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第51話

 ピー、ピー、と耳障りな電子音で目が覚めた。獅子雄のベッドに突っ伏してそのまま寝ていたようで、妙な電子音は俺に繋がっている点滴の機械から発せられたものだった。束の間、迷ったけれど適当なボタンを押して点滴の滴下を止めて、腕に刺されていた針をひと息に引き抜いた。たぷりと膨らんだ袋から体内に流れ込んでくるブドウ糖だの何だのなんて、あまり必要だとも思えない。針の痕にぷくりと盛り上がった血を真っ白なシーツで拭った。泣き腫らし、熱く重たくなった瞼をこする。窓の外は暗闇が広がっている。俺たちが気を失ってから、丸一日経った頃だろう。  このまま獅子雄が目覚めなかったらどうしようか。不安は急速に身体の隅々までをも侵食していく。そんなのいやに決まっている。どうやら俺は、自覚していた以上に自分勝手で我儘だ。獅子雄をこんな風にしたのは紛れもなく自らであるのに、生きていて欲しいと願うなんて。生きている獅子雄に、また触れたいと思うなんて。そんなのきっと許されない。再び溢れてくる涙を両手の甲で乱暴に拭う。それでも涙は止まるどころか、水の入ったバケツをひっくり返したようにばしゃばしゃと流れて、気付けば顔を覆ったまま声をあげて泣いていた。そういえば母が死んでしまったとき、母を失ったと分かったとき、俺は泣いただろうか。病院で目覚めて、医師や看護師に同情の眼差しを向けられ、父はまるで化け物を見てしまったような、その瞳の中に計り知れない恐怖を渦巻かせていた。俺はあの日突然にひとりぼっちになってしまったんだ。これほど悲しいことはない。我が子の手を使って死んだ母も、殺すこと以外の選択肢を持っていない俺も。なんて臆病で愚かだろう。俺と母は同じだ。愛して欲しいと、身体の細胞ひとつひとつが痛いくらいに叫んでいる。愛して愛して、愛して愛して愛して。いつの間にこんなにも臆病で、愚かで、底知れぬほど傲慢になってしまったのだろう。  ふと自身の顔を覆う手に何かが触れて、俺は弾かれたように頭を上げた。その瞬間、腕を強く引かれてベッドに前のめりに沈み込む。 「うそ………」  涙で霞む視界の中心に、自ら酸素マスクを剥ぎ取る獅子雄がいる。ピー、ピー、と再び甲高い音が室内に響きわたり、獅子雄はそれに舌打ちを漏らした。俺の手に、その長い指を絡ませながら。 「やかましい音だな、頭に響く」 「ふっ、ふふ……獅子雄が勝手に外すからだろ………」  笑っているつもりなのに、また一筋、二筋と、涙が頬を伝う。 「泣くな」  獅子雄の大きな手が俺の後頭部にまわり引き寄せられ、触れるだけのキスをした。至近距離で見る獅子雄は、確かに生きている。絡んでいた指同士を互いにもっときつく絡め合わせた。病室の外から騒がしい足音が近づく。きっと亜鷺がこの音に気付いたのだろう。 「だいすき」  皆が部屋に入ってくる前に、俺は短く呟いた。 「………知ってる」  獅子雄のその返事を聞いて、また唇を合わせ、それが離れたと同時に、部屋の扉が勢いよく開いた。最初に駆け込んできたのは時永で、その後ろから亜鷺、蛇岐、更にエティとマリアも続いた。そして俺たちを見るなり、時永は安堵の表情を見せ大きく息を吐いた。 「目が覚めたようで何よりです」  それだけを告げると時永はすぐに表情を引き締め、医師を呼んできます、と来たばかりの道を引き返した。 「獅子雄くん、無事でよかった。どう? 気分は」 「問題ない」  亜鷺は獅子雄の枕元に立ち、腕組みをしながらじっと顔色を窺っていた。亜鷺も蛇岐も血まみれのままで、その姿があの日の壮絶さを充分に物語っていた。 「そう………生きていてくれてよかったよ、きみも椿くんも、ね」  亜鷺は俺の頭に手を置いて、ぽんぽんと二回叩いた。皆に謝るべきだろうかと束の間逡巡し、やめる。きっと誰もそんなことは望んでいない。俺が生きていて、獅子雄も生きている。この結果こそが皆にとってすべてだろう。 「ふたりの顔を見たら安心したよ。さ、みんな帰ろう。獅子雄くんが無事ならもうここに用はない。僕も蛇岐くんも血まみれだし、早く着替えなきゃ。お腹もすいちゃったしね」  ひらひらと手を振って、亜鷺は潔く踵を返した。 「一応時永は置いていくけど、後は任せたからね、椿くん」  そう言って悪戯っぽく微笑むと、何か物言いたげな蛇岐と心配そうに見つめるメイドふたりを引き連れてさっさと部屋を後にした。 「…………………」  病室内に沈黙が戻る。皆が出て行った扉を何の気なしに見つめていると、指を絡ませて握り合ったままの手に今更気が付いた。 「ああ………」  気を遣わせてしまったのだろう。皆に申し訳なくなったけれど、ふたりきりになりたかったのは紛れもない事実で、その気遣いに素直に感謝した。獅子雄に向き直ろうとしたとき、再び、今度は随分と控えめに扉を叩かれた。視線を寄越せば小さく開かれた隙間から蛇岐がこちらを覗いていて、目が合うと小さく手招きされた。 「………………」  繋いでいた手を離し痛む身体に気を遣いながら蛇岐に近付くと、そのままゆっくりと手を引かれ部屋の外へ出され扉を閉められた。黙って蛇岐を見つめる。蛇岐も無言のまま背中に隠し持っていたものを俺に差し出した。 「これ………」 「…………………」  ナイフだ。柄には恐らく俺と獅子雄のものだと思われる血がべったりと付着していた。蛇岐は表情を微塵も動かさず、俺の反応を待っているようだった。蛇岐の瞳を見つめる。揺らめく瞳の奥の、更に奥。「ここ」へ辿り着くまでに、たくさんの罪を重ねてきたのだろう、血がこびり付いてしまったままいつまでもそれが消えない蛇岐の手に、自らの手を重ね強く握った。 「………ありがとう、蛇岐。おまえがいてくれたおかげで、随分と助けられた」  獅子雄への気持ちに気付いたときも、GPSの存在を知ったときも、そして襲われたときも。蛇岐だけは何故だか、いつだって俺を理解してくれて、いつでも味方でいてくれている気がしていた。どうしてナイフを与えたのか、明確な理由は分からない。けれど少しだけ、想像できる気もした。俺と蛇岐はその魂のかたちがとても似ていて、あまりにもそれが近すぎて、きっと深いところで無意識にお互いのすべてを見透かしている。俺にも蛇岐にも、このたった一本のナイフが必要だった。それを心の拠り所にしなければ生きてなどいけない人生を、歩まなければならなかったのだ。 「このナイフ、俺が貰っていいのか」 「必要なら」 「………必要になるかは分からない。だけど、持っておきたい」  蛇岐は小さく頷いた。 「この仕事を始めるときに、獅子雄さんに貰った。初めて俺が、殺し屋として人を刺したナイフ」  小振りだけれど十分な重さのあるそれは、随分と大切に使い込まれてきたものだ。蛇岐の瞳がそう物語っている。手放すのを、惜しむように。 「本当に貰っていいのか」  念を押して訊ねると、蛇岐はやっと笑ってくれた。いつものとは違う寂し気で痛々しいものだったけれど、きっとそれに気づかないふりをしなければならない。俺も微笑み返す。 「俺には、もう必要ない」  最後に一度だけそのナイフを愛おし気に眺め、そして俺の両手と一緒にそれを祈るように握りしめ、椿姫の病室に置いておく、と言い残し蛇岐は去っていった。その背中を見つめた。蛇岐は何か苦いものを押し込めるように大きく分厚い背を丸めて、ゆっくりと遠ざかっていった。ここからは見ることのできない蛇岐の表情が悲しく歪んでいたなんて、俺は知る由もない。小さくなっていく背中に向けて、深々と腰を折った。俺はきっと誰よりも蛇岐に感謝すべきなのかも知れない。本心を押し殺して「仕事だから」という理由ただひとつで、最後まで俺を助けて寄り添ってくれていたのは、他の誰でもなく、蛇岐だ。 「ありがとう」  心の中でもう一度同じ言葉を呟いて、蛇岐の姿が見えなくなるまでその背を見送った。

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