに合わせて、シオンも休みをとっていたのだ。 「そ、そうだけど・・・・・・、わ、ばか! どこ触って・・・・・・っ! ふあんっ!」  自分の腕の中から逃げようとするアオがおもしろくなくて、少しだけ拗ねたような気持ちになる。もちろんアオが本気で嫌がっていたらシオンだって無理強いはしないが、焦りながらも自分を見つめるアオの瞳は愛情にあふれていた。濡れたような瞳が、理性と感情の狭間で揺れている。 「本当に嫌?」  シオンが訊ねると、アオは困ったように眉尻を下げた。 「・・・・・・嫌じゃないけど、いまは本当にまずいんだって」  上のシャツはシオンによってすでに剥かれている。しどけない格好で頬を上気させたアオは、文句なしにかわいかった。滑らかな素肌に手を滑らせると、アオは喘ぎ声を堪えるかのように、くっと唇を噛みしめた。  アオの肌は肌理が細かく、ベルベットのような手触りがする。いつまでも触れていたくなる肌だ。いまはまだ平らな腹の中に、自分との子どもがいるなんて信じられない。  まるで愛撫を待つようにぷっくりと立ち上がった乳首を口に含むと、「や・・・・・・。待て、シオン・・・・・・」わずかに抵抗を見せるアオが、シオンの腕の中で身じろぎした。もちろん、そんな言葉きけるはずもない。 「あん・・・・・・っ」  反対側の乳首も同じようにキスしようとしたとき、「わーー・・・・・・っ!」と焦った声が聞こえて、次の瞬間、ぺちりと額を軽く叩かれた。 「だから待てって・・・・・・っ! いまは本当にまずいんだって! セツが、発情期になっちゃったから、俺が代わりに出ることになったの!」  アオははだけたシャツの前をかき合わせながら、真っ赤な顔でシオンを睨んだ。  セツ、という名前を耳にして、知らずのうちにシオンの眉間に小さな皺が寄る。  セツとは、アオが勤める花屋で一緒に働くオメガの青年だった。前の職場であまりよくない扱いを受けていた青年を、アオがいまの職場に連れてきたという。  もちろんふたりは単なる職場の同僚で、彼らの間に何もないことはわかっているが、セツがアオに対して特別な感情を持っていたのは明らかだった。 「シオン・・・・・・?」  自分でも大人げないとはわかっていたが、面白くないのは事実だった。 思わずむっとしたシオンに、アオは不安げに瞳を揺らした。 「・・・・・・怒ったのか?」  それでもアオに当たることではなかったので、シオンは自分の感情を押し殺した。 「怒っていない」  シオンの言葉に、アオは見るからにほっとした顔をした。 「よかった・・・・・・。いまの職場のオーナー夫妻はさ、俺たちの事情をわかってくれて、ほんと恵まれた環境だと思うんだ。でも、いくら抑制剤があるからって発情期が苦しいには違いはないだろ。俺にできることがあったら何でもしてやりたいんだ」  穏やかなようすで言葉を続けるアオを見て、シオンは内心で小さく息を吐いた。感情のままにアオに当たらなくて本当によかった。  そのとき、シオンはアオがじっと自分を見ていることに気がついた。何か言いたいことがあるような、けれど逡巡するような、微妙な表情だ。シオンは眉を顰めた。 「何だ?」  もはやすっかりその気を削がれたシオンが訊ねると、アオはベッドの上でもじもじっとした。 「あのさっ、カイルに聞いたんだ。シオンが基金を創設したって。世間に虐げられているオメガがいまよりも少しでもいい暮らしができるよう、働きかけるんだって」  ・・・・・・カイルめ。  シオンは内心で舌打ちした。アオには黙っているよう言ったのに、あの男はぺらぺらと喋ってしまったらしい。普段は寡黙なくせに。 「あのさ、ありがとうっ」  アオはシオンの首に抱きつくと、次の瞬間かあっと赤くなった。 「お、俺、出かける準備をしなきゃ」  あたふたとバスルームに消えるアオの背中を見送って、シオンはばふんとベッドに横たわった。  確かにこれまでの考えを変えるきっかけとなったのはアオと出会ったからだが、基金を立ち上げたのはアオを喜ばせるためではなかった。  なんだか無性に恥ずかしくて、居たたまれないような気持ちになる。そのとき、バスルームからアオの鼻歌が聞こえてきた。朝の光に満ちた部屋の中に、アオの明るい鼻歌が響く。  世界のすべてを手にしていた王者は、もうどこにもいない。何よりも大切なものを手にしたとき、シオンは臆病になった。自分は考えていなかった以上に、情けないただのひとりの男だった。  あまり上手じゃない歌声を耳にして、シオンはふっと笑った。  世界は美しく、シオンのまわりはキラキラしたもので満ちあふれている。それはとても幸福なことのように思えた。

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