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2「天敵」から「同居人」になるまで

 智くん――義弟との出会いは、最悪だった。 『結婚前に子供作るとか、アンタ、無計画にも程があるんじゃないんですか?』  顔を合わせるなり、俺を睨みつけながらそう告げた智くん。  その姿は彼女――律から聞いていたものとは大きくかけ離れていた。  いつも笑顔で明るくて、誰に対しても人懐っこい弟じゃなかったのか。  そう疑問を抱くと同時に、俺は改めて婚前前に律を妊娠させてしまったことの重大さを思い知らされた。  俺が大学生の時、居酒屋でのバイトで知り合った律。彼女とは結婚を前提として付き合っていた。  妊娠発覚は、そろそろ籍を入れようか、と、予定を調節している最中の出来事だった。  両親を早くに亡くした智くんにとって、姉の律は唯一の家族。その家族を、顔を合わせたこともない男が妊娠させた挙げ句、『お姉さんと結婚したいんだ』と告げてきたら、不愉快な気持ちになるのも仕方のない話だ。  初対面から、いきなり敵意の籠もった眼差しを向けられた俺は、 『っも、申し訳ない! この責任は、俺の生涯を賭けて背負う覚悟だ!』  と、智くんの前で土下座した。 『た、太一、そんな大げさな……もうっ、智! アンタもいきなりそんな失礼なこと言わないのっ! アンタのお義兄さんになる人なんだよ?』 『ねーちゃんが何と言おうと、俺はソイツを兄貴だなんてぜってー呼ばねーからなっ! 結婚だって認めるかよ! アンタにねーちゃんはやらねー! 子供は俺がねーちゃんと一緒に育てるからっ!』 『こら、智!』  土下座する俺の頭上で、繰り広げられた姉弟喧嘩。  あの時は大変だったが、今はもう、二度とその喧嘩が見られないのだと思うと、懐かしいような寂しいような不思議な気持ちになる。  律と結婚した後も、無事に達二が生まれた後も、智くんは俺のことを認めようとしなかった。  顔すらもまともに合わせてくれず、律や達二と会う時は、必ず俺が家を空けている時間帯にしていた程だ。  律が大切に思うように、俺も智くんを理解したい。  だが、初対面であそこまで怒らせてしまったのだ。俺が歩み寄ることで、更に嫌な思いをさせるのもいかがなものか。  そう思って、俺も敢えて智くんには接触しないように心がけていた。  律が気を遣って、夕食や達二の誕生日を理由に、度々俺たち二人を引き合わせようとしてくれていたが、俺たちが親しげに話すことは一度もなかった。 『ねえ、太一は智のこと、嫌い?』  ある晩、律は神妙な顔でそう尋ねてきた。 『そ、そんなことは、ない。ただ……向こうは俺のことをよく思っていないし、下手に近づいて不快な思いをさせるのはどうなのかと……』  しどろもどろに答えた俺に、律はくすっと悪戯っぽく笑った。 『智、素っ気ない態度ばっかり取ってるけど、本当は太一と仲良くしたいと思ってるんだよ』 『別に気遣うことはないぞ、律』 『気遣いじゃなくて、本当だってば』 『智くんがそう言ったのか?』 『はっきりそう言ったことはないけど……でも、智、ことあるごとに太一のこと聞くんだよ。ちゃんと父親らしいことしてるのか、とか、浮気はしてないのか、とか』 『気にしているというより、疑ってるんだと思うが』 『本当に嫌いだったらさ、多分、いないものとして扱うんじゃないかな。私、智と太一が仲良くしてくれたら、すっごく幸せだよ。どっちも私の大好きな家族だからさ』 『律……』 『それにほら、達二が大きくなって、『お父さんと叔父さんとキャッチボールしたい』って言い出すかもしれないでしょ?   そのためにも、智ともっと仲良くなろう、太一! 私も協力するからさ』  律は明るく笑って、俺の背中をぱん、と景気良く叩いた。  その背中の痛みに俺は苦笑を浮かべながら、『それなら、頑張ろうか』と答えたのだった。  そんな彼女が亡くなったのは、一年前。達二が二歳の誕生日を迎える前のこと。  交通事故に巻き込まれ、そのまま意識が戻ることなく、数日後に息を引き取った。  母親が亡くなったことを理解できないものの、父親である俺が不安定であることを察したのか、葬儀の間、達二はずっと泣いていた。律の葬儀で覚えているのは、そのくらいで、後は何一つ、俺の頭の中には残っていない。  恐らく、葬儀を終えたその日か、数日後のことだったと思う。  深夜に突然、うちのチャイムが鳴ったのだ。  こんな夜更けに一体誰だ、と怖々と出て行ったら、俯いた智くんが立っていて。 『どうしたんだ、智くん』  そう呼びかけた途端、彼は無言で俺に抱きついてきて。  そのまま何か言うこともなく、大きな声で泣き始めた。  最初は何が何だか分からなかった俺だったが、気がつくと、彼の旋毛に顔を寄せて涙を零していた。 『智くん、一緒に暮らさないか』  お互いの涙が枯れた頃、俺は掠れた声で智くんの耳にそう囁いていて。  その途端、智くんは体を強ばらせたかと思うと、俺の腕を振りほどいて後ずさりした。  そのまま走り去ってしまうかと思ったが、彼は濡れた目を丸くしたまま、じっと俺を見つめていた。  智くんが逃げないでいてくれることを嬉しく感じながら、俺は精一杯微笑んだ。 『達二も、その方がきっと嬉しいだろうと思うんだ。  それに、律も言っていた。智くんは大切な家族だと。  俺にとっても、君は大切な家族だ。うちに、おいで』  今までのことを考えれば、すぐに断られるだろう。  そう思っていたのだが、智くんは目を丸くしたまま、こくり、と首を縦に振ってくれて。  そして、俺と達二と智くんの三人暮らしが始まったのだった。

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