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第47話

「椿姫、遅くなってごめんね。外でめちゃくちゃやっててさ、それ今獅子雄さんたちが片付けてるんだけど、それより俺のタックル見た?」  蛇岐は即座に俺のもとへ駆け寄り、腕を拘束する縄を解きながら悠長なことを聞いてくる。どうやらあの重い扉を体当たりして破ったらしい。 「見てない。見てないけど、ナイスタックル」 「でしょ、任せてよ、ところで俺今日だけで何人殺したと思う?」  蛇岐は興奮しているのか、血まみれの顔で破顔する。それが返り血なのか蛇岐自身の血液かは知らないが、目の前のこの男は恐ろしいほどにぴんぴんしている。拘束から開放された腕は生き返ったように一気に血が駆け巡り、自由になった身体で立ち上がろうと力を入れるが、二度も蹴られた腹が痛んで思うようにいかない。 「おっと、大丈夫? 椿姫………」  力強い蛇岐の腕がカーディガンに覆われた俺の腰に触れ、一瞬だけ驚いた表情を見せた。 「……持って来てたの」  その質問に、何を、とは聞かなかった。 「おまえが俺に渡したんだろう。せっかくだから役立ててやるよ」  血まみれの顔に笑ってみせる。うまく笑えているだろうか。蛇岐の分厚い胸板を拳で叩き、なんとか自力で体勢を整えた。この程度の怪我でくたばっている場合ではない。まだやり遂げなければならない目的がある。俺を裏切った獅子雄に、おとなしく黙って殺されてなんかやるものか。みすみすやられて堪るかよ。 「椿姫、本気?」  蛇岐の声に、緊張の色が滲む。 「本気。だから蛇岐は今日でお役御免てことだな」 「………違うよ、椿姫」  蛇岐は何か言いたげに顔を歪めたけれど、ついに何も言わなかった。俺も言葉の先を聞くことはしない。  派手な銃声と共に、蛇岐の体当たりにより破られた入り口からまたひとりの男がやってくる。その男の顔を確認し、待ち侘びたそれだと分かった瞬間、俺を構成する全ての細胞が歓喜に狂った。 (獅子雄………) 「蛇岐! 早く追え、逃がすな!」  獅子雄はそう叫ぶと、逃げ出そうとしているふたりの男へ銃口を向け二発放った。蛇岐は最後に一度だけ俺の肩を叩くと、奥へと逃げる男たちを追いかけた。外では今だ銃声が響いている。地面に打ち付けられた右頬が疼き、鼻血のせいで呼吸はしにくいし蹴られた腹は激しく痛んだ。けれどそんな自らの身体を労わりもせず、銃を下げた獅子雄に歩み寄りその広い胸に顔を埋めれば、優しく(だけど苦しいほどきつく)抱き竦められた。ああ、俺はずっとこのときを待っていたのだ。 「椿………遅くなって悪かった」  頭上で、そんな言葉が響いた。獅子雄、やっと俺を殺しに来てくれたのか。まるで陽だまりの中で微睡むような穏やかな気持ちで、静かに目を閉じた。まともに立つことすらままならない俺を気遣って、獅子雄は地面に膝をつく。俺をしっかりと抱いたまま。 「獅子雄………」  埃を吸った声は掠れていたけど、それでもきちんと獅子雄の耳に届いたようで「なんだ」と優しい返事がおりてきた。 「約束、守りにきてくれたんだろ?」  知らないなんて言わせない。覚えてないなんて言わせない。おまえだけは絶対に、許してなんかやるもんか。  警報が、頭の中で鳴り響く。それをどこか遠くで聞いていた。崩壊の、一歩手前。思えばこの警報はいつも、俺を守ろうとしてくれていた。これ以上は危ないと、教えてくれている。それを初めて聞いたのは母を刺してしまったあの日。痩せ細った母の手が包丁を取り出した時にも、これ以上ここにいてはいけないと、身体が揺さぶられるほど強く、警報が教えてくれていた。あの時も、母など置いて逃げ出してしまえばよかったのだ。だけど俺は馬鹿だから、そうすることが出来ない。獅子雄の首を絞めてしまったときだってそう。五月蠅く鳴り響くこの音はきっと、なけなしの俺の理性だったのだ。もうひとりの俺が叫んでいる、こんなことは辞めろと。 (だけど無理だ)  理性を押し込めるのは、あまりに容易すぎる。本能に従うというのは、とても動物的で楽だ。迷いがなくて良い。獅子雄の首筋に頬を擦り付け、利かなくなった鼻でそれでもその匂いを感じ取ろうと努めた。大好きな匂い。大好き大好き大好き。この想いだけを抱えて、生きていけたらよかったのに。  獅子雄の背に回していた腕を解き、顔を上げる。肉食獣のような鋭い瞳が、俺を射抜いた。お互い目を逸らさずにいる。俺はゆっくりと右手を自身の腰にかけた。 (俺にはもう、これに縋るしか方法がない)  きっと夕方は寒くなるからと、時永が持たせてくれたカーディガン。それに隠れるように、腰に巻かれたベルトからナイフを引き抜き、獅子雄の太腿に思い切り突き立てた。獅子雄の奥歯が、がちんと鳴る。使い方次第では獅子雄さんだって殺せる。そう言った蛇岐の言葉が蘇った。 「俺を捨てたら殺すって言ったよな」  獅子雄の耳元で、静かに囁く。 「裏切ったら殺すって、俺、言ったよな」  太腿を刺されているにも関わらず、表情をひとつも歪めず動揺を額の脂汗だけに留めるところは、さすがプロの殺し屋といったところなのだろうか。少しも抵抗する様子のない獅子雄から身体を離し、その整った顔を見つめる。この綺麗な顔も髪も肌も声も、獅子雄のすべてが、ひとつ残らず俺のものになると思っていたのに。乱れていた髪を手で梳いてやり、唇にキスをした。 「………椿」  脚を負傷しているのに、獅子雄は平然と俺の背にまわされていた腕の力を強めた。このまま俺を抱き殺す気だろうか。それは少し、嬉しい。自然と唇は弧を描いた。獅子雄は俺を抱きしめたまま動かず、その温かさにまどろみ俺もしばらく目を閉じた。状況に似合わず、俺の心はこれ以上ないほど穏やかだった。ちらと視線を下ろせば、獅子雄の足からは止め処なく血が流れていた。ふと気がついたときには外の銃声は減っていて、最後に一発だけ乾いた破裂音が響くとそれを合図にしたように辺りには静寂が訪れた。そしてすぐさま亜鷺と時永が倉庫に駆け込み、状況を確認すると驚きに目を瞠っていた。 「坊っちゃん!」  坊っちゃんだなんて呼ぶなよ、全員グルのくせに。どうせ皆で、俺を殺しに来たんだろう。 「近付くなよ」  駆け寄ろうとする時永を制する。 「近付くな、邪魔するなよ」  獅子雄の息は荒く、少しずつ身体の緊張も解け、見るからに弱っていた。ここにくるまでにも怪我をしたのだろうか、上質なスーツにはたくさんの血が染み付いていた。獅子雄の顔を両手で包み、顔中にキスをした。この愛おしい存在を早く独り占めにしたかった。俺を裏切るなんて、許さない。獅子雄、俺から離れるなんて、許さない。 「こんなに幸せにしておいて、それが嘘だなんて、獅子雄、許されるはずないだろう」  プールに連れて行ってくれなかった母も、初めから俺を裏切っていた獅子雄も、みんな嘘つきだ。  太ももに突き立てたナイフを引き抜き、それを獅子雄の腹にありったけの力を込めて突き刺した。痩せ細った母より幾らも硬くて、ナイフを握る俺の手も痺れた。聞こえたのは小さな呻き声だけで、それが俺を途方もなく恍惚とさせた。 「やめなさい!」  時永が、俺に銃口を向けている。ふざけるなよ、獅子雄以外に殺されるなんてまっぴらだ。両手を伝う獅子雄の血が温かい。思わず笑みが漏れた。この血も全部、俺のものになる。どうして早くこうしなかったのだろう。早く獅子雄を殺していれば、裏切りに気付かぬ内に獅子雄のすべてを手に入れることができただろうに。何を俺は常人ぶって、無理に「普通」になりたがっていたのか。普通になんてなれやしない、戻れやしない。俺が母を殺したという事実は、今も昔も変わらずそこにあり続けるというのに。俺も蛇岐と同じ、花一輪をさえ程よく愛することができないくせに。  口から血を噴きこぼした獅子雄が、震える指先で俺の頬をなぞり、俺はそれに擦り寄るように首を傾けた。俺の唇に、獅子雄のそれが重なって喜びに胸が跳ねる。そして涙が零れた。最後までこんな恋人じみたことをしてくれることが嬉しかったのか、それとも最後まで嘘を吐き続けられたことが悲しかったのか。 「獅子雄………」 「どうした、椿………」  漆黒に揺れる双眸が、俺を見ている。俺だけを見ている。 「こんなことになるなら、あのとき獅子雄に首を噛み千切ってほしかった」  そうすれば幸せなまま死ねたのに。  獅子雄の腹からナイフを引き抜く。どぷりと血が溢れた。自らの首筋に貼られた絆創膏を剥がす。力なく凭れる獅子雄の背にナイフを握ったままの腕をまわし、俺の肩口に顔を埋めさせた。血で濡れて、震えた獅子雄の唇が傷口に触れる。不思議とそこだけ神経が過敏で、じわりと痛みが広がった。何も言わずとも、獅子雄は口を開けてそこに噛み付いた。びりびりと身体に電流が駆け抜け、俺はまだ生きているのだと実感させられた。俺はまだ生きていて、獅子雄に殺されようとしている。嬉しくて嬉しくて涙が零れた。愛する人に命を断たれることがこんなにも満たされることだったなんて。死んだ母を思い出す。俺に殺された母を思い出す。もしかしたら彼女もそうだったのかも知れない。獅子雄の背にまわしていた腕を振り上げ、もう一度ナイフを深く突き立てすぐに引き抜く。抵抗はおろか、今度は呻き声をあげることもなく、しかし俺の首に噛り付く力を緩めることもなかった。ぱん、と渇いた銃声と共に、弾丸が俺の腕を掠った。神経がイかれてしまったのだろうか、獅子雄に触れられているところ以外、痛みもなければ動揺すらしなかった。 「今度は確実に当てます、獅子雄様から離れなさい」  少し離れたところで、時永が銃を構えている。隣に立つ亜鷺は武器も持たず、こちらを見つめたままぴくりとも動かない。銃口をこちらに向けている時永が、膝を曲げて重心を落とした。俺を殺すつもりかよ。ふつふつと、マグマのようなものが身体を駆け巡る。今までにないほどの、怒りだ。 「邪魔すんなよ……」  もう僅かの力も残らない獅子雄の身体を抱いたまま、瞬きもなく時永を見据える。 「邪魔すんなっつってんだよ!」  怒号を響き渡らせると、意識の朦朧としている獅子雄を片手で支えながら、力なく垂れたその手にナイフを握らせた。もう時間がない。 「獅子雄、起きて……」  肩をゆすると、ナイフを触れさせた手がぴくりと揺れ、震えていた獅子雄の手がナイフの柄を力強くしっかりと握った。獅子雄は肩口に埋めていた顔をなんとかあげると、血まみれの顔で俺を見て美しく微笑んだ。慈しむ目で、愛おしそうに。俺の勘違いでも構わない、獅子雄は俺だけを見ている。緩やかな弧を描くその唇に、もう一度キスをする。きっとこれが最後だ。 「獅子雄………大好き」  ナイフを握る獅子雄の手に自らの両手を重ね、その切っ先を腹にあてがう。このまま重心を下げれば、このナイフが俺の身体を貫いてくれるだろう。 「俺を殺してくれるよね?」  母の最期が頭に浮かぶ。全部忘れていいからね、そんなことは言わなかった。幸福な記憶は、全部あの世まで持っていく。重ねていた手を離し、今までに何度も俺を抱き締めてくれた大きな身体を、今度は俺が強く抱きしめた。耳元で、細くて乱れた呼吸の音がする。体重をかけても、ナイフの位置はそこから逸れることはなかった。ちくりとした痛みのすぐ後に、冷たく鋭い痛みが襲い、口からは熱い血液が吹き出た。獅子雄の身体を抱えたまま、ふたりで地面に倒れこむ。長く続いた悪夢も、ふたりの壊れやすい幸福も、すべて終わりだ。どちらも壊れてなくなってしまえばいい。  もう、二度と目覚めませんように。どうかふたりとも、生きていませんように。

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