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ぐいぐいと引っ張られて、氷高は建物の外まで連れてこられた。ほとんど人影もなく、先程まで注目の的だったのが嘘のようだ。
「せ、契さま……」
契は壁に寄りかかり、腕を組みながら氷高を睨みあげた。やたらと怒っている様子だ。しかし、氷高にはなぜ契が怒っているのかわからない。声をかけても何も言ってくれないため、契が何を望んでいるのかもわからないのだ。
そんな氷高の様子に、契は更に苛立ちが募っているようだった。顔がどんどんしかめっ面に変わっていき、今にも怒りが爆発しそうである。
……もう、氷高は逃げ出したくてしょうがなかった。どうしたらいいのかわからない状況に立たされているというのもあるが、それ以上に契が目の前にいるという事自体が辛かった。彼が目の前に現れると、自分のなかにあるあってはならない欲望が、顔を覗かせるからだ。
一方通行な想いだけでは足りない。彼からも、求められたい。
――見つめないで欲しい。その瞳の奥に、希望を探してしまう。
「あの……」
「しゃべんなよ。時間がない」
「……契さ――ま……!?」
モヤモヤと、心の中で霧が渦巻いてゆく。正体不明の感情、それが自分の中を支配してゆく感覚。氷高は気持ち悪くなって、この状況を打破せねばと考えた。
とにかく、契がなぜ怒っているのか、聞き出すのだ。そして、ちゃんと彼を話をしよう。氷高はそう心に決めて、会話を切り出そうとした――が。その、瞬間だ。契が氷高のネクタイを引っ張り、氷高の唇を奪ったのだ。驚きのあまり目を見開いた氷高だったが、契はキスをやめようとしない。必死に背伸びをして、ちゅ、ちゅ、と何度も何度も、キスをしてくる。
「……ッ、……!?」
慣れないキスを、一生懸命にしている契の顔。氷高はそれを凝視しながら、真っ白になった頭を必死に回転させる。
契は、何をしたいのか。怒っているはずではないのか。なんで、キスなんてしてくるんだ。
氷高の頭は、大混乱。しかし、混乱もすぐにどうでもよくなってくる。契にこんな風にキスなんてされたら――……
――理性が、壊れる。
「……ッ」
氷高は契の肩を掴むと、勢い良く壁に押し付けた。そして、契の両脇に叩きつけるようにして手をつく。今までの抑制はどうしたのか、氷高は自分の体と壁の間に契を閉じ込めるようにして、ぐっと契に迫ってしまった。こつ、と額を合わせれば、はあはあと荒げる吐息が重なって、呼吸が苦しくなる。
あまりにも、乱暴な迫り方だった。執事が主人に対してとって良い行動ではない。しかし、そんな風に迫られて、契は嫌な顔ひとつしなかった。じっと熱っぽい瞳で、氷高を見つめている。それはまるで、彼の行動を待っているように。
そんな契の試すような視線に、氷高は一瞬固まってしまった。その視線が、何を意味しているのだろう、そう思って。けれど、そんな躊躇などすぐに吹き飛んでしまって、氷高は契の唇に噛みつくようにキスをした。契の甘い匂いを感じていたら、抑えなどきかなかった。
「――あ、」
契は氷高に唇を奪われると、満足したように目を閉じて頬をふわりと紅に染めていく。背中に手を回して、ぎゅっと氷高に抱きついた。
契のその仕草が、火種になった。氷高の理性は、ますます崖っぷちへ追いやられてしまう。チリッと火花をあげた劣情は、一瞬で業火のように燃え上がった。
契の唇に、舌をねじ込む。契はあまりキスに慣れていないとわかっているのに、氷高は興奮のままにキスを激しいものにしていった。手のひらで契の頭を鷲掴みし、覆いかぶさるようにして契の唇を貪っていく。それはもう、捕食でもするかのような勢いで。
「んっ……、ぅ……」
呼吸すらもろくにできず、契は苦しそうな声をあげていた。しかし、氷高のキスについていこうとしているのか、下手ながらにも舌を必死に動かしていた。両手で氷高にしがみついていた。されるがままになりながら、ぎゅっと目をつぶって氷高のキスに応えていた。
(契さま……契さま、契さま――全部、欲しい……契さまの全部が、欲しい――……)
激しい劣情をぶつけても、醜いほどの欲望をぶつけても。契はそれを全部受け入れてくれた。呑み込んでくれた。腰が砕けて身体が崩れ落ちそうになっても、氷高にしがみつきながら、氷高の熱を受け入れていた。
そんな、契の姿は。氷高のなかにあった死にかかった想いに手を差し伸べていた。氷高自身が「あってはならない」と潰してしまったその想いは、氷高のなかで血まみれになって横たわっていた。しかし「契と愛し合いたい」、そんな想いが――契の手によって、ゆっくりと息を吹き返したのである。
「あっ……」
ふ、と心の中が軽くなったような気がして、氷高はそっと唇を離す。暴れ狂っていた劣情が、なんとなく、落ち着いたようであった。しかし、契への愛おしさはかえって増すばかり。氷高はどうしようもない想いに胸を支配されながら、契をぎゅうっと抱きしめた。
整理できない想いは、言葉にすることができなかった。氷高は、契を抱きしめたのはいいものの、何も言うことができなかった。
しかし、契はそんな氷高を黙って抱きしめ返す。激しいキスで火照った身体で、自分よりも背の高い彼を抱きしめていた。
「契さま……」
ポツリ、氷高が契の名を呼ぶ。そうすれば契はそっと氷高を押し返して、氷高の瞳を見つめてきた。
「――……ッ」
氷高は、黙り込む。じっと自分を見つめてくる契の瞳に、恐怖を感じていた。熱っぽいその眼差しのなかに、可能性を探ってしまう自分が、怖かった。
しかし、その瞳から目が離せない。吸い込まれてしまう。
二人はどちらともなく目を閉じて、もう一度、キスをする。それは、触れるだけの、キスだった。
「……飛行機、間に合わなくなるぞ」
「え、」
唇が離れると、契はすっと氷高から目をそらし、腕時計を見つめる。氷高も真似をして自分の時計を見てみれば、たしかに搭乗時間が近づいていた。
契が、とん、と氷高を軽く押しのける。そして、「あ」という間に氷高の前から走り去っていってしまう。
「契、さま」
結局、氷高は契がなぜ怒っていたのか、わからなかった。それでも、契とのキスで、少しだけ胸の中にあった霧が晴れていった。「存在してはいけない」のだと、殺していた想いが救われたような気がした。
――けれど。まだ、それは「気がした」だけ。その気持ちに、まだ氷高は名前をつけていない。
唇に残る熱に、契の熟れた瞳を思い出す。あの瞳を――自分だけのものにしたい。そんな想いが、ゆらりと心の中で、揺らめいた。
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