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第50話
病院の廊下は冷えて薄暗く、他の患者はおろか医師や看護師すらいるとは思えなかった。それほど人の気配はなく、耳鳴りがするほど静まり返っている。
「ここには一般の患者はおりません。我々のような者が治療を受けるところなのです」
俺に聞かれるまでもなく、時永はそう教えてくれた。覚束ない足取りで、点滴を支えに獅子雄の病室を目指す。早く逢いたいと急く気持ちとは裏腹に、足は少しずつしか前に進まない。一歩ずつ足を進めるたび腹の傷が痛み、波のような吐き気が何度も訪れる。それをどうにか堪えて点滴を持つ腕に力を入れると、今度は銃弾の掠めた腕が痛んだ。
「………痛みますか」
それに気付いたらしい時永が俺を気遣う。
「今やっとね」
あの時は痛みなんて微塵も感じなかった。撃たれたところも刺されたところも噛まれたところも、今更になってようやく痛みを感じ始めている。
「本気で俺を撃つつもりだった?」
こちらに銃口を向けた時永の目を思い出す。迷いはないように思えた。
「そうですねえ………気持ちだけはそうでしたが、きっと心臓を打ち抜くことはできなかったでしょうね」
殺し屋失格です、と時永は笑った。
「正直に申し上げますと、あなたの気迫に圧されてしまいました。こんな事態にも備えてはいたのですが、私どもはどうやらあなたを甘く見すぎていたようです。私より……あなたの方が余程殺し屋に向いています」
こつんこつんと規則正しい時永の足音を、意味もなく数えた。ふと時永を見上げると、悪戯っぽい笑みを返された。
「今の戯言は、獅子雄様にはどうかご内密に。………さあ、こちらです」
扉が静かに開かれ、その奥へと俺を誘なう。
「ふたりきりがよろしいでしょう、何かあればお呼びください」
背後でそう呟かれ、ぱたんと扉は閉まった。痛む腹を擦りながら、カーテンの隙間から中を覗く。
「………獅子雄」
整然とベッドに横たわり、酸素マスクをつけている獅子雄は目を閉じたまま動かない。顔色は冷えて青白く、もう心臓が止まっているのではないかと心臓が竦み上がった。枕元に椅子を引き寄せ腰掛けて、口元に耳を寄せれば微かな呼吸が聞こえ、堪らず胸を締め付けられた。
(生きてる………)
生きてる。
「よかった………」
ぽろりと、口から零れた。獅子雄の手を取り、強く握りしめた。脱力しきった大きな手は重くて、そして確かに温かった。生きている。獅子雄は、まだ生きている。嗚咽が漏れ、涙がいくつもの筋をつくった。
「ごめん、獅子雄、ごめん、ごめんなさい………!」
裏切ったのは俺のほうだ。獅子雄の腕を両手で持ち上げ頬を寄せる。どうか、目を覚まして。
○ 備前亜鷺
「蛇岐くん、コーヒー飲む?」
ふたりが倒れた日から一夜明け、どうやら先ほど椿くんは意識を取り戻したようだった。ふたりの身を案じているのか、それとも場に似合わず興奮しているのか、僕も蛇岐くんも結局あれから一睡もできずにいる。シャワーも浴びず、身体にはべっとりと血を塗りつけたまま。
「椿くん、目が覚めたみたいだよ。意識もはっきりしてるって」
「そうっすか」
人のない閑散とした待合所で、蛇岐くんに冷たい缶コーヒーを手渡す。彼には珍しく無表情を決め込み、受け取ったコーヒーを開けることなく親指で水滴を拭っていた。
「きっとこれから、僕たち時永の長いお説教を受けることになるよ」
倉庫に一歩足を踏み入れたその瞬間の感情を、どう表現したらいいだろうか。
僕に課せられた使命は獅子雄くんの命を守ることで(いざとなれば自らの命など捨て去らなければならない)きっとあのとき誰よりも先にふたりの間に割って入るべきだっただろう。でも出来なかった。否、しなかった。殺しの現場なんて今まで何度も見てきた。死体を作るのは僕の役目であることがほとんどだし、僕以外の誰かが死体を作っている姿も幾度となく見てきた。下手だなと思うこともあったし、上手いけれど面白くないだとか、あまりに淡々として味気ないだとか、そんな下らない感想を持つこともあった。けれど昨日のそれは(そうだ、つい昨日のことなのに果てしなく遠い日のように感じる)美しかったけれど、それと同時に薄汚くもあって、それでも甘美で尊くて、課せられた使命を放ってでも、その先を見たくなった。見なければならなかった。獅子雄くんと椿くんの死体は、どんな色をして、どんな形に変わるのだろうか。背筋が震え、それは一種の快楽にも恐怖にも似ていて、全身が激しく戦慄いた。だから時永が銃を発砲した瞬間、我に返ると同時に憤慨した。どうして邪魔をするんだよ、と掴みかかろうとする自分を抑えるのに必死だった。きっとそれは蛇岐くんも同じだ。
「倉庫の奥から、見てたでしょう。獅子雄くんが刺されるところを」
椿くんを拉致した男ふたりを片付けることなど、彼に掛かれば赤子の手を捻るより容易い。悪戯にそう訊ねれば、蛇岐くんはわざとらしく肩を竦めた。
「見てましたよ、でも俺の仕事は椿を獅子雄さんのもとへ返すことだから。あの時はもう俺の仕事は終わってました」
「ふふ、屁理屈。………実はね、獅子雄くんは今回の仕事から僕を外していたんだ。わざわざ西の離れにまで追いやっちゃってさ」
どうして、だなんて思わない。さすが我が弟だ、その判断はむしろ正しい。
「面白いおもちゃを見付けたと思ったんだけどなあ………」
初めて椿くんと顔をあわせたとき、その生意気で勝気な瞳に背筋が粟立った。優しく優しく甘やかしてから、圧倒的な力で捻じ伏せてしまえば、彼はどんな風にしてその可愛い顔を歪めるのだろうか。
「椿くんに忠告しようとしたんだ、本当のことを教えてあげようと思って。獅子雄くんは仕事で君を匿っているだけで、そんなの愛情じゃないんだよってね。変に勘違いをして傷つくのは椿くんでしょう? 親切のつもりだったんだけどなあ……違ったみたい」
今思い出しても可笑しくなってしまう。初めて会ったときは警戒して全身を戦慄かせる子猫みたいな瞳をしていたのに、傷だらけの足で必死に僕のもとに走ってくるあの姿は、僕をどうしようもなく恍惚とさせた。
「もしかして楽しんでます?」
「はじめはね………今は純粋に驚いてるかな。獅子雄くんが、まさかあんな子供にねえ………まだ十五歳だっけ? 我が弟ながら理解しがたい男だよ」
「まあ普通に犯罪ですからね」
蛇岐くんは平然と言いのけるけれど、殺し屋の僕たちが犯罪がどうだとか、そんなことを今更気にする必要が果たしてあるだろうか。蛇岐くんはさらに「椿ってそんなに良い男ですかね」と首を傾げながら、さも面白そうに肩を揺らした。
「亜鷺さんもいい加減、恋人でもつくったらどうですか。いい年なんだから」
「好きになっても、相手がねえ」
彼の軽口に、わざとらしく肩を竦めて見せる。「そんな性格じゃあ、すぐに嫌われちゃいますよね」と揶揄う蛇岐くんに、それを視線だけで返した。
「亜鷺さん、相当歪んでるから」
「案外引き寄せあうんだよ、歪んでる者同士さ」
僕らはつくづく低俗な人間だと痛感する。けれど、それが悪いだなんて微塵も思わない。僕らはそういう人間だというだけ。ただそれだけのことなのだ。遠くから少しずつ近付いて来る、規則的な固い足音を耳が拾った。
「ほら、時永が僕らを叱りに来た」
どうしてあなた方は真面目に仕事をしないのですか、そう言うに違いない。
「そういう時永さんだって、俺たちと同じなのにねえ」
間延びする言葉尻、ちらと蛇岐くんを窺えば、いつもどおりの軟派な笑顔を貼り付けてコーヒーを煽っていた。それを見て、不意に胸が弾んだ。そうだ、僕らはこんなにも汚くて、こんなにも幸福なのだ。
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