52 / 56
第52話
獅子雄のもとへ戻り椅子に腰かけると、自然な流れで再び手を握られた。
「苦しくない?」
「いや………蛇岐と何か話したか」
ううん、と首を横に振る。
「忘れ物があっただけ」
そう返すと、獅子雄は何かを察したようで「そうか」とだけ呟いた。平然を装ってはいるけれど、獅子雄の顔色は優れない。血の気を失って真っ青だ。表情こそ穏やかだけれど、隠すのが上手いからもしかしたら今も痛みを我慢している可能性だってある。申し訳なさから胸が痛んて、繋ぎ合った手を強く握った。獅子雄はちらりとこちらに視線を寄越して、静かに息を吐くとゆっくりと俺の名を呼んだ。
「椿」
もう何度も呼ばれた名前なのに、こんな状況だからか妙に特別に響いて、噛みしめるように返事をした。
「おまえに話すことがある」
頷く代わりに、獅子雄の手を撫でた。
「………大体は、時永さんから聞いた」
継母の計略と、父からの依頼、その為の執拗なまでの監視。それらを手短に話すと、獅子雄はそうかと頷いた。
「言ってくれたらよかったのに。………本当のこと」
「母親が殺し屋を雇っておまえの命を狙っている、と言ったら素直に信じるか」
「それは………」
馬鹿馬鹿しい、と一蹴するかも知れない。もしかすると、先手を打とうと自ら両親の息の根を止めに向かったかも知れない。あのときの俺ならそのくらいやってのけただろう。
「それに、はじめからおまえには内密に事を進める予定だったんだ。それが亜鷺のせいで………」
獅子雄はそこで口を噤み、忌々し気に舌打ちを漏らしたけれど、一息おいて首だけを動かして俺を見据えた。
「なに………」
真剣な眼差しに、まだ何か隠していることがあるのだろうかと身構える。しかしそうではないとすぐに分かった。獅子雄の瞳が優しさを孕み揺らめいた。
「………悪かった、不安な思いをさせてしまって」
想定外の謝罪の言葉に、まるで心臓を鷲掴みにされたかのように苦しくなった。
「お、おまえの方が……っ俺よりもずっと被害者だろ………!」
見えはしないけれど、きっと入院着の下には幾重にも包帯が巻かれているに違いない。あの出血の量だと、きっと輸血もしたはずだ。だってそうだ、手加減なんて微塵もしてやらなかったのだから。明確な殺意を持って、獅子雄を刺した。謝らなきゃならないのは俺のほう、獅子雄を信じられなかったのは、裏切ってしまったのは俺なのに。
「なんで獅子雄は俺のことばっかり………!」
「泣くな」
「うるさい! 泣いていいだろ、別に」
「おまえは泣いてばかりだ」
怪我してばかり、泣いてばかり、そんなの全部獅子雄のせいだ。いつもより力ない獅子雄の手が俺の髪をかき混ぜる。さめざめと、鬱陶しく泣き続ける俺に、獅子雄は大切なものを慈しむような眼差しを向けている。
(そんなの、また勘違いをしてしまいそう)
獅子雄も、俺のことを好いてくれているんじゃないかって、そんなことを。
○ 備前獅子雄
それは、とにかく面倒な依頼だった。殺しの依頼だけならともかく、見ず知らずの人間の護衛をしながら不特定多数の人間を殺すというのは本当に面倒だ。普段なら、こんな依頼など受ける必要もないと断っているところだ。しかしタイミングとは不思議なもので、近ごろ裏の業界をうろついている殺し屋とも呼べない連中を牽制するのには打ってつけの、派手に動ける依頼だった。目先のカネに囚われて、浮浪者まがいの連中にこの業界に首を突っ込まれるのは実に不愉快で、近々そんな連中を一掃しなければと思っていた矢先だった。計らずしも絶好のタイミングでその依頼は舞い込み、蓋を開けて見れば内容は実に興味深かった。裏の業界をうろついていた浮浪者まがいの連中を雇っていたのは依頼人の妻であり、そしてその連中がこぞって十代半ばの子供を狙っている。この子供の父親こそが、今回の俺たちの依頼人だった。複雑に絡み合っていると思われた出来事は、まるで単純な物語だった。そして呆れ返る。依頼人はなんて情けない男なのだと。自身の妻の行動を抑制できず、実の息子ひとりすら自力で護ってやれない。嘲笑すら漏れた。情報屋を遣って息子の素性を調べれば、過去に母親を殺していることまで分かった。元はと言えばすべての元凶は出来損ないの父親なのだ。
「………………………」
はじめはただ純粋に、可哀想な子供だと思った。殺し屋を生業とする俺でさえ(実行班の亜鷺でさえも)初めて人を殺めたのは高校を卒業した十八の頃だった。それがこの子供は六歳で、それも実の母親を手にかけることになってしまったとは、にわかには信じがたい。情報屋から送られてきた顔写真には、生気の失った虚ろな目をした少年が写っている。誰かに殺される前に、既に死んでいるも同然の顔つきだ。すぐにデータをプリントアウトし、傍に控えていた時永に手渡した。
「四時間以内に見つけ出せ、亜鷺と蛇岐にも応援を頼む。見つけたら捕まえる前に俺に連絡しろ」
退院したばかりの身体ではそう遠くへは行かれまいと、ネットカフェやホテル、二十四時間営業の飲食店、とにかく休めそうな場所を探し回ったが目当ての人間は居らず、人員を増やし捜索してやっと見つけた所が病院からほど近いコンビニと雑居ビルの間(隙間と言っていいほど幅が狭かった)だった。見つけ出すのが予定より大幅に遅れてしまい、手を煩わせやがってと苛立った。
時永を車に残し、膝を抱えて蹲るその少年に声をかけるも呆気なく一蹴される。とにかく連れ帰ってどこか空き部屋にでも囲ってしまうのが手っ取り早い。この子供に傷ひとつ付けず、どの連中が狙っているのかを特定して片づけてしまえば任務完了だ。成功報酬も手に入り裏で不穏な動きを見せる連中への牽制にもなり一石二鳥、その後依頼人の子供は逃げても構わない、むしろまたこのコンビニに捨てるつもりだった。それが何故こんなことになってしまったのか、俺は今でも時折考える。
既に死んでいるも同然の瞳をした少年が、あの日、あの場で、まさに俺の目の前で、それは突然(前触れなど微塵も見せずに)息を吹き返した。生きた瞳をした。泣きながら「助けて」と言った少年は決して俺に縋ったのではない。痺れるほど強く掴まれた腕から、ありありと感じ取ることができた。少年は、自分自身の生きようとする力に縋っていた。這い蹲ってでも、汚い手をつかってでも、それでも生き延びると瞳が語っていた。その瞳に、眩暈を覚える。
これまで何度も、意地汚く命乞いをする連中を見てきた。恥もプライドもなく、ただ俺の顔色を窺いその汚い舌で靴を舐める者も大勢いた。舐める相手を間違っている、といつも思っていた。気に入らないから殺すのではない、恨みがあるから殺すのではない、俺たちは「依頼」を受けたから殺すだけだ。目の前の人物が殺される理由など、書面上でしか興味はない。ましてや実際に手を下すのは俺ではない、殆どの場合が亜鷺だ。俺が直接手を下すことなどそうそうない、殆ど有り得ない。そういう風にできているのだ。わずか数秒の内で死体になってしまった塊を見て、誰よりも一番汚いのは自分自身だと嫌というほど痛感する。俺はいつもひとりで宙に浮いている。時永のようにこの仕事に対して疑いようのない忠誠心などないし、亜鷺ほどの潔さなんて初めから持ち合わせてなどいない。生まれたときからやることが決まっていたこの仕事、油断をすれば今にも迷いや重圧に押し潰されそうで、気付けばまともな睡眠などとれなくなっていた。自分が生きているのかどうかさえ、きっと次第に分からなくなっていくのだろう。
そんなことを思っていたから、初めて写真で椿を見たとき、この子供は俺と同じだと感じて同情した。もう、生きているのかどうかさえ分からない。ただただ真面目に、愚かしいほど律儀に、待たずともやってくる日々を仕方なく過ごしているだけの人生だ。愚かにも俺は、同じだと勘違いをしてしまった。だからその瞳に唐突に生気を宿したとき、雷に打たれたような衝撃を受けた。馬鹿馬鹿しくも、裏切られた、と余りに身勝手なことを思った。それと同時にたまらなく羨ましくもあった。母を殺さなければならず、父親に捨てられて尚、どうしてこんなにも痛々しいほどに生気をみなぎらせるのか。
「助けて」
椿の言葉が脳裏に響く。次の瞬間にはその細い腕をとっていた。助けてほしかったのは、俺のほうだ。この小さな身体に縋ったのは、俺のほうだ。
ともだちにシェアしよう!