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第54話

 身体の内側が、じわりと熱い。会話が途切れてしまってからも、獅子雄は終始甘ったるい眼差しをくれながら、俺の手を愛おしそうに撫でている。こんなにどろどろに溶けそうな表情もできたのか、と少し意外だった。 (告白ってすごい………)  たった一言なのに、昨日と今日ではまるっきり違う。今までずっと絶望の淵に立たされていた気分だったのが、今は天にも昇るような、夢見心地、そうだ本当に夢みたい。獅子雄が俺を愛してくれて、抱えきれないほどに溢れた愛情を垂れ流しながら俺に触れているなんて。 「………嬉しい」  そう呟くと、俺もだ、なんて言葉が返ってくるから反応に困った。  それから、病室にやってきた医師と時永に、勝手に点滴を抜いてしまったことを酷く叱られた。獅子雄の怪我は俺が予想していたよりもずっと悪く、六週間ほどの入院を言い渡され、しかしそれを獅子雄は頑として受け入れず医師と時永を困らせた。どんなに説得しても聞き入れようとしない獅子雄に最終的に折れたのは時永で、せめて四週間と約束してなんとかその場は収まった。腹の傷以外は浅かった俺は念のため大事をとっての三週間の入院とその後自宅での安静を言い渡された後、病室も獅子雄と同室にしようかと変に気を遣われて首を横に振った。そんなの心臓に悪い。 「これから、いやでもずっと一緒にいるし………」  聞き取られないよう小さな声でそう言ったのに、時永は嬉しそうに目を細め、獅子雄は満足げな表情を浮かべていた。それがむず痒かったけれど、少しも嫌な想いはしなかった。 「兄さんたちはこれからどうなるの」  医師が退室し落ち着いた頃、それまで気になっていたことを聞いてみる。俺が生きていると知ったら、あの家族はどうなるのだろうか。めげずにまた人を雇って殺しに来るのか、それとも諦めて平穏に暮らす努力をするのか。獅子雄と時永はお互い視線だけで会話のようなものをし、獅子雄が俺に一瞥をくれると時永は静かに口を開いた。 「今までに相当数の人間を雇ってあなたを狙っていましたから………資産もほぼ底をついたようです。あなたのお父様の会社も、もう随分と傾いています。自宅を失ってしまうのも時間の問題ではないでしょうか」 「………そうなんだ」  家を失い職を失い、どうやって生きていくのだろうか。裏では俺と母を裏切りながらも、それでも優しかった昔の父を思い出し少しだけ胸が痛んだけれど、同情はしなかった。家や職を失うなんて、命を失った母に比べたら安いものだ。けれども父は、まだあの女と生きていくつもりなのだろうか、前妻を殺して息子の俺までも殺そうとしたあの女と。 「あなたのお父様なのですが」  そんな俺の心を読んだかのように、時永が再び口を開く。 「情報屋の話に寄ると、私どもに報酬を支払ったあと消息を絶ったようです。電話も繋がりませんし、ご自宅にも帰っていないようで、職場にも一切顔を出さず忽然と姿を消してしまわれました」 「死んだってこと?」  思いのほか焦った声色になってしまって、自分でも驚いた。時永はかぶりを振り、静かに続けた。 「それはまだ分かりません。………お捜しになりますか?」  その言葉だけが宙に浮いて、足元に着地したであろう瞬間に、今度は俺が首を横に振った。 「いいよ、そんなことしなくて。きっと死んでる。母さんが死んだときから、こうなることは決まっていたんだ。生きられるはずがない、父さんは弱い人だから」  罪の意識は、きっとはじめからあったのだろう。だから俺の顔も見られなかった、この十年ずっと。父自身が救われたくて少しでも楽になりたくて、最期に俺に情けをかけたのは、きっと懺悔のつもりだったのだろう。結局誰も救えなかった、悲しい人たち。 「あの家庭もやっと終わるんだな………最初から終わってたようなもんだったけど」  良かったね、と胸の内で囁く。母さん、良かったね。最期まで俺を見ることなく、父しか見えずに死んでいった母。きっとあなたはこうなることを望んでいただろう。あなたの愛する人が、きっと間もなくそっちに行くよ、俺ひとりをここに置き去りにして。心の中で呟いた声が、そのまま両親に伝わればいい。この十年が途方もないくらいに長かった。あの日からずっとそうだった。俺とふたりで生きる選択をしてくれなかった母が憎かったし、俺と母を長い間裏切り続けた父を許せなかった。ずっと孤独を抱えて生きてきた。寂しかった、愛して欲しかった。 「だけど、本当はもっと生きていて欲しかった」  ぽつりと、そんな本音が零れでた。幸福であることが当たり前だったあの頃に戻れたら、そう何度も祈ったこともあった。だけどもういい、もう、いいんだ。  ベッドに横になっていた獅子雄がゆっくりと身を起こし、俺を強く抱きしめた。その広い胸に顔を押し付け、わんわん泣いた。悲しい悲しい悲しい。悲しいことを、今まで悲しくて寂しかったことを、やっと素直に受け入れられた気がした。それでも、大丈夫だ、と思う。悲しみも寂しさも憎しみも怒りも苦しみも虚しさも、すべてこの涙と一緒に流れてくれる。もういいよ、父さん母さん、もう赦すよ。こんな思いはもう、今日で終わりだ。これからは獅子雄がいてくれる。これからは、獅子雄と共に、生きていける。

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