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第2話

 梅雨がやっと開けようかという、蒸し暑さに包まれた日曜の昼下がり。秋彦は大学の図書館で授業に使う資料を借り、重くなった鞄を手に寮に戻ろうとしていた。空調の効いた図書館から一変、汗ばみ始めた肌にシャツがくっつく不快感と戦っていると、ふと後ろから「進藤」と自分を呼ぶ声に足を止める。 「今、帰りか?」  そこには、白い道着に黒袴という装いの隆文が、ペットボトルを手に立っていた。 「ああ。弓道部、暑くて大変そうだな」 「まあな。進藤は今日バイトか?」 「いや、今日は休み」  秋彦は、古本屋のバイトをしている。近代文学の授業で、何度か教授に質問に行っていたら、丁度いいと目をつけられたのか、教授の友人がやっているという店の仕事を紹介された。本の整理が中心で少し重労働ではあるが、あまり客は来ないし、いろんな本に出会えるこのバイトを、秋彦は気に入っていた。 「俺も今日はバイト休みなんだ。よかったら一緒に夕飯行かないか?いい洋食屋見つけたんだ」 日曜日は寮の食堂が休みのため、自分で食事を調達することになる。部活やバイトやらでお互いなかなか時間が合わず、同室といっても食事を共にすることは少なかった。 「ああ、行く!」 「そうか。じゃあ、部屋で待っててくれ。六時くらいには戻る」 それと、と隆文が歩み寄ってきたかと思うと、頬にヒヤッとした感覚が走った。 「これ、さっき自販機で当たったんだ。お前にやる」  そう言って、冷えたスポーツ飲料を秋彦の手に押し付けると、隆文は小走りで道場の方に駆けていった。荷物は少し増えたが、不思議と寮へ戻る足取りは軽くなった。  隆文が連れて行ってくれた店は、レトロな雰囲気が漂う、小さな喫茶店風の洋食屋だった。時間が早かったからか、ジャズが流れる店内に客の姿はまばらで、四人掛けのテーブル席に案内された。この店の名物だというハンバーグセットを、秋彦はチーズ、隆文は卵焼きのトッピングで注文した。  授業や部活、バイトのこと、何気ない話をしながら、料理ができるのを待つ。 「テスト終わったらもう夏休みだな。進藤は何か予定あるのか?」 「うーん、バイトと、お盆に実家帰るくらいかな」 「実家、長野だったか。涼しそうでいいな」 「まあ、山の上だから多少はな。こっちの暑さはたまらないよ。久野は?どこか行くのか?」 「いや、俺も部活とバイトくらいだな。バーの方は夜だけだし、昼間にもう一つ、短期のバイト入れようかと思ってる」 「へえ、頑張るなあ」 「まあな」  隆文は新宿のバーで働いているらしい。このルックスだ。バーテン服も、やすやすと着こなしてしまうだろう。 「そういえば、久野って東京出身なんだろ。どうして二年から寮に入ったんだ?」  なんとなく疑問に思っていたことを聞いてみた。初めから気になってはいたが、プライベートな質問かと思い、わざわざ聞くことはしていなかった。 「親が離婚したんだ」  まるで明日の予定を話すかのように、隆文はすらりと言い放った。 「わ、悪い」 「別に、大したことじゃないさ。二人とも愛人作って、お互いずっと別れたがってたんだ。俺が二十歳になるまで待ってもらったぐらいだし」  隆文がこれまで自分から話してこなかったのだ。触れられたくないことだと、どうして思い至らなかったのだろうと、秋彦は自分の軽率な発言に恥じ入った。だが、隆文は気を悪くする風でもなく、言葉を続ける。 「久野製薬って知ってるか?」 「ああ、よくCMでやってる……まさか、お前の?」 「ああ、俺の父親――だった人の会社だ。俺に付きまとってる連中は大体コネ狙いさ」 「……」 「姓は変えてないし、あいつらには離婚したことはわざわざ伝えていない。たぶん、怖いんだろうな、本当のことを言って、人が離れていくのが」  隆文は、まるで他人事のようにそう言った。普段の隆文とは違う一面を覗き見たような気がして、秋彦は無意識に息を飲んだ。 「なあ、進藤。久野じゃなくて、隆文って呼んでくれないか?」 「え?」 「お前とは家のこととか、そういうのナシで付き合いたいんだ。お前は、あいつらとは違うから。……な、秋彦」 「……ああ」  秋彦を見つめる隆文の目は、いつもの大人びた自信に満ちたものではなく、まるで縋るような光を湛えていた。そして、そんな目を向けられるのは自分だけだという、甘い感覚――これを優越感と言うのだろう――が、秋彦の胸を満たした。  ほどなくして、料理が運ばれてきた。乾いたのどを潤すために飲んだ水は、レモンの味がした。    八月も半ばに差し掛かり、秋彦は予定通り、隆文を寮に残し一人帰省した。 「お兄ちゃん、二年生から二人部屋になったんでしょ?うまくやれてるの?」 「ああ、ちゃんとやってる」 「秋彦、本当に大丈夫なの?いじめられてないのよね!?」 「だから、大丈夫だって!」  実家に帰ったとたん、母と妹に質問攻めにされる。それほど頼りなく見えるのだろうか。上京するときにも、東京なんて人がうじゃうじゃいるところに行ったら、外に出ることすらできないんじゃないかと心配された。確かに、最初は人ごみに酔ったりもしたが、なんとか一年半過ごせているのだから、少しくらい信用してほしい。 「すごい良い奴で、ちゃんと友達……?にもなれたし……」 「なんで疑問形?」 「友達の基準がわからないっていうか……」 「一緒に遊んだり、どこか行ったりは?」 「遊ぶ……?あっ、ご飯は行ったけど……」 「うん……お兄ちゃん、十分成長したよ」 「誰とも遊ばず本ばっかり読んでた子が……!」 「だから、余計なお世話だ!」  ハンカチで目を押さえる母を見ていると、相当心配させていたんだなと、なんとなく申し訳なく感じる。母からしたら、内向的でいつも一人でいた息子に、仲のいい相手ができただけでも、泣くほど嬉しかったのだろう。  隆文とは出会ったころと比べて距離は縮まったと思うが、堂々と隆文の友人だと言うのは、なんとなくはばかられた。いつも隆文の周りにいる奴らの方が、隆文といろんな話をして、いろんな場所に行って、たくさんの時間を過ごしているのだろうから。

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