1 / 6

第1話

 進藤秋彦(しんどうあきひこ)は、狼狽していた。  腕を組み、パタパタとスリッパの音を響かせながら、ソファの周りをくるくると落ち着きなく歩き回る。  進藤秋彦は、恐れていた。  これから生活を共にする同居人と、顔を合わせることを――。 ×××  三月に入りやっと春めいてきた今日この頃。清林大学学生寮の一角にあるこの部屋にも、春の暖かな日差しが差し込んでいた。一週間ほど前に卒業式が執り行われ、四月から新社会人として新しいスタートを切る先輩たちは次々とこの学生寮を後にした。そして、もうすぐ彼らと入れ替わりでやってくる新入生を迎えるため、今日は学生寮の部屋替えが行われていた。二年生に進級する進藤秋彦も、一年次より少しグレードアップしたこの部屋へと移ることになった。  部屋には個室が二つあり、リビングと簡素なキッチン、風呂トイレは共用だ。リビングにはソファとローテーブル、小さなテレビもある。一年のときはワンルームに二段ベッドという、この部屋よりもはるかに狭い部屋だったが、幸い同室はおらず、秋彦一人で部屋を占領していた。  そういう事情もあり、個室はあれども、初めて同居人ができることに秋彦はひどく緊張していた。しかも、その同居人は二年次からの途中入寮なので、面識がない。いわゆる人見知りである明彦にとって、同居人がどういうヤツか、ということは目下の大問題であった。 「はあ……」 思わず、ため息が漏れる。    そもそも、人付き合いの苦手な秋彦が、他人との同居を強いられる寮生活をすることになったのは、大学受験に失敗したためである。もとは国立大学志望であった秋彦であったが、試験に落ち、結局すでに受かっていた私立に行くことになった。当然、かかる学費は国立に比べるとはるかに高い。その代償として、長野から上京してきた秋彦は、家賃の安い大学の寮に入ることを余儀なくされた。  受験特有の張りつめた空気に飲まれ、まったく実力の発揮できなかった過去の自分を思い出し、秋彦は二度目のため息をついた。こんな辛気臭い顔でいたらこれから来る同居人に対して印象がよくないだろうと気を引き締めようとした、その時。こんっこんっと、ドアを叩く音に秋彦は体を強張らせた。 「は、はい……」  秋彦は力なく返事し、ソファから立ち上がった。ドアの開く音がし、ついに同居人――久野隆文(くのたかふみ)が姿を現した。 「お前が進藤?」  そう問いかける同居人は、整った顔に穏やかな笑みを浮かべていた。その顔には見覚えがあった。一年のときに一般教養の授業がかぶっていて、教室で見かけた記憶がある。見た目はクールで寡黙な印象だが、いつも人に囲まれていた。頭がいいのだろう、仲間に勉強を教えているところを何度も見たことがある。男女問わず人が集まっていたが、身長が高く、体つきもがっちりとしていて、清潔感のある短い黒髪に精悍な顔立ちをした彼は、特に女性を惹き付けるのに十分な魅力を持っていた。  そんな人気者が目の前にいると、長い前髪で顔を隠し、貧相な体を緊張で縮めている自分がなんだか惨めに思えてきて、つい下を向いてしまう。しかし、隆文はそんな秋彦に気を悪くすることもなく、手を差し出し、優しく声を掛けてくれた。 「俺は久野隆文だ。よろしくな、進藤」  そういって差し出された手に、秋彦は恐る恐る手を重ねる。 「よろしく……久野」 握った手の温もりに、自然と緊張は解けていった。  それから、お互い打ち解けるのにさほど時間は掛からなかった。話すのが得意でない秋彦の言葉にも、隆文は熱心に耳を傾けてくれたし、隆文も口数が多い方ではないが、それが逆に居心地が良かった。秋彦は文学部、隆文は薬学部なので構内で会うことはあまり多くなかったが、すれ違えば隆文は声を掛けてくれたし、食堂で会えば、人の輪を抜けて秋彦と食事を共にしてくれた。最初の緊張はどこへやら、秋彦も気兼ねなく接するようになっていた。  寮の食堂で夕食をとり終えた後、秋彦がソファで本を読んでいると、ふと影がかかった。 「何読んでるんだ?」 「ああ、近代文学の授業の課題。今度レポート提出しなくちゃならないんだ」 秋彦は表紙を見せるように本を傾けた。 「ふうん。難しそうな本だな」 「俺には化学式とか数式の方がよっぽど難しいけど」 風呂上がりの隆文は髪をタオルで撫でながら、秋彦の隣に座る。 「俺も読んでみようかな」 ニュースの流れているテレビを眺めながら、隆文はつぶやいた。  すると、驚いたことに、隆文は一週間後にはその本を読破してきた。お互いに感想を言い合った。専門外にもかかわらず、隆文の意見は的確で、口下手な秋彦も饒舌になり議論に熱中した。隆文のお陰で充実した大学生活は、あっという間に過ぎていった。

ともだちにシェアしよう!