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第49話

 時永ははっきりと、ひとつひとつを言い聞かせるようにそう告げた。思わず幻聴かと疑う。現実を見たくないあまり、脳が勝手にそう聞かせているだけ。しかしどうやらそうではないらしい。呆ける俺に向かって、時永は深々と頭を下げた。 「しかし今回、あなたを危険に晒してしまったこと、誠に申し訳ありません。もっときちんと目を光らせておくべきでした。こんな大怪我を負わせてしまって………」 「そんなこと、どうでもいいんだ………!」  今はそんな謝罪などどうでもいい。獅子雄はどうして俺を監視していたのか。その理由を今時永は何と言っただろう。言葉の先を急ぐ俺に、時永はいつもどおりの(しかし今にも泣き出しそうな)あの優しい笑顔を向けている。 「獅子雄様があなたを傷つけるはずないじゃないですか、坊っちゃん」 「で、でも………っ」  では父は何の為に獅子雄に電話を寄越したのか。兄の言ったことは、出来すぎた嘘だとでも言うのだろうか。時永の言葉を信じたいけれど、真実がどれかなんて分かるはずもなく俺の頭は混乱に深く渦巻いた。 「さあ、ここからが本当の答え合わせです」  ぱん、と時永が手を叩く。 「あの日、あなたのお父様から電話がありました。先程も申し上げたとおり、殺しの依頼です。しかしターゲットはあなたではありません」  息を呑み、続きを待つ。 「ターゲットは、あなたを狙う殺し屋全員」時永の瞳が、ひやりと細められた。「ひとりとして取りこぼすことなく、そのすべてを排除すること」  息子が退院した。助けてくれ、殺し屋に狙われているんだ。父はそう言ったらしい。 「殺し屋に狙われているから助けてくれなんて、殺し屋である私たちに言うなんて、まったくおかしな話です」 「どうして……親父が、そんなこと………」  親父だって、俺が死ぬことを望んでいたはずなのに。 「さあ………それは私たちには分かりません。とにかく、あなたのお父様は必死でした。少なくとも私はそう感じました」  家にいたら私の妻に殺されてしまう。カネならいくらでも払うから、どうか息子を助けてくれ。もう何人もの殺し屋が息子を狙っている。急がないと本当に死んでしまう。あの子は何も悪いことなんてしていないのに。 「それきりお父様は、電話口の向こうで黙り込んでしまいました。こんな依頼をされたのは初めてのことでしたから、私どもも返事に困りました。しかし獅子雄様は、冷静にと言いますか、何と言いましょうか………」  カネはいくらある、そう訊ねたらしい獅子雄の声はきっと冷たかっただろう。 「坊っちゃん、我々を雇うのにいくら必要かご存知ですか?」  俺は首を横に振る。そんなの知る筈もない。考えたこともないのだから。 「どんなに小さな仕事であろうと、最低でも数千万、しかし今回の依頼は特殊でしたから更にもうひとつゼロがつきます。そういう世界なんです。あなたの義理のお母様は他にも殺し屋を雇い、あらゆるところから情報を買い、経済的に逼迫していたでしょう。私たちへの報酬など到底払えるはずがないのです。断ってしまおうかというとき、あなたのお父様がこんなことを言いました」 『息子に手付金を持たせている。一生かかっても必ず全額払うから、どうか引き受けてくれ』 「手付金……?」  時永は黙って頷いた。記憶の糸を手繰り寄せ、たったひとつの心当たりを見つけ出した。退院するとき、父が俺に投げつけた封筒。それには入院費を大幅に超える額の現金が入っていた。それに何の疑問も抱かず、俺は今でもその大金を財布にいれたままだ。一度それを獅子雄に渡そうとしたけれど、獅子雄は頑として受け取らなかった。  母が死んでしまってから、もう数年まともに父の顔なんて見ていない。母を裏切った父が、暴力しか振るわなかった父が、どうしてそんなに必死になって俺を殺し屋の魔の手から逃したのか。父と子の絆なんて、そんな薄ら寒いものなんて到底あるとは思えなかったのに。 「我々は考えた末に、この依頼を引き受けることにしました。お父様の言葉を信用したのではありません。あなたのお父様の会社と自宅、所有している全ての土地の権利書をとりました。報酬を支払えなかったときに売り払って現金に換えるためです。そしてあなたを見つけ、匿い、監視し、保護してきました、この一ヶ月間」  頭が今だ混乱している。何が、どうして。結局俺は、父に守られていたのだろうか。父と最後に会った日、手加減もせずに殴りつけられた。もうおまえに家はない、二度と顔を見せるなと罵倒された。それら全てが、演技だったとでも言うのだろうか。 「……あなたのお父様は、どうしようもない人ですね」  そう呟かれた声と、すすり泣く俺の声が病室に木霊した。  くそやろう、今更父親面しやがって。そんなことされたって、ちっとも嬉しくない。俺に対しての誠意があるなら、死ぬまで悪者に徹してくれていた方がまだ救われた。母が死んでからの俺の十年間を返して欲しかった。元はと言えば父の下らない浮気のせいで、俺たちの幸福な家庭は崩壊してしまった。懺悔のつもりだろうか、許されるとでも思っているのだろうか。許せるはずもない。返してくれ、苦痛だった俺の十年。今更そんなことされたって、どんなにカネを積んだって、誰に謝っても祈っても、どんなことをしたって、俺が母さんを殺してしまった事実は消えない。見る見るうちに生気を失っていく母を誰よりも傍で見ていた苦い記憶は、血を流して横たわる母の姿は、生きた心地のしなかった今までの俺の十年は返らない。深く抉れた心の傷も、身体に刻まれた人を刺した感触も、もうどうしたって忘れることはできないのに。それを抱えて生きていかなければならない俺の気持ちなんてただのひとつも分からないくせに。返せ、俺の十年とこれからの人生を、母さんを返せ、くそじじい、おまえが死んで詫びたらいい、それでも許してやらないけれど。自己満足の親切なんかゴミクズ以下だ。俺を助けたつもりか。母さんと俺から逃げやがた弱虫のくせに、くそやろう。 「時永さん………おれ、どうしたらいいんだろう」  どこまでも身勝手な父を、どうしたって許すことはできない。許せるはずもない。結局父のおかげでこの命が助かってしまっただなんて、喜べるはずもない。あの男が全てを奪った、俺の大切なもの全てを。許すなんて、感謝の言葉なんて微塵も出てこない。これまでの十年が、それほど、あまりにも長すぎたのだ。母親だけじゃない、俺は獅子雄までをも殺してしまったのだ。母を殺して、獅子雄まで殺してしまった。また俺だけが生き残った。 「獅子雄………!」  時永は泣いている俺をあやすように頭を撫で続けた。枯れた小枝のような、それでも確かな温かさのある細い指で。そして泣き声の隙間を縫って、優しい声が囁きかける。 「しかし、どうしてわざわざ、獅子雄様はあなたとの同室に何も不満を漏らさなかったのでしょうか。監視の目が行き届きやすいから、ただそれだけの理由で同室を許可なさるとは思えません。それに加えて学校へなど通わせて、そんな危険な賭けを何故したのでしょうか」  私には分かりません、と呟くと、時永は長く息を吐き俺の涙を拭って小さく腕を引いた。 「気になるので、ご本人に聞いてみましょうか」 「え………」  ぽつりと放たれた言葉に、呆けた声を漏らす。時永は悪戯な笑みを浮かべた。 「獅子雄様が死んでしまっただなんて、私は一言も言ったつもりはありませんよ。今はまだ、意識は戻っていませんが………しかしこの程度のことで死んでしまっては備前の長は勤まりません」  たかだか刺されたくらいで。軽やかな声でそう言うと、時永はゆっくりと、俺の手を取った。

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