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第48話『それから』
終章 それから
○ 我妻椿
暗い暗い深海から引き上げられるように、俺は目覚めた。
一番はじめに見たのは、少し汚れた天井。その後、水色のカーテンを見て、そしてやっと自らに繋がれている点滴が視界に入った。この光景を見るのは二度目だ。四月のあの日、俺は車に撥ねられて、病院に運ばれて丸二日高熱を出して意識不明、その二日の間に俺は獅子雄との幸福な夢を見た。
(なんて………)
夢などではないと、俺の手を握る白くか細い両手が物語っている。丸椅子に腰掛け、ベッドに突っ伏している黒の巻き髪には随分と親しみがある。
「………エティ」
掠れた声で呼びかけ弱く手を握り返すと、エティは赤く泣き腫らした目を擦りながら顔を上げ、俺と視線を交わした途端その大きな瞳いっぱいに涙を溜め、俺の手を痛いくらいに握り締めた。
「申し訳ありません………! こ、こんなことになってしまって………!」
俺の手に額を擦りつけ、涙で頬を濡らしながらエティは何度も謝った。顔を上げてと言っても首を横に振るばかりで、肩を震わせ謝罪の言葉を繰り返した。
「エティが謝ることじゃない。エティは、何も悪くないだろう」
獅子雄に命令されてしまえば、それを拒否できる人間などあの屋敷にはいない。体温をなくしたエティの手を親指の腹で撫でた。他にかけられる言葉も、俺は持ち合わせていない。
「………人はそう簡単に死ねないみたい」
そう言って笑えば、エティは首を横に振った。
「でも獅子雄様は………」
細い針を刺さされたみたいに、少しだけ胸が痛んだ。だけどそれだけだった。
「そう………獅子雄は、死んじゃった?」
くぐもった泣き声ばかりを漏らすエティを慰めることも出来ないまま、艶をなくしてしまった黒髪を呆然と眺めた。獅子雄の死体を見てみたいな、と思った。身も心も限界まで擦り切れ酷く疲弊して、再び瞼を落としたけれど、血まみれの獅子雄が突如として映し出されて眠れそうにもなかった。エティと手を握り合ったまま暫くを過ごしていると、病室の引き戸が静かに開かれて時永が顔を覗かせた。
「椿坊っちゃん、ご無事で何よりです」
恭しく頭を下げるけれど、いつもの柔和な様相には疲労の色が窺えた。髪は乱れて随分と草臥れてはいるけれど、獅子雄が死んだにしては取り乱した様子はひとつも見受けられない。そういう世界で生きているのだ、それも覚悟の内だったに違いない。時永は泣き崩れるエティの肩を支えそっと立ち上がらせると、席を外すよう促した。ふたりきりになった部屋に沈黙が流れた後、時永はにこりと微笑んだ。
「さあ、ひとつずつ答え合わせをしましょうか」
何に対しての答え合わせだろう。俺は真実を知っているというのに、そんなことをする必要は果たしてあるのだろうか。時永は無言を貫く俺の脇に腰掛けて、すらりと伸びた脚を組む。いつもは凛として見えるのに、草臥れたその横顔は年齢以上に老け込んでに思えた。
「まずは何から説明しましょう」
そう前置きする。
「順を追って話しましょうか、あなたと出会った日から」
そんな話し聞きたくもないのに、時永は俺に構うことなく語り始めた。
「あなたと出会った日の前日、正確には十二時間ほど前です。我々のところに一本の電話がありました」
はじまりはいつも一本の電話、そんなことを思った。
「我々の許へくる電話は、ほとんどが殺しの依頼です。その日も例に漏れずそうでした。電話の主はひとりの男性、大変切羽詰った声でした」
「時永さん、その話、聞かなきゃ駄目?」
堪らず話を遮る。兄から聞かされた話の繰り返しだ、もう聞きたくない。どうして皆、こうも無遠慮に俺を傷つけるのだろうか。
「もう、聞きたくないんだ」
その一言を、乾ききった喉からどうにかひり出したというのに、そんな俺の望みも虚しく時永は首を横に振った。
「いいえ、あなたには聞く義務があります」
即座に言い放たれたその声は固く、俺に拒否権はないということをはっきりと告げられた。
「聞かなければなりません。それだけのことをしてしまったのです、あなたも、我々も。私たちも、話さなければなりません。それをあなたは、聞かなければならないのです」
微笑みの消えたその瞳は真剣で、そしてもう何も言えなくなってしまった。それだけのことをしてしまったのだ。唇を結んだ俺を確認して、時永は静かに続けた。
「電話の主はあなたのお父様、今しがた息子が退院したのだと言いました」
「俺を殺してくれって頼まれたんだろ、だからあんたらは俺を捕まえに来た」
兄が話したとおり、やはり父は獅子雄に殺しの依頼をしたのだ。過ぎ去った筈の悲しみと怒りが、ふつふつと込み上げた。しかしそれを吐き出す気力も、今は残されていない。
「………あなたを捜すのには、それなりに苦労しました。てっきりどこか休める場所にいるものだとばかり思っていましたから。あんなに暗くて冷たいところに一晩中座っているなんて、驚きました。あなたを連れ帰って、獅子雄様にあなたを監視するよう命じられました。絶対に目を離すなと、それはメイドたちふたりも同じです。そしてこの依頼の為に雇われた蛇岐さんも」
分かっていたことなのに、時永の口から改めて告げられ愕然とした。兄の言っていたことは、嘘ではなかった。その事実が俺を激しく打ちのめした。俺を学校なんかに通わせたりして、甘い言葉で誘って、俺に不審に思われないように信用を買った。悔しい、そんなことにも気がつかなかったなんて。
両手で顔を覆い、声を殺して静かに泣いた。愚かな自分が恨めしい。ちくしょう、ちくしょう。許せない。
「獅子雄様は監視の目を決して弛めませんでした。どんなお仕事のときでも、あなたの居場所を逐一確認し、蛇岐さんやメイドふたりと蜜に連絡を取り続けました。………それが何故だか分かりますか」
「それを………俺に聞くのかよ」
俺の口から言わせる気か。なんて残酷な仕打ちだ。
「………俺が、逃げ出さないように」
いつでも俺を殺せるように。
言葉にするとそれが次第に現実味を帯び、悲しくなった。獅子雄が俺の命を狙っていただなんて。仕事だからといって、そうまでして俺を殺そうとしていたなんて。そんな獅子雄をこんなにも愛してしまうなんて。酷い、あまりにも酷い裏切り。約束までしてくれたのに、それらすべてが偽りだったなんて。
「まったく坊っちゃんはお馬鹿さんですね」
泣き声の激しくなる俺の頭をひと撫でして、時永は困ったように眉を下げて笑った。
「あなたを守るために決まっているじゃありませんか」
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