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「……」 (え、今の聞こえたのか?)  自分の中では、それはもうとんでもないことを言った。衝撃的にも程がある。ハルはそう思っていた。  しかし、当のラズワードは全く表情を変えることもなく、静かにハルを見つめるまま。好きだと言われてこうも表情を変えないというのはどういうことだ。困った表情すら、見せようとしない。 「お、おい……?」 「……ハル様」 「あ、はい」 「……あまり、周囲には知らせないように。素振りも見せてはいけません。あまりにも貴方と俺では身分が違いすぎる」 「……へ?」  ラズワードはにこりと微笑む。それは、精巧に作られた人形のように。 「恋人になりましょう、ハル様」 「……」  綺麗な笑顔だ。……綺麗すぎる、笑顔だ。  感情を感じさせないほどに、作り物のような。 「……ひとつ聞いていいか」 「はい」 「それは本心から言っているか?」 「もちろん」 「……奴隷としての本心か?」  ドクドクと波打つ鼓動がうるさい。聞きたくない答えを、ハルは敢えて促した。そう、ラズワードの口からでてくる答えなど、予想はついていた。 「……そうですけど?」  ぐらりと視界が暗くなるのを感じた。わかっていはいたが、言われたくはなかった。 「……俺が望むから、か」 「はい。俺はハル様の奴隷。貴方の望むことを全てこなしてみせます。ハル様が俺と恋仲になることを望むのなら……」 「……だったらダメだ。おまえとは恋仲になんてなれない」 「……は?」  ハルは体を起こしてラズワードと少し離れたところに座りなおす。ラズワードはそんなハルを追うように腕で上半身だけを起こしてハルを見やった。 「俺はおまえと恋仲になりたいなんて思わない」 「……え? だってハル様さっき……」 「……嫌に決まっているだろ! 俺の想いだけが一方通行な恋人なんて……!」  思わず叫んだハルの声に、びくりとラズワードの肩が揺れた。ラズワードは戸惑ったような顔をしながら、シーツに手をついてハルに向かって言う。 「い……一方通行なんてことはありません! ハル様が望むことを、全てやります! 恋人として、尽くします……!」 「……だったらしてもらおうか」 「……え」 「恋人として……おまえが正しいと思うことを、やってみろよ」  ハルはラズワードに横顔を向けながらそう言い放った。言葉に詰まったラズワードを横目で見てみれば、恐る恐るハルの様子を伺っている。そう、ハルが望んでいることを必死で探している。 「……わかんない? 俺がしてほしいこと」 「……も、申し訳ありません……でも……言って、いただければ……」 「じゃあ」  ジ、とハルが見つめるとラズワードが固まった。そうやって、こちらのことばかり気にしている様子を、不快に思った。 「……おまえがやりたいと思うこと。……それをして」 「……え、俺が……」 「恋人なら、あるだろ。好きな人としたい、って思うことがいくらでも」 「……っ」  ラズワードが目を泳がせる。それが示していることは明らかであった。ハルは項垂れながら、言う。 「……ないんだろ」 「……」 「おまえは俺を好きじゃない。……そんなおまえと俺とのあいだに、恋人なんて関係は成り立たない」  ハルの静かな声に、ラズワードは困ったような表情を見せる。 「……あの、ハル様」 「なんだ」 「……だったら、恋人というのはどういう関係のことを言うんですか? お互いに同意さえあれば成り立つ関係じゃないんですか?」 「……別に……難しいことじゃないだろ。お互いがお互いを好きな関係だよ」 「……好きって、なんですか」  ハルの望むことができないことを申し訳ないとでも思っているのだろうか、ラズワードは真剣な眼差しで尋ねてきた。その問にハルは一瞬どう答えれば良いのかわからなくなったが、そう難しいことではないはずだ。自分がラズワードに対して思っていることを言えばいいのだから。  今更、恥じたところで仕方がない。 「……俺は……俺が、おまえを好きだって思ったのは……その……おまえに、触れたい、とか……キスしたい、とか……いや、見ているだけでも、傍にいてくれるだけでもいい……っていうか……」 「……そういうの、好きってことなんですか?」 「いや……別にこれだけってわけじゃないけど。……どっちにしろ、おまえにこういう想い、ないだろ?」 「……ないです」 (うわ……はっきり言われると流石に傷つくな……)  自分で誘導しておきながら、ハルは返って来た答えに愕然とした。気落ちした様子のハルにラズワードはやはり戸惑いの表情を見せている。自分の答えがハルの望んでいないものだったんだ、そう思っているのだろう。 「あ、あの……申し訳ございません」 「……何が? いいんだよ、正直に言ってくれて」  言葉は優しくとも、その心は隠しきれていなかった。ハルの声色はどこか憂鬱で、それがラズワードに不安を与えていた。しかし、ラズワードはしばらく俯いたとおもうと、きゅっとシーツを握ってハルを見据える。 「……ハル様」    そのハルを呼ぶ声は、今までのものとはどこか違っていた。ハルの心を必死で伺いながら、といった怯えたような声ではなかった。 「ハル様。……俺は、好きだという気持ちがわからないんです」 「……さっき聞いた」 「ハル様の気持ちを知りたいと……貴方の言う好きという気持ちを理解して、そして貴方が望むことをしたいと……そう思うけれど、俺にはできないんです」 「……」 「俺のなかにある感情は、一つしかないから……それ以外の感情は、その一つの感情に飲まれてしまっているから……」  ぐ、とシーツを握る手に力がこもっている。たぶん、彼のなかでその感情とやらが昂ぶっているのだろう。そこまで彼を動かす感情は、なんなのか。ハルはなんとなく、察しがついてしまっていた。 「ラズワード……それは……」 「それは、あの人への、殺意です」  ああ、やっぱり。  ハルは胸が苦しくなっていくのを感じる。今までもずっとラズワードは「あの人」のことを話す時だけ、普段とは違った表情を見せていた。それは、「あの人」が彼の心を動かす唯一の存在だということだろう。  それが「殺意」という負の感情であろうとも。たったひとつ、それだけがラズワードの心を支配しているのだ。 ――いいや、その「殺意」。はたして、負の感情と呼べるものなのだろうか。  「殺意」を抱くはずの「あの人」の話をしたときのラズワードの表情。淡く……目を細めたその笑顔。それは……きっと、ただの「殺意」なんかじゃない。 「ラズワード」 「……はい」  本当にただ殺したいだけならば、そんなに切ない表情なんてしないはずだろう。 「おまえは……その人が嫌いか?」 「……いいえ」 「……おまえは……その人が、好きか?」  ハルの二つ目の問に、ラズワードはハッと目を見開いた。綺麗な青い瞳はゆらぎ、悲しみの涙が溜まってできた海のようだった。 「……いいえ」  かすれるような声でラズワードは否定の言葉を言う。ハルから目をそらし、伏し目がちなその瞳は、憂いを帯びている。   「……好きとか、嫌いとか……わからないです」 「……」 「……で、も」  その言葉は、絞り出すように、彼の唇からでてきた。 「……あの人のことを考えると……苦しい、です……。痛いです……」  ラズワードがギュ、と自分の胸のあたりでシャツを握り締める。その手は震え、唇からは吐息が漏れ。やがて嗚咽が聞こえてきて。  ポタ、と一つ。雫がシーツにシミをつくった。   「……っ」  それは衝動的に。ハルはラズワードをグ、と引き寄せて、抱きしめた。震える彼の身体を、強く抱いた。 「ずっと……あの人の記憶が離れないんです……牢の片隅で、静かに座っていただけの姿も……俺と剣を合わせるときの冷たい表情も……あの……光に消える、悲しい笑顔も……」 「……ラズワード……」 「あの人は……! 自分を憎んで、嫌って……それなのに……! あんなにあの人は……欲しがっている……それでも許されないから、諦めて……だからあんなにも……悲しくて……!」 「お、おい……ラズワード……何……」  は、とラズワードは息を荒げる。自分の体を抱くハルのシャツを皺ができるほどに強く握り締める。 「俺は……だから、俺は……!」  誰に言っているわけでもないのだろう。ラズワードは自分自身に言い聞かせるように、叫んだ。 「この手で……与える……! ノワール様の望む「死」を、俺が……!」  なあ、ラズワード。その感情は……    ボロボロと涙を流しながら泣き続けるラズワードに、ハルは何も言えなかった。ただずっと、抱きしめていた。  その想いが自分へ向くことはないだろうと、それを悟りながら。でも、こうして彼を抱くことができるのは、自分だけなのだと。その役目は自分しか背負えないと。痛む心を覆い隠して、ハルはラズワードの頭をそっと撫でた。

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