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「氷高くんは、英語とドイツ語のほかに何語を話せるんだっけ?」 「フランス語とイタリア語、それからヒンディー語です」 「いやあ、ほんとうにすごい」 「……ただの、趣味です。外国の言葉や文化が好きなので」  契と別れ、氷高は再び絃のもとへ戻った。未だ、契の熱視線が頭から離れない。この状態で彼の父親の前に立つのは妙に気持ち悪かったが、そんな気持ちを顔に出さないように氷高は平静を繕っていた。  飛行機へ乗り込みながら、絃は氷高にゆるやかに話しかけてくる。なんとなく、契に攫われる前よりも言葉数が多いような気がして、氷高は絃に若干の違和感を覚えていた。 「好きだからといって、その数の外国語を話せる人はそういないよ。才能だと思う」 「……でも、私はほかのことはからっきしですから」 「ふ、……有名大学A判定でその顔で自分を卑下するのは、日本人の9割を侮辱しているようなものだぞ」 「……すごいことなんかじゃ、ありません。むしろ、私の立場を考えれば全然足りない。私は、契さまのお傍にいる人間です。勉強はできなくてはいけないし、身だしなみもきちんとしていなければいけません」 「……君の基準は、いつも、契なんだなあ」  席に座ると、絃は背もたれにどっかりと体を預けながら氷高を横目で見つめた。心の中を探られているような気がして、氷高はドキッとしてしまう。彼の視線から逃げるように目線だけを逸らしたが、彼の舐めるような視線からは逃れられない。 「……契と、何を話してきたんだ」 「――ッ」  絃の言葉に。ぐっ、と息を呑む。  まさか、何もかもがバレているとでもいうのか。 冷水を浴びせられたような寒気を覚えて、氷高は瞠目した。明らかに顔色を変えた氷高を見て、絃は「やはり」とため息をつく。 解雇されるか、それともこのまま外国に飛ばされるか……とにかく、契のもとにはもういられない。氷高はそれを覚悟したが―― 「氷高くん。君はね、契に執着しすぎなんだ。いいか、たしかに私は君を契の世話役として雇っている。けれど、私は君の時間を買っただけで君の未来を買ったわけじゃないんだよ」 「……おっしゃっている意味が、わかりません」 「君と契の関係は、ただの主人と執事。それ以上でもそれ以下でもない。君は、君の未来まで契に捧げてはならない。君のような才能にあふれた人間が、誰かの下でくすぶっているのを、私は見ていたくないんだよ」 「わ、私は私の意思で契さまの執事に――……」 「由乃さんのお墓の前でそれを言えるかい」 「――……ッ」  ――絃の瞳に、憤りはない。ただ、心から氷高のことを想っているようだった。  氷高は言葉を失い、固まってしまう。自分という存在を見返した時――果たして自分は、母へ自分を誇れるのだろうか。それを考えてしまったのだ。  氷高の母・由乃。彼女は、オペラ歌手を目指していた美しい人だった。しかし、喉頭がんを患い、歌手になることを断念。氷高家の伝統にのっとり、鳴宮家のメイドとして働くことになる。そんな経緯もあってか、由乃は氷高が「映画監督になりたい」という夢を語ったときに喜んだし、そして叔父の影響を受けて外国語を習得していっていく氷高を見て本当に嬉しそうにしていた。自分とは違って、氷高は夢を叶えることができるのだと。由乃は氷高が高校生の時、肺に転移した癌によって亡くなった。彼女は最後まで、氷高に「夢を追い続けて」と言っていた。  自分の夢は、一体なんなのか。本当に、映画への憧れは捨てていたのだろうか。もしも捨てていたのなら、なぜ自分は外国語を習得するまでに外国の映画を学んでいるのか。 「……今回の渡独は、ビジネスの目的もあるが……私の知り合いの、エーゴン監督へ会いにいくことも兼ねているんだ」 「エーゴン監督……!? あの……!?」 「今、彼は――……若者の、弟子が欲しいと言っているみたいだ」  ――夢、ってなんだ。  氷高は、迷う。素晴らしい映画を見たときの高揚感。自分もそれをつくる立場になりたいと願った、情熱。それと比べるには、「契の執事でいたい」という想いはあまりにもささやかなものだ。けれど、初めて契と出逢った日――無意識に彼の手の甲にキスをした。彼と共に生きることが、運命だと信じていた。  変わらない日常を選ぶか、目の前に広がる世界へ飛び込むか。この狭い飛行機の中で決めるには、残酷すぎる選択肢。 「……少し、考えさせてください……」  どちらの道も、きっと、熱いだろう。自分の心には、炎が激っているだろう。  でも――契の傍にいなければ、感じないモノがある。きっと世界の中で戦っていくとして得られる傷よりも痛み、そして常に居座り続けるモノ。  契の瞳に見つめられた時の、ちょっぴりの、切なさだ。

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