1 / 6

三匹のオオカミ 1

体育館の中でボールの弾む音がしている。 ボーンボーンと反響して響くその音は、水の中にいるみたいにぼやけて聞こえてくる。 ただでさえ気怠(けだる)い午後の体育。 六月の雨によって密閉されたような空気の重い体育館で、俺はバレーボールのラインジャッジとしてコートの端に突っ立っている。 (シャキッとしろって方が無理難題だ) 俺は欠伸を噛み殺してコートの中を見た。 緩慢(かんまん)なラリーが行われているだけだった。 (蹴鞠(けまり)か、お前らは平安時代の貴族か) せめてもっとハラハラするような試合展開になっていればマシなものを。 すっかり気が削がれて隣のコートに目を移す。 そこでは茅野(かやの)がコートに入っていた。 ちょこまかと動いて可愛い。 子犬が芝生で走り回る姿を連想しながら、しばらくその姿を眺める。 授業中、茅野でそんな事を妄想してると知ったらまたプリプリ怒りそうだ。 (あっちのチームが良かったなー) ぼおっとその様子を見ていると突然、俺のチームが騒然とした。 突如わき起こった怒声と喧騒。 ハッとして目を戻すと、ボールを追って大柄な男が、俺の目前まで走り込んで来ていた。 周囲から口々に鋭い声が上がる。 「佐倉(さくら)危ない!」 「桧山(ひやま)、前っ!!」 走ってきた男が俺に気付いた時には、すでにお互い回避不能なほど至近距離で、正面衝突は防げなかった。 そいつも咄嗟(とっさ)にそう思ったのか、俺を(かば)うように抱き込んで床に転がった。 そして俺たちはそのまま激しく倒れこむ。 俺は背中に衝撃を受けてむせ込んだが、そいつが自分の腕を下敷きにしてくれたおかげで大したダメージはなかった。 「ッ──佐倉、大丈夫?」 利き腕で俺をかばったそいつ、同じクラスの桧山凪(ひやまなぎ)は左手で身体を起こしながら、真っ先に自分の身よりも俺の心配をした。 「俺は何ともねえよ。それより、おまえ腕、平気かよ」 俺はすぐに桧山の腕から退き、身体を支えて座らせる。 桧山は手首を動かそうとして顔を(しか)めた。 「ちょっと──やっちゃったかも」 しかし、すぐに飄々(ひょうひょう)とした顔で笑いながらそう言った。 「笑い事じゃねえだろ。とりあえず保健室」 肩を貸して立たせようとすると、桧山は笑顔のままそれを制した。 「足は何ともないよ。センセー俺たち保健室行ってきまーす」 「桧山お前、大丈夫か?」 体育教師が心配そうに言う。そりゃそうだ、桧山は右腕をダラリと垂らしたままなのだから。 「たぶん平気でーす」 しかし桧山は呑気な声で答えている。 そのまま俺たちは保健室へ歩き出す。 「悪りぃ。俺がボーっとしてたせいだ」 「佐倉だけのせいじゃないよ。俺も全っ然まえ、見てなかったしー?」 並び立って二人で歩く。桧山は俺が見上げる位だから180cmは優に超えてるだろう。 同じクラスだが今まで話したことも、ちゃんと顔を見たこともなかった。 黒髪を目にかかるくらいに伸ばしている。整ってはいるが全体的に長めの髪だ。 真顔でいればかなり見た目は良い方だと思うが、わざとなのかそうでないのか飄々とした話し方と、とぼけた雰囲気にカモフラージュされている。 だがその(りん)とした男らしい顔立ちはどこかで見たことがあるような気がした。 「なに?じーっと見つめちゃって。俺に見惚れてんの?」 そう言って桧山が肩を組んでくる。 「お前、やっぱり足どっか痛えの?」 支えが必要なのかと思って俺はそう聞いた。 「え?違うよ。ただの、スキンシップ」 桧山は肩に回した左腕に力を込めて俺を更に引き寄せた。 「変な奴。歩きにくいだけだろ」 すると桧山は楽しそうに喉の奥でくっくっと笑った。 「じゃあ佐倉は、面白い奴、だね」 なにがツボだったのか、桧山は保健室に着くまで、そのまま肩を組み笑っていた。 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ 「骨は折れていないようだけど念の為、帰りに病院へ行っておきなさい」 保健医の村井先生は桧山の治療を終えてそう言った。 テーピングでぐるぐるに巻かれた手首が痛々しい。 「えー?病院?嫌いなんだよなぁー」 桧山が不満げにそう漏らした。 自分のことのくせに子供のような奴だ。 「そんなこと言わずにちゃんと行けよ。右手、全然動かせないくせに」 「そうよ、万が一ヒビが入ってたらどうするの」 そんな桧山を俺と先生で(さと)す。 「じゃあ、佐倉一緒に行ってくれる?」 「いいよ。荷物持ってやるよ」 半分は俺のせいだ。嫌だと言っても俺が連れて行くつもりだった。 「いい友達がいて良かったね、桧山君。じゃあ佐倉君、お守りよろしくね」 村井先生が桧山の肩をぽんと叩いて俺を見た。 「了解」 「なんだよ二人して。人のこと子供扱い?」 「病院が怖いとか言ってる奴は子供だろ」 「怖いとは言ってないからね?」 「あなた達、それだけ元気あるなら、もう戻って残りの授業、うけて来なさい」 そうして保健室を追い出された俺たちは、着替える為にロッカーへ向かう。 もう体育は終わり、とっくに最後の授業が始まっている時間になっていた。 俺が着替え終わり桧山の方を向いた時、桧山はまだ上着を脱ぐのに四苦八苦している所だった。 利き手が全く使えないのは、やはりかなり大変なことらしい。 俺はすぐに桧山の着替えを手伝った。 「桧山。右手、体操着からゆっくり抜いて」 「サンキュー。片手だけって結構辛いのな。せめて痛くなきゃマシなのに。やっぱ病院で痛み止めは貰う必要あるな。あはは」 桧山は何でもないように笑うが、こっちはそれどころじゃない、罪悪感で一杯だ。 「本当……ごめんな。大体これ、俺を庇ったからだろ。俺なんか突き飛ばせば良かったんだよ」 「佐倉は優しいなぁ」 桧山が感心したような声を出す。 (どっちがだよ) 「桧山はなにもしなくていいから」 そう言って、ジャージのズボンを脱がして制服を履かせる時も、桧山の手を使わせなかった。 桧山は黙って俺の指示に従って、足を上げたり下げたりしている。 それからワイシャツの腕を通して、ボタンを下から留めていく。 鎖骨辺りのボタンを留めている時、桧山の左手が俺の腰に回った。 「……んだよ?」 「いや、エロくない?この構図」 「アホか。全然エロくねえよ」 そう言って桧山の左手を払う。 こんなでかい野郎を、俺が襲うかっての。 「あははは。佐倉ってストイックー」 桧山はわけの分からない事を言っている。 俺がストイックなわけないだろう。 茅野に対しては煩悩の化身だというのに。 もちろん、そんな事を教えてやるわけがない。 やっとの事で着替え終わって教室に戻ろうとした時、授業が終わるチャイムが鳴った。 思った以上に時間が掛かったようだ。 逆に中途半端に教室に入っていかなくて済んで、良かったと考えるべきか。 ノートは後で茅野にコピーさせて貰おう、と思う。桧山の分も。 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ 俺と桧山が教室に入ると、待ち構えていたのか茅野が飛んできた。 「佐倉っ、怪我したって。どこ?大丈夫?」 茅野が心配そうに俺の両肩を掴んで、上から下まで眺める。 「怪我したのは俺じゃねえよ。桧山だよ」 隣に立つ桧山を親指で指す。 茅野は一瞬安堵した顔をしたが、桧山の手首を見て居た堪れない表情になる。 「痛そう……」 茅野が思わずというように呟いた。 「痛いよー?」 ニコニコと微笑みながら、茅野に向かって桧山は答えた。 茅野が返事に(きゅう)している。 ここで桧山という奴を茅野にゆっくり説明している暇はなかった。 「この怪我、俺のせいだから、放課後、病院に付き添ってくる。で、部活休むから先輩に言っといて」 「あ、うん。分かった」 とりあえずの事情を話すと茅野は素直に頷いた。 「茅野ごめんねー。ちょっと佐倉、借りてくね」 「あ、ああ……」 茅野もおそらく桧山と話したことがなかったんだろう。 どう対応して良いか戸惑っているようだった。 「とにかく、病院行かねえと。荷物どれ?」 茅野とは夜にゆっくり話すとして、俺は桧山の席へ向かう。 そして自分と桧山のカバンを持って教室を出た。 桧山が自転車には乗れそうにないので置いていき、俺は自分の自転車を引いて歩く。 病院までの道すがら桧山が笑みを崩さず俺に言う。 「佐倉と茅野ってさぁ、仲、いいよねぇ」 「まあ、幼馴染みだからな」 俺は無難にそう答えておく。 桧山はふうんと考えの読めない返事を寄越(よこ)した。 「それで二人ともさ、クラスでは地味ーぃにしてるけど、実は結構イケメンだよね」 「はぁ?」 桧山は宙を見つめて首をかしげる。 「イケメンっていうのとはちょっと違うか。佐倉は格好いいけど」 言葉を切って意味有り気に、にいっと笑う。 「茅野はどっちかっていうと、カワイイ系?……ちょっかい出したくなっちゃう、ような」 「……お前、なに言ってんの?」 知らずに声が鋭くなるのが分かった。 「んー、たわごと?あはは」 桧山はふわふわと笑って、はぐらかしてしまう。 本当に考えが読めない。 「そう、女子が噂してるのを耳にしただけだよ。気にしないでね」 それも本当かどうか分からない。 「あ、ほら病院着いた」 そこは桧山の家の近くという整形外科だった。 ヒビが入っている可能性を考えてレントゲンを撮ってもらう。 受け付けを済ませて待合室に入ると時間帯のせいか、かなり混み合っている。 「俺この待ち時間が嫌で、病院来たくないんだよねぇ。今日は佐倉がいるから良いけど」 実際、診察するまでに一時間は待たされた。診察自体は十分ほどで桧山は戻ってきた。 「ヒビ、入ってなかったよ。全治一週間。腕の打撲と手首の捻挫で、痛みは三、四日で引くって」 「そっか。思ったより軽くて良かったな」 それから病院の隣に併設されている薬局で薬を受け取る。 「ねえ佐倉」 薬局を出たところで桧山が言った。 「うち、もうすぐそこなんだ。悪いけど、もうちょっと付き合ってくれる?」 「当たり前だろ」 もちろん最初からそのつもりだった。 「佐倉は本当、優しいなぁ。あんまり優しいと俺に付け込まれちゃうよ?」 「普通だろ、このくらい」 「……俺さあ、実は一人暮らしなんだよね」 「マジ?なんで?」 「家庭のジジョーってやつ?あはは」 桧山はまた考えの読めない笑みではぐらかした。 まあ、その辺は話したくないならそれで良かったが。 それから十分も歩かないうちに桧山の家に着いた。 普通に家族で住むような二階建ての一軒家だった。 こんなところに一人で住んでるんじゃ本当に何か事情があるんだろうと思う。 桧山に続いて、荷物を玄関まで運んでやる。 ついでに上がってと誘われるままに、桧山の家に上がり込んだ。 「ところで佐倉さあ」 二階の桧山の部屋に通されて、すぐに桧山が口を開く。 「さっきのたわごとだけど、すごく敏感に反応してたよねぇ」 「何のことだよ」 「茅野をとっても大事にしてるって、ことだよねー?」 「なに言ってるのか分かんねえよ。言いたいことあんならハッキリ言えよ」 桧山の笑みが一層濃くなる。 「あはは。あのさあ、俺一人じゃ身の回りのこと出来そうにないからさ、今日が火曜でしょ、金曜までの四日間でいいから、お世話して貰えないかなーって思って」 「はあ?そんなのしてやるに決まってんじゃん。回りくどい事、言ってんじゃねえよ」 茅野を脅しの材料に使わなくても、利き手の不自由になった一人暮らしの桧山をこのまま放っておくつもりなどなかった。 「佐倉は優しい通り越して、お人好しだね」 「なにそれ。褒めてんのけなしてんの」 「もちろん、けなしてなんかないよー」 ゆるゆると首を振って桧山が答える。 「でも、気をつけた方がいいかもね」 振り返りながらそう言った一瞬だけ、その横顔から笑みが消えたように見えた。 けれど後ろを向いたその表情は、もう俺からは見えなかった。

ともだちにシェアしよう!