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第46話
そんな日々にも、終わりは前触れなくやってきた。
新学期が始まっても俺は学校へ行かず(行けなかった。新学期の準備などひとつもしてはいないし、何よりこんな状態の母を子供ながらに放ってはおけなかった)泣き暮らす母の横でひっそりと小さく佇んでいた。ろくに眠りもせず母とふたり台所で朝を迎えて、いつ買ったものかも分からない食パンを貪った。食べながら、ぬるい睡魔がやってきて痩せ細った母の肩に凭れる。すると母が、こないだねえ、と呟いた。久しぶりの泣き声以外の母の声に、俺は眠い目をこじ開けて噛り付いた。話をしてくれるのが嬉しくて、俺は母の肩を揺すって続きを催促した。
「この間ねえ…電話があったのよ………」
母の目は虚ろで唇も乾ききって、言葉を紡ぐたびぱりぱりと割れて血が滲んでいた。それでも俺は、母の話に嬉々として耳を傾けた。
「知らない女の人でねえ………パパの恋人なんですって………」
話の意味など知りもしない。そもそも連日のストレスと疲労で、話の内容などまともに聞いていなかったかも知れない。母の話にうんうんと頷きながら、またピクニックに行きたいな、などと考えていた。
「パパ、椿ちゃんの他にも、子供がいるんだって」
それもふたりも、と母は笑った。それが嘲笑だったなんて、当時の俺には分かりやしない。母が笑った、その事実だけがあった。母の笑顔に、それまでの俺がどれだけ救われただろうか。母をもっと喜ばせたくて「そうなんだ、嬉しいね」などと見当違いの返事をした俺に、母は何を思ったのだろうか、今は聞くこともできない。母は俺の顔を一瞥して、それから静かに、さめざめと泣き出した。口元は笑いながら、それでも涙はたくさんたくさん零れていた。ごめんなさい、俺は咄嗟にそう叫ぶ。さっきまでは笑っていたのに、泣いてしまったのは俺の所為だ、そう思った。
「私にはあの人だけなのに」
はっきりとした輪郭を持った言葉、直後母は大きな声で泣き叫び、俺はその肩にしがみ付きながら無意味な謝罪を繰り返した。ママ、何でもするから泣かないで、そんなことを、口走ってしまったのかも知れない。
隣で動く気配がして、意識は覚醒する。いつの間にか寝てしまったみたいだ。母を見やれば、うろんな目をして「椿ちゃん」と俺の名を呼び、そして優しく抱きしめてくれた。久しぶりの温もりに、うっとりと目を閉じてそれを味わった。
「椿ちゃん、ママのこと好き?」
「うん、大好き」
間髪いれずに即答する。ママもよ、と母は耳元で囁いた。
「ねえ椿ちゃんにお願いがあるの」
まるで年端もいかない少女のようにきらきらとした、今までに聞いたことのない声だった。付き合いたての恋人に些細なプレゼントを強請るときのような、次のデートの行先を相談し合うときのような、嬉々とした声だった。
「いいよ、何でもしてあげる」
安請け合い。この言葉がぴったりだ。だけど俺にはそうするしかなかった。そうしなければこの悪夢は永遠に続いてしまうのだ。母は立ち上がり、台所の棚を探った。そして取り出しされたのは、まめな性格だった母が日頃からきちんと手入れてをし、鋭利に砥がれた出刃包丁。持ち手に布巾を幾重にも巻いて、あろうことかそれを俺に握らせた。普段から、危ないから刃物を持ってはいけないと口酸っぱく言われてきた俺にとって、それを持つのは恐怖以外の何ものでもなかった。震える俺の手に、殆ど骨と皮だけになってしまった頼りない両手が重なる。
「椿ちゃん、ママ、もうずっと痛くて苦しいの。痛くて苦しくて、耐えられない。椿ちゃんは、ママを楽にしてくれるよね」
食い縛った歯の隙間から、ひいひいと息が漏れた。これから訪れるであろう恐怖と悲哀に既に俺の小さな胸は打ち砕かれ、全身はがたがたと震え失禁までした。それでも母は許してくれなかった。俺の返事を待たないまま、どこにそんな余力があったのか、両手を痛いほどに握られて次の瞬間には包丁の刃は母の身体に沈んでいた。めり込む、そんな感触が神経を伝い、くの字に曲げられた母の身体が俺に向かって倒れてくる。耳元では、うう、とも、ぐぐ、ともつかない呻き声。母の体重がのった刃が、握られたままだった俺の両手の人差し指を傷つけた。
「……椿ちゃん」
それでも母の声は、俺の脳に直接響いた。
「ありがとうね……全部、忘れていいからね………」
全部、忘れていいからね。そう繰り返して、母の身体は床へ崩れ落ちた。包丁は体内に残されたまま俺の両手をすり抜けた。はあはあと荒い息遣いが室内に響く。母の顔を見ることはできなかった。抉られた指の痛みも忘れていた。母が死んでしまった、俺が殺してしまった。それが頭を駆け巡り、最後の母の身勝手な言葉に憤慨すらした。気を失う寸前に見たのは、ついにめくられることのなかったカレンダー。プールに行く日に花丸がついてある。畜生、結局行けなかったじゃないか、嘘つきめ。床に丸くなり動かなくなった母に、心の中でそうなじった。俺が次に目覚めるのは、この三日後、病院のベッドの上だった。
男たちにつれられた先は、老朽化で使われなくなった倉庫という、馬鹿みたいにお約束の場所だった。乱暴に縛られた腕を取られ、足をつかえさせながら降車する。倉庫の周りには数十人の男が待機していて、皆一様に物騒な凶器を構えている。よくもここまで人を集めたものだ。両手を後ろに縛られ真っすぐに歩けない俺の脇を、汚い男がふたりがかりで抱えて歩き出す。倉庫を囲んでいる男たちが俺に手を出す様子はなく、小さく安堵の息を漏らした。ここで襲われたらひとたまりもない。
ここに来るまでの車中、昔のことを思い出していた。もう十年近く前だ。忘れたことなんてなかったのに、四月の事故で海馬がおかしくなってしまったのだろうか。この記憶を故意に塞ぎこんでいた気がする。あの日母が死んで、しばらくすると父は再婚した。母が死ぬ原因となってしまった女と。そして世間体のためか俺を引き取ったけれど、限界が来たのだろう。きっといつ俺に殺されてしまうか恐怖だったに違いない。父は俺を暴力で抑え付けたし、母となった人は無視を決め込んだ。ふざけるな、どう考えたって俺が一番の被害者だろうがよ。
「ここで俺、殺されるの」
よく分かってんじゃねえか、と男は言った。埃とカビにまみれた倉庫。最後くらい綺麗な場所で綺麗な死に方されてくれてもいいだろう。
脇を支えていたふたりの男が俺を地面に叩きつける。両手が縛られて受身もとれず顔面を強打した。血の匂いがする。鼻血だ。男は俺の腹を一発蹴り上げると、兄から奪ったのか俺の携帯電話を持って何やら操作していた。
「本当に備前の連絡先が入ってる。これを売れば、かなり高いぞ」
そういうことか、と腑に落ちる。
(電源入れたのか、馬鹿じゃねえの)
せっかく俺が切っておいてやったのに、電源が入れば居場所なんか一目瞭然。きっと獅子雄はすぐに気付いてこちらにやって来る。あの連中は獲物を取り逃したりしない、必ず俺を殺しにやってくる。それが妙におかしくて、ふんと鼻を鳴らして笑った俺に、男はもう一発蹴りを食らわせた。同じ個所に二発は結構効いた。鳩尾に男の爪先が食い込み、たまらず呻く。
「おまえは後でたっぷり可愛がってから殺してやるから待ってろ。泣いて命乞いすりゃあ、少しは優しくしてやろうと思ったのによ」
男は頭上から唾を吐きかける。こんな屈辱は生まれて初めてだ、今すぐにも殺してやりたい。倒れこんだまま男を見上げ、睨み付ける。見た目も中身も汚い奴ら、汚い欲にまみれた、汚い大人。
「ふざけんなっつうんだよ、おまえらに命乞いするくらいなら犬の糞食ったほうがましだ」
強がりなんかじゃなかった、心からの本音だ。何の愛着もない見ず知らずの人間になんか殺されるつもりはない。俺にはまだやることがある。死ぬという結末は変わらないのなら、どうせなら獅子雄に殺されたい。いや、獅子雄は俺を殺す義務がある。初めて会った人間に殺されて堪るものか。
俺の態度に憤慨したらしい男は、持っていた携帯を俺の頭に向かって投げつけた。激しい痛みが走り、目を瞑り歯を喰いしばった。床に転がった携帯電話は、液晶が明るく光っていた。
「おまえ、相当手酷くやられたいらしいな。今すぐぶっ殺してやるよ」
男は俺の髪を鷲づかみ、無理やりに上を向かせる。獅子雄に噛まれた首が痛んだ。もう片方の手には小さな刃物が握られ、それを鼻先にあてられた。男は興奮したように笑う。
(全然恐くない)
蛇岐から貰ったナイフの方がずっと鋭利で頑丈だ。俺の貰ったナイフがおもちゃなら、今鼻先に突き付けられているものはただのガラクタだ。
「そんなナイフじゃ林檎も切れない」
呟き、しゃがみ込んで俺と目線を合わせる男に唾を吐きかけた。さっきのお返しだ、有難く受け取ればいい。男の額に青筋が浮かんだけれど、構うものか。
「おまえらになんか絶対に殺されてやんねえよ」
激昂した男がナイフを振り上げたとき、倉庫の外から突如として激しい銃声が響き、次の瞬間にはけたたましい轟音と共に扉が破られた。こんなことを予想していなかったのか、驚いたらしい男はわし掴みにしていた俺の頭を慌てて落とし、その拍子に頬骨を強く打ちつけた。ここへ来てから無駄な怪我ばかりしてる気がする。男たちの視線の先に目を寄越すと、破れた扉と一緒になってひとりの男が転がり込んできた。血みどろで顔が判然としないが、あの立派な体躯と眩しい金髪には見覚えがあり思わず口元が緩んだ。
「どうせ殺されるなら、俺は獅子雄に殺される」
そう告げたけれど、男たちは口をぱくぱくさせたまま呆けていて、俺の声が耳に届いたとは思えなかった。
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