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第2話

 あれから(しばら)く二人で公園にいて、俺の家の前で別れた。よりちゃんはそのままバイトに行った。  明日は朝からバイトと言っていたから、会うかどうか分からない。うちから十分しか離れていないんだから、会うだけならいつでも出来る。 (──付き合うって一体なに)  恋愛自体に、今まであまり興味がなかった俺は、真剣にそんな事を考えたことがない。  大体、好きだとはっきり言い切れる相手が、よりちゃんくらいしか思い付かない。  でもこれは恋愛感情なのか?それが分からない。  だけど仲のいい友達を好きというのと、よりちゃんを好きという気持ちが同じ、というわけでもない。  やっぱり、よりちゃんは俺の中では特別だ。六年間も会ってなかったのに、たった一日であの頃の関係に戻った気がする。  一緒にいると居心地のいい安堵感が湧いてくる。それは昔の記憶からなんだろうけど、全てを預けてしまえるように思えた。  そんなこと、友達には思わない。  それに、キスした時も嫌じゃなかった。本当に軽く触れただけだったし。  でも本当に付き合ったら、きっとそれだけじゃないんだろう。俺を試すように首筋を舐められた時みたいな、ああいうのを、もっとする事になるんだ。多分。  そういう事をする時、俺は自分がどうなるのか分からない。相手が女の子の場合だって想像できない。ましてやよりちゃんは男だから、さらにもう想像の先にある未知の領域になってしまう。  分からない事が頭の中で所々に空白となり、埋まらない虫食いパズルのようで、気持ち悪い。  でも──だからこそよりちゃんは、トライアルの期間を作ってくれたんだろう。  この二週間で、パズルは埋まってくれるんだろうか。  ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇  次の日の夜、八時過ぎによりちゃんから連絡があった。 『これから会うには遅すぎる?』  俺に気を遣ってくれているのが分かった。 (昨日も今日もバイトで疲れてるはずなのに、会いたいと思ってくれるんだ)  俺は時間なんか気にせず会いたかった。  母親によりちゃんのことを話すと、驚いたことに覚えていた。 「あー久坂さんとこのお兄ちゃん、あんたよく遊んで貰ってたね。小さい頃からお行儀よくて賢くて、格好良い子だったわねえ」  懐かしそうに頬に手を当てて思い出している。 「そのよりちゃんが大学生になって、すぐ近くに一人暮らししてんだよ。遊びに行っていい?」 「あら、そうだったの?──まあ夏休みだしね。迷惑じゃないならいいわよ」  これはまさに昔のよりちゃんの素行の良さの賜物(たまもの)だ。  俺はすぐにOKの返事をする。  八時半には俺の家まで迎えに来てくれた。  なぜか母親までいそいそと出てきてすぐ引っ込むと「一人暮らしなら食事が大変でしょう」と、タッパーに詰めた夕食のおかずを無理矢理持たせた。  あれはこれから帰ってくる父親の分だったんじゃないかと思うんだけど、黙っておいた。  ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ 「お前の母ちゃん、いい母ちゃんだな」  よりちゃんが冷蔵庫にタッパーをしまいながら言った。今日の夕食はカフェの(まかな)いで済んでいるらしい。 「イケメンに弱いだけだよ」  よりちゃんは俺の側まで来るとニヤニヤした。 「那月は俺がイケメンに見えるんだ?」  見えるからそう言ったのに、聞き返されて恥ずかしくなる。 「だって、そうだろ……」 「ふうん?」  まだニヤニヤしている。また『かーわいい』とか思っているに違いない。 (思うのは勝手だけど、思考をだだ漏れにしないで欲しい。恥ずかしいから)  結局ニヤニヤを残したまま、汗を流してくると言ってシャワーを浴びに浴室に入っていった。 「なあ、映画観る?新作レンタルしてきたんだけど」  シャワーから出てきたよりちゃんは、いつの間にかレンタル屋の袋を手にしている。 「観る観る、何の映画?」 「やっぱ夏といえばホラーじゃね?」 「ホラー……」 「あれ、苦手だった?」  正直、苦手だ。嫌い、じゃなくて興味はある。ただ恐ろしいシーンで驚かされるところが苦手なだけだ。でも一人だったら絶対観ない。  タイトルを見ると……絶叫系だった。 (よりによって一番苦手なやつじゃん) 「怖かったら、しがみ付いていいから」  人の良さそうな笑顔で言っているが、それが目的なんじゃないかと疑いの目を向ける。  とりあえず雰囲気作り、と言ってよりちゃんは部屋の電気を消してしまう。  戻ってきてソファーに座ったところへ、横にぴったり張り付くように膝を抱えて、俺も座る。  よりちゃんは妙に満足そうだ。  DVDをつけて映画が始まった。  静かなシーンだ。静まり返っている。そしてほとんど起伏がない。 (やっぱり一番苦手なやつだ)  いつ出て来るか気が気じゃない。 「こういう出るぞ、出るぞ、って感じ。ものすごくヤダ」  俺は既に鳥肌が立っている。 「それ監督の思惑通りじゃん」  よりちゃんがそんな意地悪を言う。  中々その、いつ、がやって来ないまま中盤くらいまで進んだ。平穏な農村で少しづつ異変が起きていくミステリー仕立てでストーリーはそこそこ面白い。 「話は面白いのにな。いっそミステリーにすれば良かったのに」  俺は怖いのでしゃべり続ける。 「……そうだな」  だが、やって来ない。  その『ギャー』が、いつまで経ってもやって来ない。俺の心臓はずっと高鳴りっぱなしだ。気づくと掴んでいた、よりちゃんの服を握る手も汗ばんでいる。 「もう出るなら出るではっきりしろよ」 「……。」  ふと、俺は違和感を感じる。なんかおかしい。よりちゃんが静かすぎる……?  そう思って横を見るとよりちゃんは画面を全く見ずに、俺を見ていた。 「ちょっと、よりちゃん!?映画みろよ!俺一人で観てんの怖いから!」  うーんと言ってよりちゃんは画面に目を戻す。 「ごめんごめん。あまりにも何も出ねえからさ」 「そこが怖いんじゃん!だから、ちゃんと観てて」 「だって今んとこ、映画より那月見てた方が楽しいんだもん」  自分が借りてきた映画のくせにそんなことを言う。 「じゃあさ、こうしててやるから」  そう言って、俺を膝の間に座らせて、背後から包むように抱きかかえる。  俺の肩にあごを乗せて、両腕を俺の前で交差させた。  ぴったりとくっついた背中から、よりちゃんの体温が伝わってくる。それから息遣いも。  そうして一度俺に頬を寄せてから言った。 「これなら、怖くないだろ?」 「これでちゃんと観ててくれるんなら怖くない……かも」 「貞子的な奴が、早く出てくれば俺も興味沸くんだけどな」  だが、その心配は無用だった。  中盤を過ぎてから農村が一気に本領を発揮し出したからだ。  俺はよりちゃんに力一杯しがみつきながら、声にならない悲鳴を上げ続ける羽目になり、よりちゃんはなぜか残虐シーンで爆笑していた。 「お前、涙目になってる、つーか泣いてるぞ。大丈夫か」  映画が終わって部屋の電気をつけると、俺の顔を見て言った。 「……怖かった……」 「そうだった?」 「そうだよ!なんで、よりちゃん笑ってたの!?笑うシーンなんか、どこにもなかっただろ」  俺は鑑賞中、全く理解出来なかった疑問を口にした。 「や、だって、あれギャグでしょ?明らかに過剰描写っつうか。臓器とび散り過ぎ、手足もげ過ぎ、悲鳴のアップ多すぎ………全部笑うトコじゃん」  俺が怖かったシーンは、よりちゃんにはちっとも怖くなかったらしい。それどころか、ギャグだと言う。  だけどまだ記憶にありありと残っている映像に怖がる俺を、護るように抱えてくれている。よりちゃんから、もたらされる安心感は絶大だ。  でも少し騙されてる気もする。そもそもこの映画を選んできたのはよりちゃんだ。 (とは言っても俺がホラーを苦手だと知りようがないんだから、やっぱり偶然なんだろうけど) 「なあ今度、映画館の大スクリーンで観ような」  顔を見なくても笑っているのが分かる。これは意図的に言ってるんだ。 「絶対、嫌だからな」  断固お断りだが、笑いながら俺を引き摺って行くよりちゃんが一瞬脳裏に浮かんだ。……現実にならないようにしたい。  ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇  それからよりちゃんが家まで送ると言ってくれた。こんなに近所で、しかも男なんだからと断ったけど、よりちゃんは譲らなかった。 「ちょっとでも長く、那月と一緒に居たいんだよ」  そんなことを真顔で言われてしまったら、頷く他ない。  俺が頷いた後、嬉しそうに俺を抱きしめて目を覗き込んだ。その顔の近さに俺は緊張し、勝手に体が強張る。  それをどう取ったのか、よりちゃんは額に軽くキスをして俺を離す。  帰り道、明日も朝からバイトだと聞かされた。俺は明日友達とプールに行く予定だと言うと目を輝かせた。 「俺も那月とプール行きてえ!つーか行こ?プールと海だったら、どっちがいい?」 「じゃあ、海」 「海な。俺しあさってバイト休みなんだけど、予定ある?」 「ううん。ない」  あっという間に海に行く予定が決まった。そんな話をしている間にもう、うちの前だ。 「じゃあ次は、しあさってな」  よりちゃんの手が俺の頭を優しく撫でる。 「うん、おやすみ」 「おやすみ」  手を振ってよりちゃんは帰っていく。  俺はすぐにうちに入れず振り返って、暗がりに紛れる姿を見送った。 (また、すぐ会える。それに約束がなくても会いに行ける距離にいる)  それなのに、遠ざかる背中になんでか胸が切なくなった。 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇  そして海に行く日の朝、よりちゃんが迎えに来てくれた。幸い、よく晴れている。  子守させて済みませんとか、よろしくお願いしますとか、なんだかんだ、よりちゃんと喋りたがる母親をかわしてドアを閉める。 「那月、焼けたなあ」  俺を見て声を上げる。  確かに、おとといのプールで結構日焼けした。まだ少しヒリヒリする。 「鼻の頭、赤い」  そう言ってよりちゃんは笑った。  ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇  最寄りの海は電車で一時間くらいのところだ。シーズンだから人混みだろうけど、それも楽しみだった。夏休みって感じがする。  駅に着くと俺は待ちきれずにホームを飛び出した。だってもう仕方がない、ここまで潮の匂いがするんだから。プールとはやっぱり違う。 「ちょっと待てよ那月!」 「よりちゃん、早く!」  俺たちは駆けっこをするみたいに海への道を走る。駅から海はすぐだった。 「よりちゃん、海!海!」  子供みたいにはしゃぎながら海を指差し、よりちゃんの手を引っ張った。 「見えてるっつーの。お前今、精神年齢一ケタ台な」  呆れた口調で言ったけど、その目は笑っていた。  やっぱり浜辺は人でいっぱいだった。それでも広いので、探せば荷物を置くのに丁度良さそうな所を見つけられた。  すぐに服を脱いで海に駆け込もうとした俺の腕を、よりちゃんが掴んで止める。 「プールより海の方が焼けんだから、ちゃんとオイル塗っとけ。後で痛えぞ」 「でも持ってきてないよ?俺」 「俺が持ってるよ」  俺は座って、オイルを塗ってもらう。  小学生の頃に一緒に海に来たことはないけど、こうやって世話を焼いてもらっていると、あの頃みたいだと思う。  転んで怪我した時に、水道で傷を洗って絆創膏を貼ってもらったのを思い出す。本当によりちゃんにべったりだったな。──今も甘えてばっかりだ。 (もしかして俺は幼児返りしてないか?)  ちょっと不安になる。  でもよりちゃんといると、そんなことが気にもならないくらいに心地良い。 (よっぽど甘やかされてるんだろうな) 「ほら、もう良いよ」  そんなことを考えているうちに準備の済んだよりちゃんと一緒に海に入る。  海水は生ぬるくて格別爽快なわけじゃないけど、打ち寄せる波となによりどこまでも広がっている視界が気持ち良い。  俺はあんまり波に揺られると酔ってしまう面倒な体質なので、波打ち際に座って脚にひたすら波をかぶっている。お尻の下の砂がどんどん流されていく。砂をかき集めまた流されてを繰り返した。  よりちゃんが隣に座る。 「はしゃいでた割に泳がねえんだな」 「波に酔うんだよ」 「……そう言えばお前、ブランコでも酔ってたな」  よりちゃんがあんまり思い出して欲しくないことを口にした。細部は忘れていて欲しい。 「あんとき俺、やめておけって言ったのになー」  遠い目をしながらよりちゃんは呟く。これは、はっきり覚えているやつだ。 「うわぁ、言わないで。ごめんって」  確かにブランコといえば俺には酔ってしまう乗り物で、分かっていたから普段はベンチ代わりにしか使っていなかった。  でもいつものように他の上級生達に置いていかれて二人になったあの日、すごい速さで高くまでブランコを漕ぐ、よりちゃんが格好良くて羨ましくなった。  夕日に向かって空を飛んで行くヒーローみたいに見えていた。 『ぼくも、そんな高くこいでみたい。よりちゃん、押して押して!』 『押すのはいいけど那月には危ないから、低いとこで我慢してね』  よりちゃんはそう言ってくれたのに、絶望的にお子様を具現化していた俺はワガママを言い散らかす。 『全然足りないー。もっと、よりちゃんもっと強く押して!押してってばー』 『那月ー。ブランコはもうやめておこう?鬼ごっこしよっか』 『なんでー!やだ、もっと高いとこ行きた………うっ……』 『那月!?』  余りの興奮に前兆が無かった。唐突に襲った吐き気にブランコから落ちる寸前でよりちゃんに抱き止められて、俺はそのままリバースした。あの時は気付きもしなかったけど、絶対よりちゃんにも掛かってる。  それなのによりちゃんは吐き気が治まるまでずっと背中を撫でてくれ、家までおぶって連れ帰ってくれた。  結構はっきりとした記憶があるから、俺の中でもこれは衝撃の出来事だったんだろう。 「まぁあれは、見せびらかした俺も悪いよな」  よりちゃんはなにも悪くないのにそんな事を言う。 (そんな風に考えるなよ)  子供だったんだから、そこまで考えて行動するわけない。優しすぎるよりちゃんに胸が痛くなる。 「那月いまは?全然気分悪くない?」 「全然ちっとも!楽しいだけだよ」 「そっか。俺も楽しいよ。──那月がいるならどこで何してても」  平然とした顔で、こっちが赤面するようなことを聞かされる。まるで口説いてるみたいじゃないかと思いかけて、そういえば俺は今まさに口説かれてる最中だったんだと思い出す。 (付き合うってなんだ……)  そこでまた考えてしまう。今の関係と変わらないなら全然平気だ。でもこれってちょっと世話焼きの友達と何も変わらない。だから多分そんなはずはない。  潮騒と風の音と人々のざわめきを、聞くでもなく耳にしながらそんなことをぼーっと考えていた。 「……那月?」  気付くとよりちゃんが少し不安そうな顔で俺を見ていた。俺はそんな顔をさせたことを後悔した。 「ごめん。よりちゃんのこと考えてた」 「俺?」 「……うん」  なんでよりちゃんはこんなに優しくしてくれるの。好きって──なに。  湧き上がる疑問は幼稚すぎて口には出せない。自分で答えを出さなきゃいけない事だってくらい俺にも分かる。 「そうだ!かき氷、食べよっか」  空気を変えるように、よりちゃんが明るい声を出す。 「食べる!」  その気持ちに応えるつもりで差し出された手を取って、俺は勢いよく立ち上がった。  渡されたかき氷は鬼のように盛ってあった。それがウリらしい。 (……全部食べたら腹壊しそう)  黄色いシロップのかかった、かき氷を見ながらそう思っていると背後で声がした。 「ねえねえ、お兄さん。お一人ですかぁ?」  俺より一歩後ろにいた、よりちゃんに向かって言ったらしい。  布の部分がかなり少なめの水着を着た二人組みの綺麗なお姉さんだった。 「……連れと二人だよ」  よりちゃんが俺を見る。 「わぁ、可愛い〜。弟さん?」 「あのぉ、良かったら〜、一緒に遊びませんかぁ〜?」 (これって逆ナン!?俺、弟とか言われてるけど、お姉さんから見たら完全に邪魔者だよね?)  その時、急によりちゃんは俺の肩を抱き、胸に引き寄せた。  突然だったのでよりちゃんにかき氷をぶちまけてしまわないように腕を遠ざけて、下から仰ぎ見る。 「ツレって……言ってんじゃん?察してくんない、おネエさん?」  よりちゃんは、とても綺麗で冷酷に微笑っていた。そんな表情は見た事がない。 (そんな顔も──できるんだ)  完全なる笑顔の鉄壁だ。  お姉さんたちは、よりちゃんの氷の微笑に完敗しそそくさと去って行った。 「なあ那月、あっちの防波堤まで歩いてみねえ?」  まるで何事もなかったように、スプーンで防波堤を指しながら言う。  もういつものよりちゃんだ。見間違えたのかと思うくらい一瞬のことだった。  近くに見えた防波堤は、歩くと結構距離があった。遊泳禁止区域になっていて海水浴客もあまりいない。散歩や釣りをしている人がちらほらいるだけだった。  防波堤の横は岩場になっていた。行けなくはないが足場が悪い。よりちゃんは岩場の方に迷わず進んで行った。 「そっち危なくない?」  俺は声をかける。 「探検みたいで面白くね?」  確かにその通りだ。岩場の裏に洞窟とかあったら楽しい!そう思うとワクワクした。  鋭い岩で手や足を切らないように手を取ってもらいながら、慎重に乗り越えていく。だが岩場が平らになったところで行き止まりだった。 「ここでお終いかあ。洞窟なかったなー」  残念ながら冒険はここまでのようだ。 「でも、人気(ひとけ)もなくなった」 「え?ああ、誰もいないね」  周りは海に囲まれた岩場だ。水面がキラキラと反射して眩しく輝いている。無人島気分は味わえる。 「那月」  海に見とれていた俺をよりちゃんが呼んだ。 「なに──」  振り返ると同時に抱きしめられた。潮風が煽る髪を撫でられる。 「よっ、よりちゃ……」  最後まで言う前にキスをされた。この前よりもはっきりと唇が重なり合ってる。そして唇はすぐ離れていったけど至近距離のまま見つめられている。  よりちゃんは俺の腰を支えるように抱いて頬を撫でた。何度か撫でたあと、親指でゆっくりと唇を辿る。  その感触に言いようのない何かが背筋から登ってきて俺は思わず目を閉じた。  そこにまた唇が降りてきて、今度はすぐに離れず少しずつ角度を変えて何度も口づけられる。 「あ……はぁ……より、ちゃ……」  それだけで俺は自分の足で立っていられなくなりしがみつく。 「……ちゃんと色っぽい顔もできるんじゃん、那月」  ちょっと意地悪な笑みを含んだ声が頭の上でする。 (──これって、こんなのって、よりちゃんだけどよりちゃんじゃない。それから俺だけど俺じゃない)  付き合うってことがなんなのか、その一片だけ垣間見た気がした。  ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇  海から帰ってきて、よりちゃんは割と頻繁にキスをするようになった。  お試しのお付き合いが始まって一週間目。  その日は、バイトがお昼までだったので、午後から部屋に遊びに来た。  よりちゃんの家にあるゲーム機で対戦をして、ひとしきりボコボコに負けた後、麦茶を飲んでいると背後から腕が回ってきた。 (あ、また──される)  そう思ったらもう腕の中にいて顔を上げられる。俺が手を離したコップがテーブルでコトンと小さな音を立てた。  よりちゃんのキスは柔らかくて優しい。いつも俺を甘やかすのと同じように甘いから、俺が俺じゃなくなっていく。  唇を合わせて軽く吸われて時々舐められる。そして何度も何度も、俺の口から声が漏れるのを抑え切れなくなるまで繰り返される。  でもそこで終わりだ。軽いキスまでって制限付きだから。  キスをされる度に俺の身体に這い上がるゾクゾクしたもの、これはきっと快感だ。それが日に日に大きくなっていって抑えられない。  よりちゃんが身体を離し、キスの終わりの気配がする。終わるのが──嫌だった。俺はよりちゃんの首に腕を回してせがむように自分から唇を押し付けた。  一瞬、よりちゃんの動きが止まる。 (なんか気に障ることした……?)  よりちゃんはキスをしたままゆっくり俺の身体を後ろに倒す。そして顔を離して言った。 「……もっと深いキス、してみたい?」  俺の行動はそういう意味になるのかと、ようやく理解する。もっとと言ったようなもんだから、それもそうだ。  自分の気持ちと行動が頭の中で繋がっていない。経験が足りないと言ってしまえばそれまでだ。それをよりちゃんが一つ一つ教えてくれている──。  俺はしたいと、即答できない。 (だって初めに軽くって約束しておいてもっとして欲しいなんて、そんなの恥ずかし過ぎるだろ)  答えられずに息を詰めていると、よりちゃんの周りの空気がふっと柔らかくなった。 「制限はさ、俺が那月に無茶しないための保険なんだよ。だから那月が望むなら、制限なんかいくらでも外しちゃうけど」  その声はどこまでも優しい。誘われるように俺は口を開いていた。 「して、み……たい」 「──いいよ」  また唇が重なって、とろけるように甘いキス。角度を変えてまた。  よりちゃんが口を離さずその場で囁く。 「那月、口あけて」 (そうか、深いキスってそういう意味か)  また今更ながらに本当の意味を理解する。そして少しだけ口に隙間を開けてみた。  口の中に熱くて柔らかい意思のある生き物が入ってきた。そうとしか思えない。  そのくらい自分の口に入れるには存在感の大き過ぎるものだったから。  でもそれは紛れもなくよりちゃんの舌だ。  よりちゃんの意思で、俺の舌を追って、絡め合わせて、吸い上げている。  吸った舌を放って、逃げる俺を追う。そしてまた捉え、クチュクチュと音を立て絡める。 (──よりちゃんに、こんなことされてる)  そう考えたら、とてつもなくいやらしいことをしている気持ちでいっぱいになり、頭の中に濁流が流れ込んできたみたいなる。 (本当はこんな──こんなこと、しちゃダメなんじゃないのか?こんなの俺がしてもいいこと?) 「……っは、あ、よ、りちゃ……」  俺をこんな風にしてるのもよりちゃんなのに、縋るのもよりちゃんしかいなくて、どうしていいか分からなくなる。 (──たぶん、気持ち良すぎるんだ。自分じゃなくて他人に快感を与えられているって事に罪悪感を感じるのに、それが気持ち良くって……) 「より、ちゃん……も、無、理……っ」 (だから、これ以上されたらおかしくなる) 「……っん、は……那、月」  よりちゃんの息も上がっている。でもそこで止めてくれた。  真剣味を帯びた、どこか苦しそうな表情で宙を見つめている。だが俺の視線に気がつくと穏やかな表情になった。 「平気?那月……俺のこと、怖くなってね?」 (怖い?よりちゃんが?)  そんなこと全然感じなかった。どうしてそんな質問をするのか分からなかった。 「全然、怖くなんかないよ……」  俺はしがみつくように抱きついた。頭を撫でて、よりちゃんはそっと抱き返してくれた。

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