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1 ただいま

 午後七時半。  俺、小波太一(さざなみ たいち)が「サラリーマン」から「父親」に戻る時間だ。  エレベーターを待つ時間すら惜しく、階段で一気に三階まで駆け上がる。コンクリートの廊下を慌ただしく駆け抜け、俺は『小波』の表札のある小豆色のドアへたどり着いた。  ドアにそっと手をつき、俺は荒ぶる呼吸を整える。ドアの向こうから聞こえて来るのは楽しそうな笑い声。その声につられるように口角を吊り上げた俺は、そっとドアノブを回した。 「ただいま」 「「おかーりなさーいっ!!」」  返って来た明るい二つの声。  それに合わせて、リビングのドアからひょっこりと大きな笑顔と、小さななにかみが顔を出した。  俺が玄関でしゃがみ込み、そっと両腕を広げてみせる。  すると、小さなはにかみを浮かべていた我が息子が、とてとてとゆっくり寄ってきた。 「おかーり。パパ」 「ただいま、達二(たつじ)。いい子にしてたか?」 「とーくんがいたから、だいじょーぶ」  にっと笑って、すっぽりと俺の胸元に収まる達二。  達二の笑顔を見る度に、俺は『笑顔は太一に似てるね』と律が言っていたことを思い出す。  しかし、父親の俺からすれば、達二は律をそのまま小さくしたようにしか見えない。性格も律に似ているし、達二から父親である俺の要素を感じたことはないのだが。 「アツアツのところ悪いんだけどさ、お二人さん。三人揃ったから夕飯にしたいと思うんですが、どーっすかね?」  こんこん、と軽いノック音が正面から聞こえてきて、俺ははっと我に返った。  リビングの入り口から顔を出したままのもう一人の同居人——(とも)くんが首を傾げている。  右耳の金色のピアスがきらり、と輝くのを見て、俺は思わず目を細めた。 「パパ?」 「あ、ああ、そうだな。待たせてすまなかった」 「全然平気。たーじとパパを待つって約束してるから。な、たーじ」 「うん!」 「いつもありがとう、智くん」  達二を抱き上げて、ずっとリビングのドアから出て来ない智くんに、俺は精一杯の笑顔を浮かべてみせた。  すると智くんは、ぱっと背中を向けてしまって、 「お礼はたーじに言って」  と素っ気なく言うのだった。

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