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会場をでればいくらか呼吸が楽になった。すっと肺に入り込んでくる新鮮な空気。ハルは軽く深呼吸して、綺麗な空気を体に取り込む。
オークション会場は普通の街中に立っている。中の異常空間など知らない、普通の人々がのんびりと行き交っているのが視界に入ってくる。この壁を隔てればまるで別世界。自分は今までこの中にいたのだと思うとゾッと寒気が体中に走った。
「はあー、無理だ……」
ハルはぐったりとため息をつく。奴隷が見つかるまで、これから何度もあの空間に行かなければいけないのか。気が重くなる。うざったい。ハルは壁に寄りかかり、ずるずるとそのまましゃがみこんだ。
「まだオークションは終わっていないですよ。いい商品は見つからなかったんですか?」
「……はい?」
突然、上から声が降ってくる。いつの間に傍に人がいたんだろう。ぼんやりとそう思いながら、ハルは声のした方を見上げた。
「結構今回の商品はいいものが揃っていたと思ったんですけどね。あなたは結構厳しいみたいだ」
「……誰?」
声の主は、ハルと同い年くらいであろう若い男であった。カジュアルではあるがどことなく上品な服を着た、細身で色白な男。優しげな声の印象そのままに、彼は微笑んだ。
「……ああ、私は一応このオークションの関係者です。不審者とかが入ってこないように警備しているんですよ」
「へえ……」
オークションの関係者ねえ……。
下からその男を見上げれば、彼の背景に青空が広がった。秋の澄んだ空。ほのかに吹く南風に、男の少しくせっ毛な黒髪が揺れる。
あんな気持ち悪い空間の関係者とは思えない。ぼんやりとハルが男を見つめていれば、彼は照れたように笑った。
「……どうしたんですか?」
「警備員さん、あなたなんでこんなところで働いているんですか」
「……どうして?」
「だって、あなた絶対ああいうの嫌いでしょ。そんな顔しているよ」
ハルがそう言えば、男は驚いたように目をパチクリとさせた。そして、困ったようにクスクスと笑い出した。
「……私が? そう見えますか?」
「……?」
笑い続ける、男。スラリとした細い手は、とても人を虐げるためのものとは思えない。それを口にあてて笑う様子は、綺麗だった。
「別に、嫌いじゃないですよ。私はなるべくしてこの職についたんです」
「え、あなたはああいう、奴隷とかそういうの喜んでいじめちゃうわけ?」
「……喜んで、なんてことはないですけど。正しく言えば、好きでもなければ嫌いでもない。……なんとも思わない」
す、と僅かに細められた男の瞳。珍しい色だな。ただなんとなくハルはそう思った。黒……。いや、闇……? ぞく、と一瞬走った寒気は気のせいだと思いたい。その闇の色の瞳はまるで暗く深い沼のようで、そこに映したものを引きずり込んでしまいそうだ。
「……なんとも、思わない……。なるほど、それはいいですね」
「……いい?」
「楽そうで、いいと思う」
そのハルの言葉に、ふは、と男は吹き出した。柔らかな風は、気まぐれとでもいうように力んで、男の髪を激しく揺らした。男の正面からぶつかった風に、男の前髪がぱさぱさと揺れ動く。男はどこか不敵に微笑んで、座ったままのハルを見下ろし、言った。
「……わかっているね。そう、楽なんだ。いちいち感情を動かしていたらそのうち俺は壊れるだろう」
「ふうん、じゃあ俺がめんどくさがりなのも、俺の体の防衛本能なんですかね」
ハルは立ち上がり、服についた砂を軽く払う。
「名前、なんて言うんです? もっとあなたのこと知りたいと思うんですけど」
「……私に名乗る名前はないですよ。好きに呼んでください、ハルさん」
「……!」
男がさらりと発した自分の名前に、ハルは驚いた。なんで知っているんだ、とそんな気持ちが顔にでていたのか、男は言う。
「あなたのことくらい、知っています。自分の立場をもう少し考えたほうがいい。……そして、それゆえにあなたが今日こんなところまで来た理由も知っている」
「……」
「自分の変わりに仕事をやってくれる奴隷をお探しでしょう? あなたは重要な任務を任されて元の仕事に手が回らなくなってしまったから」
にっこりと男は笑うと、なにやら紙を取り出して、何かを書き始めた。そして書き終えると封筒に入れて、ハルに渡す。
「あなたと話せて少し楽しかったです。お礼に、これ、どうぞ。奴隷施設のほうに直接これを持って行ってください。あなたの求める奴隷を売ってもらえるはずです」
「……なんですか、これ」
「中身は見てはいけませんよ。まあ、特別な奴隷を優先的に買えるチケットとでも言っておきましょうか。今、奴隷施設のほうに少し風変わりな奴隷がいるんです。一般には売られていない、特別なもの。あなたになら、きっと彼を任せられる」
受け取った封筒の中身が気になって仕方なかったが、見てはいけないと言われてわざわざ見るほどハルは好奇心旺盛ではない。素直にそのまま封筒をポケットにいれると、もう一度、まじまじと男を見つめる。
「……珍しい目の色をしていますね。初めてみました」
「そうですか?」
「うん、すごく印象的です。……そうだ、じゃあ黒さんとかでいいですか、あなたの呼び名」
「……! あはは、どうぞ。好きに呼んでいいって言ったのは私ですからね」
黒は面白そうに笑う。正直なにがそこまで面白いのかわからなかったが、とくにイヤミもない笑いなので嫌な気分はしなかった。
そのとき、大きな鐘の音がした。オークション終了の鐘である。
「ああ、そろそろ私はいかないと」
「……黒さん、あなたは一体何者なんですか? どうみても普通の人ではないですよね」
「いいえ、特にいうほどの者ではありません。私は今日はここで警備をしていただけですよ、嘘ではない」
微笑む黒は、会場に入っていく。その後ろ姿は華奢で、どこか儚げだった。じっと眺めていれば、黒がもう一度ハルを顧みる。
「また、会えると思います。そのときはまた楽しいお話でもしましょう、ハルさん」
「……ええ、楽しみにしています。黒さん」
扉をあけ、黒は中へはいっていく。その姿が消えるまで、ハルは彼を目で追っていた。
あの闇が心から離れない。心を覗くような、その闇の恐怖がジリジリと胸に焼きついている。その感覚が、どこか心地良いと思う。
初めてのその感情を、もう一度感じたいと思った。そうすれば、ぼやけた自分の肖像を、はっきりと見れるような気がした。
再び鳴る、鐘の音が、青空に溶けてゆく。終わりを告げる鐘の音は、何の始まりを告げる鐘の音か――。
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