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第53話

○  備前獅子雄  その後のことはほぼ無計画だった。とにかく椿を生かしておけば、自分自身も生きていられるような気がした。ふらふらして危なっかしくて、いつも大切なものを小さな胸の内に隠して、硝子細工のように儚く脆い心臓を見られてしまわないよう強がるその姿に、好意を抱くのに時間はかからなかった。今回の依頼が完了してしまえば、きっと椿は俺のもとからいなくなる。そんな気がした。まるで子猫のように、ふらりと目の前に現れて気付けば既にいなくなっている。そんな予感がして、過剰なほどに監視した。執着した。亜鷺が興味を示し悪戯に手を出そうとすることは簡単に推測できたから、適当な理由をつけてわざわざ西の離れにまで追いやった(亜鷺は子供の頃からそうだ、俺の大切なものは全て自分の玩具だと勘違いをしている)。みっともないほど椿に貢ぎ、恩を着せるふりをして縛り付けた。俺なしでは生きられなくなってしまえばいい。強くそう願った。  ふと気が付けば、依頼よりも己の欲を優先させていた。俺から逃げようなど、許せるはずもなかった。もう椿がいなければ、俺は生きてはいけない。俺の心臓は、椿に預けてある。それほどまでに執着した。できることなら一刻も早く自分のものにしてしまいたくて、なるべく椿を傍に置いた。遠方での仕事の際も、朝が早かろうと帰宅が深夜や明け方になろうと、無理をしてでも日帰りした。ほぼ無意識に唇を奪ってしまうと、そこからほつれたように欲の洪水が起こり、次第に止められなくなることも分かっていた。いっそのこと、殺してやろうとさえ思った。蛇岐の部屋へ行ったときだ。生まれて初めて、あんなにも激しく醜い嫉妬が身体中を渦巻いて、抑えようのない怒りと悲しみにも似た感情が全身を駆け巡った。もっと俺だけを求めてほしいのに。どうして俺以外の人間の許へ行ってしまうのか。抵抗も拒絶も許さない。このまま死ぬまでここに閉じ込めてしまおうか、それとも今ここで噛み殺してしまおうか。自らでさも恐ろしくなってしまうほどの嫉妬に憑りつかれてしまった俺を見る椿の瞳が、恐怖に震えているのが分かりその瞬間途方もない悲しみに襲われた。本当は大切にしてやりたいのに。あたたかな籠に入れて気持ちの良い風を浴びせて、何不自由なく疑いようのない幸福を、俺の手で与えてやりたいのに。どうして俺はこんなことしか出来ないのだろう。もっと愛情だけをかけて、純粋に、掛け値なしに、愛して欲しい。そんな想いとは裏腹に、俺は尚も汚く姑息な手を使って、いくらでも椿を縛り付けた。そんなことしか出来ない。それでも椿は優しいから、こんなに弱い俺を抱き締めて許してくれる。俺はそれにつけ込んで、いつまでも甘えてしまう。抱き合ってキスをするだけの時間が永遠に続いてくれたらどんなに良いか。このままふたり一緒に死ねたなら、どんなに楽で幸福だろうか。椿が俺を殺してくれたら、どんなに幸福だろうか。 「獅子雄?」  赤く泣き腫らした瞳が、心配そうにこちらを覗いている。 「どうした? 身体が痛む?」  時永さん遅いな、と椿は病室の扉に目を向けた。 「いや、大丈夫だ………椿」  呼べばすぐに振り返る。俺が望んだ以上のものを、いつも惜しみなく与えてくれる。椿の迷いのない明確な殺意が実は嬉しかった。仕方ない、俺たちはそういう人間で、そういう風に生きていくようにできてしまっているのだから。 「本当に、俺を殺したかったか」  椿は途端に酷く傷ついた表情になった。そんな顔をさせてしまうことに、心の中だけで謝った。 「………殺したかったよ、一緒に死にたかった。だけど、生きててよかった、お互いに」  その言葉に一度だけ頷き手を握ると、細い指が思いのほか強い力で握り返した。 「もう全て片付いた。………おまえは誰からも狙われることはない。もう自由だ………何処へでも行ける」  絡めあった椿の指が、ぴくりと震える。傍にあるこの温度を手放したくはないけれど、椿の人生を拘束する権利なんて俺は持っていない。俺ひとりの欲だけで、こんな汚い世界に留めておくことがいいとは思わない。 「それは……どういうこと………俺に出ていけって言ってるの」  椿は痛々しく顔を歪め、唇を噛み締めた。 「獅子雄は、俺が邪魔なのか………俺は獅子雄が………っ」  震える唇を必死に引き締めようとする椿がどうにも愛らしく思えて、口元が緩んだ。 「勘違いするな」  つい意地悪をしたくなって、わざと冷たく聞こえるように言い放つと、その言葉にきつく眉を寄せた椿の瞳から、先ほど止まったばかりの涙が再びはらはらと零れた。繋いでいた手に爪を立てられる。不安と悲しみに揺れながら、一心に俺を見つめる瞳に堪らず笑みがもれた。 「勘違いするな、おまえを手放すつもりはない。………そう言いたかっただけだ」  汚くても構わない。卑怯でも姑息でも、カネで縛り付けようが何をしようが、今更椿を手放すなどできるはずもない。蒼褪めていた椿の顔が、安堵からなのか見る見るうちに赤く染まる。 「ややこしい言い方するなよ」  震える声を荒げて、小さな拳が枕を殴った。 「捨てられるとでも思ったか」  あいている手ですっかり血の通った頬を撫でると、椿は条件反射のようにその手に擦り寄った。指先をほんの少しだけ動かすと、示し合わせたように自然と唇が重なり、すぐに離した。 「だが、それを踏まえた上でおまえに聞いておきたい。これから、どうしたいのかを」  椿の人生は、すべてこれからが始まりだ。やっと自分自身の人生を歩んでいくことができる。理不尽に傷つけられず、誰からも疎まれることなく。だから自分自身で決断させなければならない。すべては椿の為に。などと、そんな白々しいことを思った。そんなもの椿の前で格好をつけたいだけのただの「ポーズ」に過ぎない。俺から逃げるというならそれでも構わない、しつこく追い回すまでだ。この手に落ちるまで。  至近距離で見つめっていた椿がゆっくりと身体を離し、唇を尖らせて不貞腐れた表情を見せた。照れ隠しなのか怒っているのか、また泣こうとしているのか、見ていて飽きない男だ。黙って返事を待っていると、俯いてぼそぼそと口を動かしていた。 「俺は、獅子雄が好きって言った!」  なるほど、照れながら怒っていたのかと納得する。顔を真っ赤にして俺の手を痛いほどに握りしめたそれは、まだ幼くて、可愛らしい手だ。腕を伸ばし、小さな身体を引き寄せる。口付けを落とせば、恥じらうように眉を下げ俺を見つめていた。 「椿、好きだ」  そればかりが、ずっと胸の内に引っかかっていた。ようやく言葉にできた。このあまりに陳腐で月並みな、たった一言を伝える為だけに、どうして殺し合いまでしてしまったのか。それが何故だか可笑しくて、思わず笑みが漏れる。椿は驚いたように目を見開き、その後ゆっくりと両手で顔を覆った。俺はいつも、椿を泣かせてばかりだ。  椿に殺されるのなら幸福だし、共に死ねるのならもっと嬉しい。それ以上に、これからふたりで生きられる未来がすぐ傍にあることは、俺たちにとっては奇跡に近い。椿につけられた傷跡が、死ぬまでこの身体に残っていたら良い。とにかく今は、目の前の小さな身体を力いっぱい抱き締めたかった。

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