56 / 56

第56話【終】

「獅子雄!」  大袈裟でなく本当に飛び上がってしまうほど驚いて、扉を開けて立ちはだかる獅子雄に慌てて駆け寄ると、当たり前のように腕を広げて胸の中に収められた。消毒薬の匂いが鼻につき、強く抱き返してしまいたいのをぐっと堪えた。 「おまえなんで………抜け出して来たのか」  怪我の具合がよく分からないから、俺を抱き締める大きな身体を突き返すこともできない。獅子雄はまるで俺を堪能するように力を緩めることなく(むしろ次第に強くなっているように感じた)、無言で俺を抱き続けた。 「どうしたんだよ………」  何も語らない獅子雄にどうすることもできず、そっと獅子雄の背に腕を回す。広い胸に頬を擦り付け目を閉じると、獅子雄の体温と匂いが全身に伝わってたちまち幸せな気分に包まれた。しばらくそうしておいて、耳元で寝息のようなため息が聞こえ、やっと身体は離された。そして俺の前髪を掻き上げて、額に唇を落とされた。 「獅子雄、身体は? 退院はまだ先だったろ」  唇が触れた箇所を指で触れる。本当にこの雰囲気にはなかなか慣れない。 「無理やり出てきたんです」 「えっ」  時永の声だ。どこにいるのかと思えば、獅子雄の陰に隠れるように音もなく立っていた。いつからそこに、と聞きたいけれど、この様子だと初めからずっといたのだろう。口を噤んだ。 「まったく、完治もしていないのに、どうしてあなたはそう頑固で我儘なんでしょう。一度でいいからあなた方兄弟の世話をする私の身にもなって欲しいものです」  時永は笑顔を崩さないまま、珍しくぶちぶちと文句を垂れていた。表情こそいつもと変わらないそれだが、怒っているのが手に取るように分かる。温和な時永が怒りを露わにするほど、獅子雄は無理に出てきたということだ。それはそうだろう、当初の予定は六週間だったのに(それも無理を言っての六週間だ)、それを三週間で出てきてしまったのだから。とうの本人はと言えば、そんなもの意に介す素振りも見せず、俺の手を引き部屋に入ると時永を廊下に残したまま扉を閉めて鍵まで下した。 「あ、おい」  ドアノブに手をかけようとする俺を制し、そのまま無理やりベッドまで連れられる。再び抱き寄せられて、倒れ込むようにベッドに転がった。その間もずっと、怪我に障ってしまうのではないかとひやひやした。 「………身体の調子は?」  横になったまま無言で見つめてくる獅子雄に耐えかねてそう聞いてみれば、治った、とだけ返された。 「嘘つき、そんなに早く治る訳ない」  両腕を伸ばし獅子雄の胸を押して距離をとっても、そんな些細な距離なんてすぐに埋められた。腰を引かれて獅子雄の顔が間近まで迫り、唇が重なる。はじめは触れるだけだった唇が、ゆっくりと、何度も角度を変えて咥内を味わい尽くし、溢れた唾液がシーツを濡らした。獅子雄の傷に触れてしまわないよう、盛り上がった肩を掴んだ。 「ん……………」  今までよりも入念な、長い長いキス。その間も獅子雄の熱い手が俺の脇腹や腰を撫で腿に触れ、髪を混ぜたりと忙しく動いた。離れ離れのたった数時間を、すれ違い続けた一ヶ月を取り戻すように。 「………くすぐったい」  唇が感覚をなくしてしまうほどの長いキスを終え、獅子雄の手首を掴みその動きを制する。それでも服の中に手を突っ込み腹の傷痕を撫でていた指先は止めず、獅子雄は上機嫌に微笑み俺を抱き締めた。 「変な獅子雄」  この蕩ろけそうに甘くて熱い空気にも、そのうち慣れていくのだろうか。胸が熱くて、触れた部分は焔を上げて、本当に溶けてしまいそう。待ち侘びていた体温に触れて、身も心もじわりと満たされていった。 「………そういえば、親父から報酬は貰えたの?」  手持無沙汰な空気の中、ふと気になったことを口にしてみた。この話題はきっと俺のこれからの人生に一生ついて回るのだろう。獅子雄たちを雇えるだけの大金、一生かかってでも払うと言っておきながら恐らく死んだであろう父。一括で支払えるはずもない。一体どうなったのかと訊ねれば獅子雄は、ああ、と小さく頷いた。 「現物支給でな」 「現物支給?」  何億という金額、現物支給だなんてそんな高価なもの家にあっただろうか。それだけの額の土地も持っていたようには思えない。 「何、貰ったの」  ただの興味本位。どんなものか見てみたい。まさか居間に置いてあった継母の趣味であったろうクリスタルの置物だろうか、まさかそんな筈はない。すると獅子雄は、俺の傷痕に触れていた人差し指をこちらに向けた。 「………おまえ」 「……………は」  予想外の答えに、身体が固まる。全身の血が勢いよく流れて、脳が熱く弾けてしまいそう。俺の顔を見た獅子雄が、楽しそうに笑った。 「おまえに刺された直後に」  そう言って獅子雄は淡々と、事もなげに話し始めた。  あの倉庫で俺と共に倒れ、早々に意識を手放した俺とは裏腹に獅子雄は病院につくまで意識があったと言う。それも鮮明に。病院に向かう車の中、時永に指示を出し俺の父親に連絡を入れ、現金の代わりに俺を寄越せと交渉し、それを受諾するまでを確認してやっと意識を失ったそうだった。ここ一ヶ月の内に蓄積された疲労も手伝って、目覚めるのに時間がかかっただけだと、獅子雄はそう言う。恐ろしい体力と鋼の精神力。これぞプロの力と思い知らされため息が漏れた。そもそも素人の俺が太刀打ちできる相手ではなかったのだ。それでも俺の腹にナイフを突き立ててくれたのだ。俺の殺意と想いに答えてくれたのだ。 「…………………」  嬉しくて恥ずかしくて、言葉を告げない。あんなに無関心ぶっていたくせに。 「顔が赤い」  獅子雄はそう揶揄して悪戯に俺の耳をくすぐった。あの夜の狂った凶器のような多幸感とは別の感情が、血液に混ざって頭から爪先までを余すところなくゆっくりと巡る。全身が雲に包まれたみたいにふわふわと、まるで大切にされているみたいで、まともに獅子雄の目を見ることすらままならない。 「………なんで病院抜けて来たんだよ」  むず痒い空気を散らしてしまいたくて話を逸らした。いくら獅子雄でもあの大怪我では、と思っていたけれど、あの大怪我を負ってもなかなか意識を手放さなかったというのだから、もしかしたら本当にもう完治しているのかも知れない。ベッドに横になったまま抵抗しないでいる獅子雄のワイシャツを捲り、恐る恐る中を覗いてみれば、腹と肩には包帯が幾重にも巻かれたままだった。やはりさすがの獅子雄でもこの短期間での完治は難しいらしく(それが当たり前なのだけど)傷口は縫われたまま抜糸はしばらく先だろうし、何しろ痛みはまだありそうだった。見えない傷を想像しその痛々しさに思わず顔を歪めると、獅子雄がふっと笑った。 「椿に会いたくて出て来たんだ」  嘘つけ、となじるにはその瞳が妙に真摯的で、また俺は何も言えなくなってしまう。本当にこの男には敵わない。獅子雄は何食わぬ顔で何度も俺に唇をおとした。何度も何度もキスをして、そのまま深くベッドに沈み込んだ。そして抱き合ってキスをして、そんなことばかりを繰り返す。そうしていても、もう後ろめたさも罪悪感もない。不安と恐怖と寂しさを掻き消すためだけに存在していた行為も、硝子細工のような壊れやすい幸福もそこにはなかった。  僕には、花一輪をさえ、ほどよく愛することができません。ほのかな匂いを愛ずるだけでは、とても、がまんができません。突風の如く手折って、掌にのせて、花びらむしって、それから、もみくちゃにして、たまらなくなって泣いて、唇のあいだに押し込んで、ぐしゃぐしゃに噛んで、吐き出して、下駄でもって踏みにじって、それから、自分で自分をもて余します。自分を殺したく思います。僕は、人間でないのかも知れない。  そんな話を聞かせてくれたのは蛇岐だった。常人になりたがった俺の、狂人としての人間性を認めたのは蛇岐だった。それを受け止めて、受け入れて、許してくれたのは獅子雄だった。この屋敷の人間すべてだった。花一輪を程よく愛するだなんて、そんなもの。目の前にある温かな幸福を静かに受け入れた。常人の行き過ぎた愛情こそ、俺たちにとって「ほどよく愛ずる」と同じだった。それを知ったのが嬉しくて、そんな自分を許せたのが嬉しくて、獅子雄があまりに愛おしくて、獅子雄と自分の負った傷も忘れてしがみ付くように抱き合った。 「獅子雄、好き。獅子雄………」  愛してる、とむず痒い言葉が耳元で囁かれ、口元がほころび心地よい幸福に満たされた。暖かな陽に照らされる庭を見やれば、その視界いっぱいにブルーデイジーが揺れていた。

ともだちにシェアしよう!