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第1話

 暑い。とにかく暑い日だった。  八月に入ったばかりの夏休みだ。  買い物で午前中に家を出たが、帰り時にちょうど太陽が真上に来る時間になってしまった。考えなしの時間配分に自分を軽く呪っている。  熱されたアスファルトが鉄板のようになっていて自転車のタイヤがくっついて溶けそうだ。  家まではあと少しだったが我慢も限界だった。一秒でも早く涼みたい。  俺は吸い込まれるように目の前のコンビニに入る。  自動ドアが開いて灼熱と冷房の空気がムワッと混ざり合う。足早にそこを抜けて店内の奥まで入り込む。 (涼しい。天国ー)  もうしばらく外に出たくない。俺は本棚に回り込んで適当なマンガ雑誌を手に取る。 (これを読み切るまで帰らない、そう決めた)  俺の他に背の高い若い男が一人、立ち読みしている。大学生くらいに見えた。  特に気にせずに俺はマンガに目を落とす。  しばらく読みふけっていると、バックヤードから出てきたおばちゃんに声を掛けられた。 「あら、那月(なつき)ちゃーん、こんにちわぁ。今日は特に暑いねえ」  家から一番近いコンビニだけに、ここのパートさんには顔見知りが多い。  いま声を掛けてきたのも小学校の時の同級生のお母さんだ。  俺は会釈をしてまたマンガに目を戻す。 「立石那月(たていしなつき)?」  不意に横から見知らぬ男にフルネームを呼ばれた。  何事かと思って顔を上げる。  立ち読みをしていた男が、俺越しに何かを透かして見るような目つきをした。 「……那月?」  もう一度名前を呼ばれたが全く見覚えのない男の人だった。  俺が返事をしない、というか出来ないでいると、俺の目をじっと見て言う。 「俺、久坂依澄(くさかよりずみ)。分かんね?」 「久坂……」  その響きはどこかで聞いたことがあるものだ。でも思い出せない。  俺が眉間にしわを寄せているのを見て男は笑った。 「那月は『よりちゃん』て呼んでたな、俺のこと」  その笑顔と、よりちゃんという名前で、頭の中で何かがパチンと弾けたように一気に思い出した。  ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇  小学校の頃よく遊んでくれた大好きなお兄ちゃんがいた。俺が1年生の時お兄ちゃんは6年生だったと思う。  ちょうど俺と同じ位の学年の子供が近所に住んでいなくて、遠くの同級生の友達の家まで一人で遊びに行くのは、許してもらえなかった。  だから近くの公園で遊んでいる高学年の小学生に混ぜて遊んでもらっていた。  小学生なんて低学年と高学年では行動力も会話の内容もまるでレベルが違う。俺はいつもみそっかすだった。  でも、よりちゃんだけは俺の事をいつも気に掛けて構ってくれて、優しくしてくれた。  はっきり思い出せることがいくつもある。  ドッヂボールの時ごく(まれ)にコートに入れて貰えることがあったが、それは(ほとん)ど嫌がらせで、そんな時の俺は集中攻撃の動く的だった。よりちゃんは俺に強いボールが当たらないようにいつも(かば)ってくれていた。  隠れんぼをする時もぼやっとしてる俺を連れ、狭い茂みで大きな身体を小さくして一緒に隠れてくれた。  他の子達が自転車で別の遠い公園に行ってしまう時も、よりちゃんだけは俺と残ってくれた。それでも二人だけの鬼ごっこの方が他のお兄ちゃん達がいる時より楽しかった。  よりちゃんが俺だけに、俺の大好きな笑顔で笑ってくれる時が一番好きだった。  だけど──ある日突然よりちゃんは居なくなった。  ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ (その、よりちゃん!?)  目の前の男は、若いけど俺からしたら大人と変わらない青年だ。グレーのポロシャツに白いチノパン。普通に小綺麗な格好をしている。  艶々とした黒髪がその間から覗く切れ長の目にふさわしく見えた。俺より20㎝は背の高いその人物を見上げる。  記憶の中のよりちゃんとは余りに違いすぎて、俺はまだ戸惑っていた。 「よりちゃん……て、あのよりちゃん?」  要領の得ない俺の質問に、よりちゃんは声を出して笑った。 「他にもよりちゃんが居たなら分かんないな。でも小学生の頃、ここからすぐそこの公園で良く一緒に遊んでた奴なら、そのよりちゃんだ」 「遊んでた。いっつも、よりちゃんが遊んでくれた」  やっぱり間違いないらしい。  突然の再会と思い出が懐かしくて言葉が出ない。 「懐かしいな。那月、昔から可愛かったけど、さらに可愛くなったな」  なのにそんな軽薄な言葉をあっさり言われて、なんだかむっとする。 「なんだよそれ。男に可愛いとか褒め言葉じゃないじゃん」 「怒っても可愛いとか、もう反則じゃね?」  よりちゃんは平然と笑った。  その余裕の反応に思わず驚く。自分だったらそんな風に笑えないだろう。まるで知らない大人の男の人みたいだった。 (俺が知ってるのは小学生のよりちゃんなんだから、全然知らない人になってても不思議じゃないのか)  だけど、よりちゃんはよりちゃんだ。また会えて嬉しいことに変わりはない。 「なあ時間ある?うちすぐ近くなんだけど遊びに来る?」  離れていた時間なんかまるで関係ないように、気さくに俺を誘ってくれる。 「そんな近くに住んでんの?」  いつからまた近くに住んでるのとか、どうして急に居なくなったのか、とか聞きたいことはたくさんあった。  俺はもちろん頷いた。  ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ 「那月はいま中学二年?」  コンビニを出ながら、よりちゃんが聞いた。 「そうだよ」 「六年ぶりか。大きくなったよなあ」  俺が答えると間髪を入れずそう漏らす。 (そっちを先に言ってくれれば、まだ良かったのに。まず、可愛くなったな、ってなんだよそれ)  さっきの言い慣れているふうな言葉を思い出して、また一人で腹を立てる。  それでも、そんな事より優先する質問はいくらでもあるので俺も聞いた。 「よりちゃんは?」 「学校の事?だったら大学の一年生」  気がはやりすぎて言葉が少し足りなかったらしい。でも分かってくれた。  コンビニから角を二つ曲がった所でよりちゃんが足を止めた。  四階建てのマンションだった。ここが家らしい。  うちから十分くらいしか離れてない。 「こんな近くに住んでたの!?」 「びっくりした?」 「びっくりした」  俺が素直に頷くと、よりちゃんは悪戯(いたずら)が成功した時のような笑顔を見せた。  ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇  一階の、入り口から二つ目のドアの鍵を開けながら、よりちゃんは言う。 「今年の三月に大学入学に合わせて、俺一人でこっちに戻って来たんだ」 (一人で?戻って来た?)  俺が首をかしげている間に、すぐ部屋の中に入ってエアコンをつけている。  一人暮らしの部屋が珍しくて俺は玄関から周りを眺めた。  ワンルームの広々とした部屋だった。部屋の半分よりちょっと少ない位のスペースが中二階のロフトになっていて、そこで寝るみたいだった。  部屋の中は綺麗に片付いている。 「どうした?入ってこいよ」  いつまでも玄関から部屋を見回す俺に、よりちゃんが声を掛けた。  俺は返事をして靴を揃えて脱ぐ。  部屋の中には薄くて大きなテレビがあり、その前に低いテーブル。テレビを向いた壁際にソファーが置いてある。  タンスとか物をしまう棚といった物は置いてなかった。壁についてる扉の中が収納できる場所になってるんだろう。  すごく、さっぱりしたインテリアだった。 「そこに座ってな」  ソファーを指して冷蔵庫からお茶のペットボトルを出している。 「よりちゃんカッコイイ!こんなところに一人暮らし、してるんだ」  コップを二つテーブルに置いて、よりちゃんが俺の隣に足を組んで座った。  そしてやけにニンマリした笑顔で俺を見る。 「それ、俺が格好良いの?一人暮らしが格好良いの?」 「え?」  思ってもみなかった所を改めて尋ねられて俺は分からなくなる。 「えっと、両方?」 「あはは、かっわいい」  問題に正解でもしたみたいに、俺の頭をよしよしと撫でてくる。 「子供扱いすんなよ」  俺はその手を手の甲で払う。  そんな風にされると自分が本当に子供なんだと言われてるみたいで、高くもないプライドが少し傷つく。 「してねえよ?してないから触ってんだけどな」  言ってることがよく分からない。やっぱりよりちゃんは俺より大人だからなのか。 「なあ、よりちゃん。なんで、急に居なくなったんだよ」  難しいことは考えてもしょうがない。それより再会してからずっと気になっていた事を聞いてみた。 「俺が中学に上がる時に親父の転勤で北海道に引っ越したから。那月にも、ちゃんと言ったぜ。分かってなかったか忘れてんだろ」 「そう、だったの?なんにも覚えてないや」  よりちゃんの言う通り、引っ越しの意味自体をよく分かっていなかったのかもしれない。  覚えてるのは、その後しばらくすごく寂しくて悲しかったことだけだ。  居ないのは分かっているのに気付くといつもよりちゃんを探していた。そしてもう居ない事実に落ち込んだ。  それは落とし穴が見えているのに()まってしまうような気分だった。  俺があの頃を思い出して俯向(うつむ)くと、よりちゃんが俺を覗き込んだ。 「俺が居なくなった時、寂しかった?」 「うん……すっごい寂しかった」 「ごめんな」  そう言って今度は撫でるのではなく俺の頭にただ手を乗せた。  それを子供扱いされたとは感じない。純粋な優しさが伝わってきてあったかい気持ちになった。 「引っ越しなら、よりちゃん別に悪くねえよ。仕方ないじゃん」  今なら、そう思える。 「それに、また会えたんだし」  そう言って、さっきのよりちゃんの言葉の意味が不意に理解出来た。 (よりちゃんは大学がこっちにあるから帰ってきたんだ。一人暮らしなんだから多分家族は北海道にいる。──じゃあ大学を卒業したら、また北海道に戻る?せっかくまた会えて嬉しかったのに……?) 「よりちゃん、また会えなくなる……?」  俺は不安になって思わずそう聞くのを止められなかった。  よりちゃんは少し目を見開いて俺を見た。 「なんで、そうなるんだよ?」  また言葉が足りなかったみたいだ。今度はよりちゃんにも分からなかったらしい。 「だって大学卒業したら、また北海道に帰るんじゃないの?」 「会ったばっかで、もうそんな先の事不安がってんの?お前もしかして俺のこと大好き?」  面白がるようなその反応に、からかわれてるんだと思った。  俺はついムキになって答えた。 「大好きだったよ!兄ちゃん達の中で俺みたいのに構ってくれたの、よりちゃんだけだったもん!いっつも優しくてよりちゃんといるの本当に楽しかった。だからまた会えてすごく嬉しかったから、でも──」 (でも、もう昔のよりちゃんじゃないのかもしれない。子供の頃いくら優しかったからって、今の俺に優しくしなきゃいけないはずもないんだし。それに大きくなった俺が昔と同じようにいつまでも甘えているのも、よく考えたらおかしい)  言いながら少し冷静になった俺は急に恥ずかしくなった。 「でも、なに?」  落ち着いた声で続きをうながしてくる。だけど続きなんてない。ほとんど勢いで思い付くままに口から出た言葉だ。  何も言えなくなった俺に、よりちゃんは昔と同じ顔で微笑(わら)った。 「……俺もあの頃から那月が大好きだよ。可愛くて、素直で、ヒヨコみたいに俺の後ろばっか着いて回ってさ。構ってたのも俺の方が一緒に居たかったからだ。それに再会した今もお前は全然変わってないって思ってる」  大人っぽくなって格好良くなってて全然違う人みたいで……でもやっぱりよりちゃんなんだと思った。  もし引っ越さずにずっと近所に住んでたら、きっとよりちゃんが中学生になっても高校生になっても俺は構ってもらっていただろう。  もしも頻繁には会えなくても、そうしていたと確信できる。 「けど俺、一つ引っ掛かってんだけど」  片方の眉を上げて、ちょっと疑うように表情が変化した。 「那月、全部過去形で言ったよな。今の俺はイヤ?変わっちまった?」  俺はブンブンと頭を振った。 「ごめん、ちょっとそうかな……って一瞬だけ思った。でもよりちゃんは、見た目とか話し方はすごい変わったと思うけど、やっぱ変わってない。今も優しい」  それを聞くとよりちゃんは、スッと身を乗り出してきた。 「今も俺のこと好き?」  俺はちょっと言葉に詰まった。真剣にそんなこと聞かれたことがないから、言うのも聞くのも気恥ずかしい。  でも大好きなお兄ちゃんには変わりがない。 「うん」  そう言ったのに、ゆっくりと首を横に振る。 「それじゃだめだな。俺を好きって事、きちんと那月の言葉で聞きたい。その必要が──あるんだよ」  だから、な?と、目の前で悠然(ゆうぜん)と笑い掛けられ、思わず息を止めて見つめた。  何に必要なのかは教えてくれない。だけど、その笑顔の前に俺は言うことが当然だと思ってしまう。 「今も……よりちゃんが、好き」  友達として、の意味なのにそう口にした途端胸がギュッと掴まれたように苦しくなった。 「やばい。思ったより……くるな……」  そう呟いたよりちゃんは真顔になって俺から顔を逸らし、熱を計るみたいに額に手のひらを当てている。  その横顔を見て……格好良いな、と思った。俺より手も足も長くて、大きい。よく見れば顔に面影は残っているけど、やっぱり別人みたいに見える。  今日みたいなことがなかったら外で会っても絶対に気付かない。もしかしたら、もう既に何回も知らずにすれ違ってるのかもしれない。 (──そう考えたら今日再会したのは全くの偶然じゃないか) 「よりちゃん。……なんでこっちに帰ってきた時、すぐに教えてくんなかったんだよ」  俺の家にも何回か遊びに来たことがあるし、知らないはずはない。俺に会う気は無かったのか、気になって口を開く。 「え?あ、うん──そうだな」  少しだけ困った顔をして、よりちゃんは首をかしげた。 「これだけ近所に住んでたら、いつかそのうち会うかなと思って?」 (やっぱり、俺に会いに来てくれる気は無かったんだ)  そのことを知ってショックを受ける。 (俺にとっては特別なお兄ちゃんだったのに、よりちゃんには俺なんかその程度だったんだ) 「でもずっと会えなかったかもしれないじゃん!今日だって本当に偶々(たまたま)だったんだし!よりちゃんにとっては、俺なんかどうでも良かったんだ」 (これじゃただの駄々っ子だ。子供のワガママだ)  分かっているのに、自分だってずっと忘れていたのに……それでもよりちゃんは俺の中に大きな存在として残ってて、色んな感情が押し寄せてきて責めるように言いつのってしまった。  よりちゃんは増々困った顔になった。 「全然分かってないな。那月、真逆だよ。どうでも良くなかったから会えなかったんじゃねえか……」 「どういう、意味?」 「那月とは同級生でもないし、すぐ隣に住んでたってわけじゃない。親同士が親しくしてたわけでもねえし、俺にはお前の近況なんて全く分かんなかったんだよ?それこそ俺のこと覚えてるかどうかすら……」  そう言われてハッとした。 (確かに俺の中でよりちゃんは特別だ。だけどよりちゃんはそんなこと知るわけない) 「ただ昔、同じ公園で遊んでた仲間ってだけだろ。もし忘れてるのに、また近くに越してきたからってだけで家まで訪ねていったら……気持ち悪りいだろ。普通」  確かに、あの時遊んでいた、よりちゃん以外のお兄ちゃんの誰かが今言ったみたいに会いに来たら……きっと俺は困るだろう。 「けど、また那月に会いたくて結局こんな近くに引っ越してきたんだから、充分気持ち悪りいか」  最後は俺に向かってじゃなくて自分に言っているような言い方だった。まるで刃を自分に向けて傷を付けているような。  よりちゃんにそんな態度を取らせたことが、とても心苦しくなった。 「ごめん。俺、考えなしに責めるようなこと言って。よりちゃんのこと気持ち悪くなんかない。また会えて本当に嬉しい。よりちゃんは他の兄ちゃん達と違う、俺の特別だよ」 「那月……」  少しの間うつむいた後、真剣な顔をして俺を見た。 「……会わなかった理由、本当はもう一つあんだよ」  視線が俺を縫い止めるように真っ直ぐで、少しだけ怖い。だけど逸らしたら続きを聞けなくなりそうで、動けなかった。 「会ってみて、全然別人になってたらと思って怖かった。けど本当はそれを望む気持ちもあった。だってさ、もしお前が昔のまんまだったら……俺は自分がどうなるか分かんなかったから──」  ゆっくり、よりちゃんは俺に向かって腕を伸ばした。肩に手を置かれる。  肩にある手のひらがすごく熱く感じた。  その手をどうするのか俺には分からないし、よりちゃん自身迷っているように見えた。  二人して固まってしまったようにしばらく見つめ合った。 「……よりちゃん?」  止まってしまった時間をなんとかしたくて名前を呼ぶと、 「やっぱ会っちまったら、我慢すんのなんか全然無理だわ」  そう呟いて、俺を引き寄せた。俺はよりちゃんの胸の中にいて抱擁されている。 (熱い、すごく熱い)  エアコンはこんなに効いてるのに、自分とよりちゃんの体温がそれをかき消す位に熱い。 「那月……今付き合ってる奴いる?」  声がとても近くから聞こえる。この状況に唖然としていた俺はただただ横に首をふる。 「好きな人は?」  好きな人、と考えてドキッとした。よりちゃんが一番に浮かんだから。でもそういうことを聞いているんじゃないのは分かった。  そしてやっぱり同じように首をふる。 「あのさ……」  よりちゃんの手が俺の後頭部をゆっくりと、一度撫でた。優しい手つきだった。 「いきなり過ぎるのは分かってるけど、俺と付き合ってみねえ?」 (よりちゃんと……付き合う?)  その内容にびっくりしてその場で上を向く。思った以上に顔が近かった。慌ててまた俯向いた。  自分の耳が沸騰するみたいに熱くなっていくのを感じる。 「……付き、合うとか、よく、分かんね……」  どう答えたらいいのか分からずに、そんなぶっきら棒な言葉が口をついてしまう。 (こんな言い方をしたかったわけじゃないのに)  でも、よりちゃんに気を悪くした様子はなかった。 「だよなあ。俺も、実際お前と会ってみるまで、はっきり分かんなかった。俺、お前のことずっと忘れらんなかったんだ。なんでなのか深く考えるのは怖かった。それってさ──好きだから、だったよ」  そう言うと俺を一度ぎゅうっと抱きしめて体を離した。 「俺がこんな調子なんだから、那月はもっと意味分かんねえよな」  そして照れたように微笑んだ。 「……じゃあ、軽い気持ちで良いから、お試しの期間ってことにする?」 「お試し期間?」 (ゲームの体験版みたいなもんか?) 「そう、お試しだから期間と行動制限付き。もし気に入ったら……本当に俺と付き合うの。気に入らなくて、なかったことにしても那月にはデメリットなし。そん時はすっぱりと諦めるよ。どう?」 (なんかますます体験版みたいだ)  でも確かによく分からないから試してみる、っていうのはアリな気がする。 「分かった、やってみる」  俺は頷いた。 「ゲーム感覚でもいいよ。──けど、本当に分かってんのか?」  笑いながらそう言った。俺の考えはしっかり読まれている。 「俺にとってはお試し期間はセールスチャンスなんだからな。どんどん売り込まれるぞ。覚悟しとけよ」  笑顔のまま脅すように少し低い声でよりちゃんが言う。 「じゃあまず期間だな……お互い夏休み中だし時間の融通が利くだろうから、二週間くらいか?」  それが長いのか短いのか分からない。俺は頷く。 「あと……制限……うーん」  なんの制限なのか、よりちゃんは腕を組んで考え込んでいる。そしてチラリと俺を見た。笑顔が消えている。 「ちょっといいか」  何気ないように言って急に俺をソファーに押し倒した。 「え?なに!?よりちゃん!!」  のしかかる身体を押し返そうとする手を取られて、両方まとめて頭の上で封じられた。  よりちゃんが顔を首筋に埋め、何度も唇で吸い付くように押し当てる。舌を出して舐められて、背筋がゾクゾクした。 「よりちゃん、より、ちゃんってば!や、ちょっと!」  俺が暴れたせいかどうか動きを止めて肘をつき、俺を見下ろした。今度は笑いを噛み殺したような表情をしている。 「色気ゼロかよ。まあ仕方ねえか。でもなぁ……制限かけすぎて暴走したんじゃ意味ねえしな」  俺の手の拘束を解いてブツブツ呟いている。 (暴走ってなんだ)  なめらかに恐ろしいことを言われた気がする。 「お前、キスしたことある?」 「なっ、ないよ」  よりちゃんの喉でくっくっと笑う声がした。 「俺にキスされたら嫌?」 (なんて返事したらいいんだよ。そんなの分かんないよ) 「そんなの……されてみなきゃ分かんね……」 「へえ?それ、してみて良いってこと?」  少し驚いたような声がして、よりちゃんの顔が降りてきた。  そんなつもりじゃない、そう言う前に柔らかく唇が触れて、すぐに離れていった。  それがキスだと分かるのに少し時間が掛かった。それくらいふんわりとしていて、ちっとも嫌な感じはしなかった。 「嫌だった?」 「……全然」  よりちゃんは体を起こし、俺も引っ張り起こしてくれる。 「じゃあ、軽いキスまで、二週間限定。体験版の恋人な」  そこで俺は少し疑問に思う。 「体験版で、キスまでするって……どうなの」 「逆だろ。仮にも付き合うんだからキス位しなくてどうすんだよ。ただの友達だろ、それじゃ」  改めて説明されて、やっと頭の中でお試し期間の意味を本当に理解した。 (よりちゃんは俺が好きで、それは恋愛感情で、俺は……まだ良く分からないから試しに付き合ってみる……んだ)  理解した途端、ものすごく恥ずかしい事のような気がしてきた。  試しにだろうがなんだろうが誰かと付き合った事なんてないし、もちろんキスだってさっきが初めてだ。 「より、よりちゃん?」 「ん?」 (どうしよう、うまく口が回らない) 「よ、よよ、よろしく、お、お願い、し、します」  俺自身なんでこんな事を口走ったのか分からない。ただ本当にそう思ったのと、何か言わなければという気持ちがごっちゃになった結果だ。  よりちゃんは一瞬大きく眸を見開いて、大声で笑った。 「──っは、あはははっ!バッカ!那月はこれ以上、俺を落とさなくていいっつーの。……ッぷ、くくく!分かってんの、俺がお前を口説くんだよ……っ」  大爆笑だ。 (……喜んで貰えたみたいで良かった。俺はちっとも嬉しくないけど)  笑いながら目尻の涙をこすって拭いている。 (笑いすぎだ) 「そういえば那月、腹減ってない?」  笑いのおさまったよりちゃんが言う。そう言われてみれば減っている。朝食は遅く取ったけれど、もう三時を過ぎている。 「そうめんでも食う?」 「食う!」  少し待っているとあっという間にそうめんを茹でてキュウリとハムの細切りを添えてテーブルに運んできてくれた。 「ほら、食え」 「ありがとう。いただきまーす」 「食ったらさ、ちょっとあの公園行ってみねえ?」  昔一緒に遊んだ公園のことだろう。 「もう一度、那月と行ってみたかったんだ」  何かを思い出しているような顔で俺を見た。 「うん」 「俺その後バイトだから本当にちょっとだけどな」  よりちゃんはここから三つ先の駅の近くのカフェでバイトをしているそうだ。大学もその駅にあるから、らしい。  ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇  食事が終わって、よりちゃんと家を出る。  公園はさっきのコンビニから俺の家の前を通り過ぎて五分くらいの所にある。  樹が多くて結構大きめな公園だ。  この暑い中ジョギングしている人が何人かいる。小学生がサッカーをしている姿も見える。  俺たちは公園に入って日陰のベンチに腰を下ろした。アブラゼミが頭上で喚くように鳴いている。 「やっぱまだ、あっちーな」  よりちゃんがシャツの襟元をパタパタしながら空を仰ぎ見た。傾いたとはいえ、陽はまだ高く登っている。 「ねえ、ここ、このベンチに座って、よりちゃんと話、したこともあったよね」  実際に公園に来たことによって、匂いや音で鮮明に思い出す記憶があった。光景、といった方がいいかもしれない。何を話したかはもう覚えてはいない。 「あったな。那月があそこの子供くらいだったよな」  近くのベンチで低学年に見える小学生が数人で何かのカードを見せ合っていた。 (よりちゃんも覚えててくれた)  あの光景を共有出来てるんだという思いで嬉しくなる。 「ホント、那月は可愛いかったな」  眩しいものを見るように目を細めてその小学生の方を眺めている。  もう今はからかって可愛いと言っているんじゃないことが分かってしまったので俺がなんと返事していいか迷っていると、よりちゃんは少し笑った。 「でもさ、俺……正直、自分が変なんじゃねえかって思ってた」  そしてポツリと、まるで独り言のようにそう呟く。 「那月はいくら可愛いっていっても男だし、しかもまだ小学生だったろ、まあ俺もその時は小学生だったけど。だけどそんなお前を好きだとか、しかもずっと忘れられないとか……やっぱおかしいって今だって思うよ。でも成長したお前がそんな俺を、少なくとも拒絶しないでくれて……すごく嬉しいよ」 (そんな風に思ってたんだ……俺、拒絶、とか思い付きもしなかったのに)  自分のことを語るよりちゃんが、やたら寂しそうに見えて、また俺を置いてどこかへ行ってしまうような気がした、手の届かないどこかへ。  俺は、よりちゃんが抱えているネガティブなイメージを否定しなきゃいけないと思った。多分、俺にしかできないと、思った。 「──変じゃねえよ!全然、変なんかじゃ、ない。だって俺だって、よりちゃんに特別な気持ち持ってる、そう言っただろ。それは同じかどうか、まだ、分かんないけど、よりちゃんが他の兄ちゃん達と遊ぶの嫌だった!俺だけと、遊んで欲しかった。……俺だって、ほとんど一緒だろ?」 (そう、俺は同じようなもんだと、思うんだけど……)  よりちゃんがどう思ったか気になった。俺は上目遣いで様子を見る。 「ほーんと、かわいいな。お前。マジで参るわ」  大きな手で俺の頭をくしゃくしゃにする。 「付き合うにしても、合わないにしても、その気持ちが嬉しい。ありがとな」  そう言って俺の好きな笑顔で笑う。  なんとなく、そのまま言葉が切れて、聞こえるのは子供の笑い声と蟬の声、風に吹かれる枝の音だけになった。  時間が六年前に音もせずスーッと戻ったみたいだった。  六年前と今が重なり、あの時無くした、無くしていた時間の方が長くなってしまった、大切なものがやっとまた戻ってきて、その穴を埋めてくれた……そんな感じがした。

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