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*** 「――どう、できそう?」 「うん……なんとなくわかってきた」  時折掠める香水の匂いが気になって仕方がない。改めて見てみればラズワードの体つきはもうすっかり大人の男性そのものだ。少し細身ではあるが、骨ばった肩やすっと通った首筋、シャープな輪郭も昔の彼とはまるで違う。 「――姉さん?」 「……えっ?」 「ここ……ここ、わからないから教えて欲しいんだけど……」  ラズワードが魔術書の一角を指差す。はっとしてアザレアが魔術書を覗き込めばチラリとラズワードが顔を傾け見上げてきた。 「……あ、……ど、どうしたの?」 「……」  ラズワードが黙り込む。青い瞳に見つめられ、心臓がバクバクと高鳴っていく。血の気が引いていく。まったく表情が読み取れない。何を考えているのかわからない。言葉を覚えはじめたころに見せてくれた柔らかい笑顔が忘却の彼方へ消えていく。今のラズワードに、純粋さなど、どこにもない。 「――もしかして、見てた?」 「え……ンッ!?」  体を引っ張られ、唇を塞がれた。  ゾワッと身の毛がよだつようだった。その時ばかりは弟に口付けられたことが問題ではなかった。ラズワードは口付ける瞬間こそは目を閉じたものの、すぐにその目を開き、暗闇を溶かしたような瞳でアザレアをじろりと見つめたのだ。  本能か、アザレアはラズワードを突き飛ばす。それはさながら獣に襲われた小動物のように。  アザレアが唖然とラズワードを見つめれば、ラズワードは唇を拭ってため息をついている。 「――みんなさ……みんな同じなんだよ。借金の元になっている俺を疎ましく思いながらも……この顔を物欲しそうに見つめてさ。おかしいとは思わないのかな。この顔は「水の天使」の証だっていうのに。……俺のせいでもしかしたらこの屋敷を追い出されて働き口がなくなるとか住む場所がなくなるとか、そんな不安が生まれて来るっていうのに――どうだ、ちょっとカマかけてみればすぐについてくる。俺と関係をもつことを喜んで受け入れる。……わかりやすくて結構。それでアイツ等が満足するんだから簡単なもんだ。俺の存在価値ってやつをちゃんと謳歌しているんだよ」 「……ラズワード……?」 「……気付いた? この屋敷にさ、今にもワイルディングが壊れるっていう恐怖が充満していたのに……最近はそうじゃない。その恐れも……すべて、俺への肉欲に変えて、全部俺にぶつけて……ヤク中になっているみたいだろう? 夢を見せているのさ。恐怖を感じない、どう俺の心をつかむか、そんなことばかりを考えるようになって……アイツ等の心の闇を俺は一身に浴びて、……ハハ、すっげぇ気持ちいいよ。……自分が壊れていくのがわかる」 「……」  アザレアは何も言い出すことができなかった。体が震えている。これは誰。本当にラズワード? いつの間にこんなになってしまったの――? 予兆はあった? 私が気付けなかった? だとしたら…… 「……なあ、幻滅した? 姉さん。見たんだろ。俺が色んな奴に手をだしているところ――どうなんだよ」 「……し、して……ない……! た、ただ……びっくり、したけど……」 「……ふうん。だったらさ……受け入れてくれよ」 「な――まって……! ん、んんッ……」  ラズワードはアザレアを壁に追い込み、唇を重ねる。 ――怖い。怖い、こわい……!  弟に襲われていることじゃない。男に唇を無理やり奪われることじゃない。ラズワードが自分の知らない誰かになっていることが怖くて堪らない。 「ラズワード……ラズワード、なんで……どうして……!」 「……姉さんだけが……」 「……え?」 「――姉さんだけが……! 俺の、全てなんだ……」  ぎょっとした。  ラズワードが、泣いていた。  その意味がわからなくて、アザレアはただ狼狽えることしかできない。泣いている意味がわからなければ慰めることなんてできないし、その原因が自分にあるのなら尚更だ。 「俺の……俺の世界が変わったのは……姉さんが剣を俺に教えてくれたあの時から……。ただワイルディングの人形だった俺に、生きる道を、自分が輝けるものを……姉さんが教えてくれた……。姉さんは、言ったよな、「剣は大切な人を守るためのもの」だって。……俺にとっての全てだった剣は、大切な人を守らなければ意味を為さない、大切な人がいなければ俺の生きている意味がない……! この屋敷で、……俺の生きた世界のなかで、俺が大切だって思えた人……それは姉さんだけなんだ……」 「……ラズワード」 「姉さん、俺は姉さんのことしか見ていないよ。……姉さんも、俺のことだけを……見てくれよ……。そうじゃなかったら……俺……もう、もう……なんで生きているのか、ただワイルディング家に生かされているだけなら昔と変わらない……俺は……人形のままだ……『オリヴィア』のままなんだ……」 ――ああ、そうか  自分の胸に縋り付くラズワードを見て、アザレアは思う。 ――ラズワードはまだ、鳥籠の中にいる。  言葉を教えた。剣を教えた。鍵は開いているのに、ラズワードはまだ鳥籠の中から出て行っていないのだ。 「……ラズワード。貴方は……空を知らないの」 「……え?」  自分を異常に愛でたワイルディング家の者たち。それだけしかラズワードは見てきていない。狂った世界のなかでただ一人普通に接したアザレアは、さぞかし眩しく見えただろう。籠の外から鍵を開けてくれた人を、いつまでも籠の中で想い続けているのだ。まるでその人しかいないとそう錯覚しているかのように。 「――飛び立ちなさい。籠の中はもう振り返らなくていい。もうじき籠は壊れるでしょう。私のことも忘れて」 「……な、無理だ……無理に決まっているだろう……! 姉さん以外に誰が……」 「だから外の世界にいけと言っているの。そうすればもっと沢山の人がいる。もっと貴方が……守りたいってそう思う人がいる」 「――ッ」  ラズワードの瞳が震える。きっと彼はまだ本当の恋も愛も知らない。今までずっとたくさんの人から歪んだ愛を受けてきた彼は「愛」というものをはき違えているのだろう。アザレアにキスをしたのだって、決して恋情を持っているからせはない。ただ優しくて、まぶしかった人への憧れとか感謝の気持ちとか、そんなものをラズワードはもっているだけ。その表現をラズワードはこうすることしか知らないのだ。 「同じだよ…この屋敷の外に出たって何も変わらない。俺の目に映る世界は……いつだってめちゃくちゃに壊れていて、くるっているんだ……! 俺の存在が、そうしてるんだよ……」 「そんなことない、一度も外を見ていないのに決めつけないで……!」 「なあ……、姉さん、俺が、何をしたっていうんだよ、なんで、なんで……もう、つらいよ、苦しい、……助けて……」  額を手でおさえてラズワードは身を震わせながら涙をこぼす。屋敷中の女の視線を一斉に集める美丈夫、アザレアよりも背の高く成長した「男性」、しかしこの時ばかりは昔の彼となにも変わっていないように見えた。アザレアにそっと寄り添いながら泣く彼は痛々しくて、悲しくて、さっきよりもずっとずっと小さく見える、背中が細いように感じる。 「わからない……わからないよ、姉さん。どうして姉さんは俺に飛べなんて言うんだ……俺は……羽なんて持っていないのに……」 「ううん。貴方は立派な羽をもっている」 「……なに、それ。俺の顔か、目の色か……! たしかに、これさえあれば俺はどんな相手だって誑かせられる、俺のモノにできる……でも、そんなことしても楽しくない、俺が壊れるだけだ……」 「違う。……違うの、ラズワード。……貴方が持っているのは、強い魂。……貴方はワイルディングの子。貴方が振るう剣は、きっと何よりも強い。貴方が守りたいと想う心が強ければ強いほどに。……大丈夫、ラズワード。空はね……外の世界は……貴方が思っているよりもずっと美しい。貴方が心から愛せる人が絶対にいる。貴方は、その人のもとへ飛ぶの」  ラズワードは瞳を震わせる。唇を噛んで、アザレアの言葉を信じたいと、そう願うように綺麗な涙をこぼす。それでもきっと彼の生きてきた世界はあまりに狂っていた。それはいつまでもラズワードの頭の中に残像のように残り続ける。すぐにはアザレアの言葉を信じることはできないのだろう。  しかし、ラズワードは少し安堵したように目を閉じる。そして、優しくアザレアを抱きしめた。先ほどとは違う、どろりとした感情を感じさせない抱擁だった。 「……姉さん。姉さんは……大切な人がいるの?」 「……うん」 「……その人のために……姉さんは、剣を振るうんだ。姉さん、姉さんはその人を守るって、そう思っているんだ」 「――そうよ」  アザレアはエリスの顔を思い浮かべる。 ――いつもお傍にいて、私はあの人を守っている  ふと、エリスの笑顔を思い出してアザレアは微笑んだ。 「――姉さん」  ラズワードがぽかんとしてアザレアを見つめる。なんだろうと思ってアザレアが見つめ返せば、ラズワードはアザレアの頬をそっと撫で、言った。 「――綺麗」 「……え」 「……その人を想っている時、姉さんはそんな顔をするんだね。……すごく、綺麗。……そうか、大切な人を守るってそう……強く思えば、こんな表情ができるんだ」 「……ラズワード」  アザレアはラズワードを顔を両手で包み込む。まだ呆けた顔はしていたが、そうしてやればラズワードは少しだけ笑った。 ――あ、この顔。  ラズワードが純粋だったころの笑顔。『オリヴィア』から開放され、アザレアに剣と言葉を習い始めたころの笑顔と少し似ていた。自分の内に潜む「強さ」に知らずに惹かれ、剣を必死に振るそれはそれは美しかったあの頃の彼の笑顔に。 ――貴方はきっと、もっと美しい。自分の「強さ」を本当に知ったなら……貴方は空に舞う星達よりもずっとずっと美しくなるだろう。 「……姉さん」 「なあに」 「……信じていい? 俺の未来に、守りたい人がいるってこと」 「――もちろん。……それが貴方の運命なんだから」  そう、この青い瞳をみたときに思ったことがある。深い深い青の瞳は、まるで夜明けの空の色のようだ。闇を裂く光のようだ。きっと貴方は誰かの闇を壊してあげるんでしょう。そして貴方はその人の傍にいることが運命なのでしょう。その深い色は凄まじい魔力をもつ証でもあるから、それがまたその人の傍にいる資格になると、そう思う。 「――運命。俺の運命は……」  その瞳に託す貴方の未来。空が映す貴方の運命。  ラズワードには見えただろうか。まだ溺れているようにゆらゆらと揺らぐその瞳には見えないかもしれない。でも、鍵はもう開いている。貴方の意思で、もう貴方は飛べるはず。

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