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その苦しさに、ラズワードはこのことにまだ気づいていない。彼も自分も抵抗はできないと悟ったグラエムは、自分でもびっくりするほどに落ち着いていた。
麻痺で動かない体を必死で動かす。ガタガタと震える腕で体を支え、上半身を起こした。
目の前の愛しい友人に、何かを伝えたいとそう思った。ずっと長いあいだ共に過ごした人。無愛想に接してくる彼が、時折見せる笑顔が大好きだった。
「ラズ」
ラズワードの頬に手を伸ばす。
「……おまえの、笑顔が好きだったぜ」
ブチ、ブチ、と嫌な音が体の中で蠢き始める。
「きっと、みんなそうだ。好きな人には笑っていてほしい」
ビクン、と指先が勝手に跳ねた。
「馬鹿みたいに笑っていればいい」
目の前が、真っ赤に染まってゆく。
「そうすれば、おまえも、おまえを好きな誰かも、幸せになれるからさ。……俺も、幸せだってぜ。おまえと一緒にいられて――」
「あ――……」
何が起こったのか、ラズワードには一瞬理解できなかった。すぐ目の前で笑っていたはずのグラエムが消えた。その奥にあった景色が、目の前には広がっている。
少しがたついている民家、古い木々。日が昇り始めた空。
しかし、平凡なはずのその風景に、なにかおかしなものが混ざっている。おびただしい量の血が地面に広がり、内臓のようなものが散らばっている。元の形ははっきりわからないが、それは紛れもなく人間のもの。ちぎれた指や髪の毛をみれば、それはすぐにわかった。
では、誰のもの? この肉片が構成していた人間は一体誰?
「……」
違う。違う。――違う……
「あ……」
震える手のひらを見つめる。新鮮な血がべっとりとついている。視線を下ろせば、体中に血や肉片がこびりついている。
「嘘、だ……あ、そんな……」
頭が真っ白になる。
強烈な耳鳴りが響く。
吐き気がこみ上げる。
「……どう、自らの手で友人を殺した感想は?」
「俺が……殺し、た」
ぐ、とイヴがラズワードを抱き寄せる。ゾク、とわけのわからない寒気を感じたラズワードは逃げようともがいたが、全くの無意味であった。
「ほら……いってごらんよ」
顎を掴まれ無理やり後ろを向かされて、イヴの紅い瞳が視界いっぱいに広がった瞬間、なぜか抵抗する気が失せてしまった。紅く紅く、血よりも深いおぞましき紅。
「……おまえ、は、一体……」
「俺のことなんでどうでもいいからさ」
「おまえは……なんでこんなことを……」
目の前の現実を、受け入れられない。自分の中心に放射線状に広がる血と肉片がグラエムのものだなんて信じたくない。それから逃げるように、ラズワードはイヴに言葉を投げる。溢れてくる涙は、本能的に事実を受け入れている証拠だと言うのに。
細められたイヴの瞳はそんなラズワードを嘲笑っているようだった。イヴの唇はにっと弧を描く。その瞬間ラズワードの頭の中に妙なものが浮かび上がってくる。
「……!?」
叩きつけられたように強く、重いなにかが入り込んでくる。
『悦悦悦悦悦悦悦悦悦悦悦悦悦悦悦』
『嘆嘆嘆嘆嘆嘆嘆嘆嘆嘆嘆嘆嘆嘆嘆』
『欲欲欲欲欲欲欲欲欲欲欲欲欲欲欲』
「うっ……!?」
気が狂うほどの、化物の叫びのようなもの。それが一気に頭に流れ込んできて、ラズワードは反射的にイヴを突き飛ばした。
「な、なんだ、今の……」
「……?」
ラズワードがなぜ自分を突き飛ばしたのかイヴには分かっていないようで、イヴは訝むようにラズワードを見つめた。今の不気味な叫びは、イヴがラズワードに流したものではないのだろうか。
「イヴ……おまえ……何を飼っている……!?」
「は……?」
「おまえの中にいる化物はいったいなんだ……!!」
「……え」
イヴはラズワードの言ったことがわからないとでも言うように、きょとんとした顔をした。今まで様子を見てきていると違和感のある表情でもある。それほどに、イヴにとって予想外の質問だったようだ。
イヴはしばらくラズワードを見つめていた。ラズワードの言葉の意味を考えるように、視線を時折動かし、そしてやがて、自分の心音を確かめるように左胸に手を当てる。
「……ラズワード……おまえ、何を見た」
「……こっちが聞いているんだよ……。おまえの中の、気持ち悪い叫びの正体を……!」
「……そんなもの、俺は、知らない」
「……なんだって……?」
イヴはぼんやりと虚空を見つめたように、その瞳の紅を陰らせた。そして、ギロリとラズワードを睨みつけた。
「俺は俺だ……!!」
「……?」
「俺の中には何もいない!!」
突然様子の変わったイヴに気圧されて、ラズワードは動くことができなかった。
「おまえは……何も見ていない!! 知らない!! そうだな!?」
「な、なんだよ! 急に……!!」
「俺の中に何かいるって……!? そんなわけないだろ……俺がおまえを苦しめたいとそう思うのだって!! 俺の意思なんだよ!!」
イヴが何を言っているのかわからず、ラズワードは押し黙った。必死の形相で叫ぶイヴが何を考えているのかなんて、わかるはずもなかった。
「ラズワード、おまえを許さない……俺の存在を否定したお前を許さない」
「……っ、さっきから何を……!! 許さないだって……!? それは俺のセリフだ!! よくもグラエムを……!!」
「黙れ!! みていろ……!! おまえを逃れられない苦しみの中に堕としてやる……!! 俺の意思で!!」
「わけわかん……うっ!?」
理解のできない一方的な怒りをぶつけられて反論しようにも反論できない。やっと叫んだ言葉も、イヴに阻まれてしまった。指を口に突っ込まれ、砂利と血の味が口内に広がり、そのおぞましさにラズワードは言葉を発することができなくなってしまった。
「おまえは……おまえは!! 一生足掻いていればいいんだよ!! 幸せになんてなれない!!」
イヴが地に転がる肉片を掴み取る。ぶちゅ、と嫌な音を立ててそれからは血が滴り落ちる。ラズワードはそれをただ見ていることしかできなかった。友人の内臓が、ただの肉片となり他人の手の中で潰れていることが現実だとは未だに思えなかったのかもしれない。それが目の前に近づいてきてやっと、ハッと頭が冴えたように抵抗の声をあげた。
「や、やめ……っ」
「おまえには不幸がまとわりついていくんだよ。この血肉の味がおまえの舌から消えないのと一緒でな!!」
「――っ」
びしゃ、とイヴの手のひらがラズワードの口に押し付けられる。指を突っ込まれ口を閉じることができなかったラズワードの口の中に、それが流れ込んできた。味わったことのない、生の内臓。血なまぐさい肉の破片。ざらつく妙な弾力のある皮膚。
あまりの気持ち悪さに、強烈な嘔吐感を覚えた。生理的な涙も溢れてくる。それには口の中にある物体が友人のものだなんてことは関係なかった。同じ人間の、生の肉が口の中に押し込められていると考えただけで体が強烈な拒否感を示すのだ。むしろ、友人のものだということは、余計にそれを加速させた。
飲み込めるはずもなく、それはずっと口内に留まり続ける。そうすれば余計に血の味が広がっていくことなどわかっているが、どうしても飲み込むことはできなかった。イヴがそれに気付き、ラズワードの口の中にさらに指を推し進めていく。肉片を押し込み、無理やり喉の奥へ突っ込んだ。ぐりぐりと押し込められ、息苦しさを覚える。限界を感じ、とうとう、飲み込んでしまった。
ごく、と不自然なほどに飲み込む音が脳内に響き、自分が友人の肉を食らったのだという事実が叩きつけられる。それと同時に、こらえきれない吐き気がとうとう形となってあらわれた。胃液と共に、今飲み込んだばかりの肉片がこみ上げてくる。イヴが指を引き抜きラズワードの頭を地面に叩きつけると、吐瀉物は地に広がる血肉と混ざり合い不気味な色となっていった。
「っ……おえっ……げほ、」
「無様だな、ラズワード……もっとその醜態を俺に見せてもらおうか……一生をかけて」
ゆっくりと目だけでイヴを顧みると、恐ろしく冷たい瞳でイヴが見下ろしていた。何がそこまでイヴを激高させたのかわからない。そんなことを考えることもできないほど、ラズワードの精神は擦り切っていた。友人の血肉と自分の吐瀉物の臭いにまた、吐き気を覚える。
「……次は、こんなもんじゃすまないからな」
涙にぼやける視界の中、イヴが言い放つ。そして、あっけなく消えていってしまった。
悪臭が鼻をつく液体の中に倒れ込みながら、ラズワードはただ弱々しく息を吐くことしかできなかった。起き上がろうにも、あまりにもショックが大きすぎて頭が働かない。
不自然なほどに静まり返った村は、なぜか人の気配を感じない。イヴが魔術かなにかを使っているのだろうか。そんなことはどうでもよかった。グラエムが死んだという事実を、血の臭いと肉の感触、舌にこびりついたその味が教えている。今更のようにその事実に、ラズワードは悲しみを覚えた。
朝日に照らされ、ただ、泣いた
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