55 / 56
第55話
それから数日、獅子雄より一足先に退院が決まり、久しぶりに屋敷に戻った。今日からここが正真正銘、俺の家だ。
病院を出る前に、獅子雄の病室へ寄りこれから帰る旨を伝えると、あからさまに顔を歪めて自分も帰ると聞かん坊の子供みたいなことを言い出した。あの日以来恋人になった獅子雄は、それまでと違ってたくさんのことを口にするようになった。恋人同士の甘い言葉もそうだけれど、まるで二十代後半の大人らしくない我儘も言うようになり、時永の目の前で過剰なスキンシップまですることもあった。時永は大して気にも留めていないようだけれど、こちらとしては恥ずかしくて堪らない。
「もうしばらくここにいたらいい」
「無理だって言ってるだろ。下に時永さん待たせてるから、もう行かなきゃ」
獅子雄のベッドに腰かけ、たった数週間の別れを互いに大袈裟なほど惜しんだ。その間にも何度も唇を重ねられ、俺もいよいよ帰りたくなくなってしまう。
「………俺も屋敷で安静にしてなきゃならないから、見舞いには来られないけど、きちんと大人しくしてろよ」
「無理だ」
「我儘言うな。………待ってるから」
最後に俺からキスをして、獅子雄の首に腕を巻き付けて強く抱きしめた。背後に腕がまわり、怪我に障らぬよう優しく抱き返される。
「じゃあな」
本当に離れられなくなってしまう前に腰を上げる。扉の前で一度だけ振り返り手を振れば、不機嫌な顔をした獅子雄が渋々頷いた。
つい先ほどのそんなやりとりを、帰りの車内で遠い思い出のように反芻していた。我ながら中々乙女チックで呆れてしまう。獅子雄に噛まれた首の傷は痕も残らず完治して、銃弾が掠めて火傷していた腕は包帯も絆創膏もいらない程度に回復していた。ナイフで抉った腹の傷も随分と良くなり、力を入れればまだ痛むけれど日常生活に支障はなさそうだった。そして何よりも、獅子雄の回復力には度肝を抜かれた。重症だったにも関わらず一週間ほどで自力で(それも軽やかと言い表したいほどに)歩くようになり、食欲もすぐに戻った。時永が言うには、この一ヶ月極端に眠れておらず、長期間仕事を休むのも初めてのことだから思う存分療養できているとのことだった。この様子では本当に四週間で退院してしまいそうだった。
時永の丁寧な運転に眠気を誘われ始めた頃、見慣れた外壁と外門が目に入り無意識にほっと息を吐いた。車は進み、正面玄関の前でゆっくりと停車し、運転席の時永が振り返る。
「お帰りなさいませ、坊っちゃん」
久しぶりの響きに、堪らず笑みがこぼれた。
「ただいま」
久しぶりの庭、久しぶりに触れる細工の細かな美しい扉。その向こうから、いつもと変わらずメイドふたりが迎えてくれる。
「お帰りなさいませ、坊っちゃん」
足を踏み入れた瞬間、この屋敷の持つ匂いに堪らない懐かしさを感じた。もう随分と前から、俺はすっかりこの屋敷を自宅のように感じていたことに今更気付き、苦笑した。
「ただいま、エティ、マリア」
それに照れくささを感じつつも、部屋へ向かう足取りは驚くほど軽かった。
俺と獅子雄の部屋は変わらず綺麗に整頓されており、当たり前の日常として定着しつつあった日々が戻ってきたことに心底安堵した。漂う空気はいつもと変わらないものだったけれど、不在の間ですっかり薄くなってしまった煙草の残り香が、少しだけ胸の内の寂しさをくすぐった。
「坊っちゃん」
扉の前で立ち尽くしたまま自室を満喫していると、先ほどは笑顔で出迎えてくれたはずのマリアが浮かない顔をして立っていた。
「どうしたの、マリア」
訊ねれば、突然上半身を折り、俺に向かって深々と頭を下げた。
「も、申し訳ありません、今回のこと………今まで、騙すような真似をしてしまって………!」
胸の前で祈るように握りしめられたマリアの両手は、小刻みに震えている。それを目の当たりにして、辛い想いをしたのは俺だけではないのだとまざまざと思い知らされた。この件に関わった全ての人間が、それぞれ胸を痛めていただろう。特にエティとマリアは、後ろめたさに自らを責めていたに違いない。それほど、このふたりと過ごした時間は長かったのだから。
「マリア」
震えるその両手を、努めて優しく包み込んだ。
「謝ることじゃない。いいんだ、今までのことは。もう終わったんだ、水に流そう、お互いに、全部」
息苦しいことは、もう何もない。俺とこの屋敷の人間の間に立ち塞がっていた煩わしいものものは、すべてなくなったのだから。これからは何の後ろめたさもなく、まっさらな状態で暮らしていける。
「今日からまた、よろしく」
マリアの丸く大きな瞳に、見る見るうちに涙が溜まる。声を震わせながら、はい、と答えてくれたのが嬉しかった。晴れやかな笑顔は、とても眩しかった。
それからエティの淹れてくれた紅茶を飲みながら、暫くの時間をのびのびと寛いだ。整えられたシーツにわざと皺を寄せたり、クローゼットの中をかき乱し、窓辺には俺の回復を祈ってメイドふたりが折ってくれたという歪な形をした緑と黄色の折り鶴を飾った。そのまま視線を上げて青々と広がる瑞々しい庭を見やると、視界の端から庭師の植松が現れて、大きく手を振りながらこちらへ近付いた。俺も窓を大きく開けて、首だけを外に出しそれに応えた。
「坊っちゃん! 無事に退院されたんですね、ああ良かった、獅子雄様と事故に遭われたと聞いたときには本当に驚きました。ああ、でも本当によかった、また元気なお顔を拝見できて」
事故。どうやら植松は事情を知らされていないらしかった。俺も余計なことは何も言わなかった。
「ちょうどブルーデイジーが咲き始めた頃です、後でお部屋にお持ちしますよ」
植松は変わらず額に汗の粒を貼り付けながら、きらきらと人懐こい笑顔で白い歯を光らせた。
「うん、嬉しい。楽しみにしてる」
そう返すと、植松は軍手をはめた手で汗を拭い、笑顔のまま颯爽と仕事に戻った。それを見送って、エティの控えるテーブルに戻る。
「植松さんは……知らないの? その、業界のこと」
訊ねると、エティは静かに頷いた。
「この屋敷では、彼ただひとりが知りません。知る必要がないのです、彼まで危険に晒す必要はありません」
「そう………」
紅茶に口をつける。美味しい紅茶だ。エティは俺の好みを短期間の間にすっかり熟知していた。
「エティとマリアも、そうなの?」
それは密かにずっと気になっていたことだった。備前は殺し屋が家業だ。それは時永も然り。ではその下につくメイドたちはどうなのだろうか。
「それは、殺し屋なのか、という質問ですか」
「……うん」
「そうですね………私だけが、違います」
そこでエティは言葉を切った。
「詳しいことは、また後日お話しします。全て知ることを急がずとも、これから時間は充分あります。もう隠す理由もないのです。ゆっくり、お話しさせて頂きますわ」
そうして微笑みを返すエティに、俺は黙って首肯する。一言二言では終わらない、複雑で難解な話なのだろう。それを聞く権利を持てたというのは、屋敷の人間にとっても俺にとっても、きっと特別なことを意味する。今はそれだけのことにも、この身に余る幸福に感じた。再び庭へ視線を走らせれば、植松の手によって水の撒かれた芝が日差しを反射してきらきらと輝き、その美しい緑を真っすぐ分断するかのように黒塗りの物体が横切った。獅子雄の車だ。運転席には珍しくしかめっ面の時永がいる。
「まあ、お忘れ物かしら」
少し失礼します、とエティが部屋を後にする。何か用でもあったのだろうかとさほど気にせずソファに寛いでいると、時永を出迎えたはずのエティの驚いた声が耳に届いた。どうかしたのか、と部屋の扉に目を向ければ、ノックもなしにそれが開き、ここにいるはずのない人物が堂々たる威厳を持ち目の前に現れた。は、と声にならなかった吐息が、開けっ放しになっていた俺の口から漏れた。
ともだちにシェアしよう!