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*** 「ら……ラズワード……」 「はい」  二度寝から覚めて、ハルは震えた声でラズワードの名を言う。ラズワードはどうしたのかと思って、ハルの顔を見上げた。ハルの腕にすっぽりと収まった状態で。 「……おまえ、ずっと起きてたの?」 「はい、寝付けなくて」 「……それで、ずっとこの体勢でいたの?」 「……いけなかった……でしょうか」  どうやらハルは、ラズワードがずっとハルに抱かれた状態でいたことがご不満らしい。ラズワードはそう感じ取って、そろりとハルから離れた。 「すみません……心地よかったもので……」 「え、心地よかっ……え?」  ハルがガバっと起き上がった。ラズワードは驚いてビクリと体を揺らす。騒がしい、と文句を言いたくなったが、それは黙っておいた。 「っていうか……さっきは……俺も寝ぼけていたから……ご、ごめん。なんか……」 「……何がですか?」 「いや……だから……昨日のこともまともに解決していないのに……こ、こう……」  ハルがわさわさと手を動かしている。何を表したいんだろう。  ……ああ、もしかして、俺を抱き枕みたいに扱ったことを言いたいのか。  その動きが少し面白く感じて、ラズワードは思わず吹き出した。 「お、おまえ……笑うなっ……」  ハルは少し怒ったような声を出したが、すぐに黙り込んだ。やばい、笑ったのはまずかったか、とラズワードが身を引けば、ハルはそれを追うように迫ってくる。そして、そのままゆっくりと抱きしめてきた。 「あ、あの……」 「……ラズワード……そんなに、面白かった?」 「すみません……」 「……おまえ、やっと……やっと――俺を見て笑ったな」 「えっ……」  体を抱いてくる腕に、ぎゅ、と力が込められるのを感じた。   「……ラズワードさ……ずっと、どこか違うところ見ていただろ。……俺、ちょっと嫌だったよ」 「……え?」 「……笑うと、すごく可愛いよ。……もっと、俺の前で笑ってよ」  ――な、なにを言い出すんだこの人は!  ラズワードはパニックになって体を硬直させてしまった。  こういうときどう返事をすればいい。そもそも、さっきハルが何を言いたかったのかもはっきりしていないし、今の発言に至ってはもはや理解不能。いったいハルは自分になにを望んでいるのか。ラズワードはそのことをひたすら思案していた。 「……ハル様」  考えても考えても、答えはでてこなかった。なぜ、ハルがそんなことを言うのか。ハルが自分になにを求めているのか、について。 「……わからないです、ハル様」 「なにが?」 「……必死で、考えています。ハル様のために俺が何をすべきなのか。昨日だって俺は貴方が求めているだろう、って思ったことをしたのに拒絶されたし、今貴方がいったことだって、どういうことなのかわかりません。……難しいです。ハル様、俺はどうしたらいいんですか?」 「……難しいことなんて言ってないじゃん……」  ハルがため息をついたのが聞こえた。理解力のない自分に呆れているのかもしれない、ラズワードはそう思って焦る。 「……俺はさ、昨日も言ったけど……おまえのこと、す……好き、だからさ。ちょっと子供っぽいけど嫉妬だってするし……」 「……嫉妬……他人が自分のものに手をだして羨む感情ですか……確かに、俺は貴方のモノですものね」 「いや、そういうことじゃなくて……だからさ! 俺は、おまえに笑っていて欲しいの! 好きな人には笑っていて欲しい、当然の感情だろ!」 (はあ?)  思わず口からでそうになった感嘆詞を、ラズワードは寸のところで飲み込む。  それほどに、ラズワードにとってハルの発言は理解できないものであったのだ。好きな人、というのは恋人または想い人を指すものだろう。その存在イコールセックスのパートナー。  それが、ラズワードの認識であった。笑っていて欲しい、そんな無償の望みをそれに抱いてどうする。  ラズワードはそんなことを思って、ハルの言葉を理解することはできなかった。 「……とにかく、俺は笑えばいいんですか?」 「……いっとくけど強制じゃないからな。おまえが笑いたいときに笑う。その笑顔が俺はみたいだけだから」 (……ますますわけがわからない)  俺の笑った顔がみたいんじゃないのか。  ラズワードはハルの言葉のあちこちにある矛盾に目が回りそうだった。どうしたらよいのかわからない。本当にハルは何を望んでいるんだ。 「……ハル様の言っていることは難しいです……」 「……」  ラズワードが呟くと、ハルはきゅ、とラズワードの後頭部に手を添えて抱き寄せる。温かい手だな、ラズワードはそう思った。 「……いつか……わかるよ。俺が、きっと……教えてあげるから」  小さな声で、ハルは言った。そして、ハルはラズワードのこめかみに唇を寄せる。 「……!」  また、これだ。ラズワードはハルのそういった行動が苦手だった。性的な交わりを求めない抱擁を前にされたとき、どうしたらよいのか本当にわからなかった。何回もされているうちにそれには慣れることができたが、今度はキス。これは絶対に普段遣いできるような行動じゃない、と思っていたラズワードには衝撃的であった。  体の交わりを求めていないくせに、どうしてそんなことをするのだろう。それを、ラズワードは全く理解することができなかったのだ。  ……でも。少し、気持ちいいかもしれない。 「ん……」  ハルがラズワードの髪をゆっくりとかき混ぜながら、キスを落としてくる。額、まぶた。ラズワードの顔の形を確認するかのように、優しく。  ラズワードはその感触がムズ痒くて少し顔を背けながらも、目を閉じ、それを受け入れていた。なんだか温かくて気持ちよかったから。セックスのときの快楽とは違う、不思議な心地よさ。 「あ……」  いつも勝手にでてくる声とは違う声が、唇から漏れてしまった。耐え切れない快楽というよりも、くすぐったさからくる声。肌にハルの唇を感じるたびに、抑え気味な彼の熱を感じた。   「……ハル、様?」  しかし急にそれが止んでしまったから、ラズワードは目を開ける。すると、ハルがじっとラズワードを見つめていた。 「……いや、やっぱりだめだよなあ……」 「……何がですか?」 「……ううん、こっちの話……」  頬、鼻、と少しずつキスの位置が降りてきて、あと残る場所は一箇所。ラズワードの唇に自らのそれをギリギリまで近づけたところで、ハルは止まっている。 (……なんかすごく気持ちよかったからこんなことしちゃったけど、だめだよな、うん。ここはだめだ)  何かを考えたのか、ハルはそこから動こうとはしない。  そんなハルを見つめるラズワードの心境としては、「待て」をされた犬の気分であった。  ラズワードにとってキスはいつもセックスの開始の合図のようなものだった。だから、調教によって快楽を求める体にされてしまったラズワードは必然的にキスも求めてしまう。キスは、好きだった。  それなのに、この状況。あと数センチの距離で、キスしたいのかしたくないのか不明のご主人様。ラズワードは黙って彼の動きを待つしかない。  たしかこの人、前もキスしようとしてしなかったよな……また今回もそのパターンなのか……  どうせハルはこの位置から動かないのだろう、そうラズワードは諦める。しかし、どうしてもできる状況を目の前にしては体がうずうずしてしまうもので。  ハルがエリスに「ラズワードに触れるな」と言った日から、ラズワードはセックスをしていない。つまり、キスもしていない。性の欲求は全て、悪魔狩りで解消してきたのだ。  もうずっとしていない。したい。すごく、キスがしたい。 「……ん?」 「あ」  ハッとラズワードは目を見開いた。 (しまった……!)  あまりに心の中でキスをしたいなどと考えたものだから。体が勝手に前に少し移動してしまったのだ。  そして、軽くではあるがハルの唇と接触してしまった。ラズワードの唇が、である。 「な、な……」 「す、すみませんっ……う、わ!」  ラズワードはすぐに離れたのだが、もちろんハルは気付いたようである。ハルはその顔をみるみると真っ赤にして、ラズワードを突き飛ばす。ラズワードは突然のことに抵抗できず、そのままベッドの上に尻餅をついてしまった。  まずい、謝らないと、そう思って慌ててラズワードは体を起こすが、ハルはそれと同時にベッドから飛び降りてそのまま走って部屋を出て行ってしまった。嵐のような彼の行動に、ラズワードは一瞬言葉を発するのを忘れていた。しかしすぐに我に返ってラズワードは叫ぶ。 「は、ハル様……!!」  しかし、返事は返ってこない。奴隷の自分がおこがましくもキスを自らしてしまった、その失態にラズワードは目の前が真っ暗になった。どう謝罪したらよいだろう、そんなことを考えて頭を抱えていると、バン、と勢いよく扉が再び開く。 「きょ……きょ、今日のターゲット、俺の書斎の机の上に置いてあるから! じゅ、準備できたらそこから勝手に持って行って出かけろ! わ、わわわわわかったな!」 「ま、待ってくださいハル様……! 本当に申し訳ございませんでし」 「怒ってない! 怒っているわけじゃない! 気にするな! っていうか忘れろ! 忘れて! ……じゃあな! 今日も無事で帰ってこいよ!」 「え、ちょっと……どういうことですか! ハル様っ!」  顔だけだしてそう叫んでいたハルは、すぐにまた引っ込んでしまった。ラズワードはまともにハルに何かを言うことも叶わなかった。  ……そんなにキスしたのがまずかっただろうか。  ああー、とラズワードはふさぎ込み、自分の欲も抑えられない理性の情けなさと、ハルの謎の思考回路について延々と思考を巡らせる羽目になった。

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