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第45話

 ○  我妻椿  人通りの盛んな大通り。慌ただしく行きかう人波の中、頭は真っ白に染められ、魂の抜けたように呆然としている。 「四月に事故があったろう。あれ、偶然じゃなくて仕組まれたんだ。誰が仕組んだか分かる? 教えてあげるよ、俺の母親だ。おまえを撥ねた男、相当カネに困ってたみたいで、たった百万でおまえを殺すことを承諾してくれた。だけどぎりぎりで怖気づいたんだろうね、馬鹿みたいにブレーキなんて踏んじゃって、おまえは一命を取り留めた。でもね、おまえが生きてるって知って、うちの母親は半狂乱になっちゃってさ、おまえの存在がそれほど嫌だったみたいで。だからプロの殺し屋を雇ったんだ、誰だか分かるだろ」  溢れた涙が、瞬きと共にはらはらと流れて行った。どうして俺は馬鹿みたいに、この男の話を黙って聞いているんだろう。さっさとこの場から逃げださなければ、そうじゃなきゃ蛇岐が死んでしまうかも知れない。早く獅子雄に助けを求めなければ。そう思うのに足は動かなくて、俯いて拳を握りながら涙を垂れ流すことしかできない。早く獅子雄に助けを求めなければ。だけど獅子雄は。 「業界一の腕利き、備前に頼んだんだ、おまえの殺しの依頼をね」  大切な何かが、音を立てて粉々になっていく。昨日までの日々が、嘘みたいに遠く感じた。獅子雄の顔が頭いっぱいに埋め尽くす。 「獅子雄は、そんなことしない……」  わずかに残ったプライド。そして本当に愛されていたことを、まるで自分に言い聞かせるように小さくそう呟いた。無愛想な表情も、ときおり見せる微笑みと望めば与えられた優しさも、すべて獅子雄の愛情だと思っていた。そう信じたかった。でもそれは、俺のみっともない、愚かな勘違い。  兄は小さな俺の声を目ざとく見つけて、その身を屈めてまで俯く俺の顔を覗き込んで更に笑いものにした。その笑い声を聞きながら、奥歯を噛み締め涙をとめようと努力した。きっと獅子雄がすぐに来てくれる。俺がどこにいたって来てくれる。初めて会ったときだってそうだった。あんなに小さく隠れていたのに、獅子雄は見つけ出しくれた。だから今回だって、必ず俺を見つけ出してくれる。そう信じたいのに。  兄は一頻り笑うと、俺の髪を掴んで無理やり顔を上げさせた。皮膚を引っ張られる痛みに顔を歪める。拓けた視界に、兄の冷たい色をした瞳があった。 「備前に拾われたのが偶然だとでも思ってるの?」  兄さんの言葉は明確な悪意を持って俺の心を深く抉った。獅子雄と出会ってからの一ヶ月。まやかしの、偽りの甘い幸福。それら全ては仕組まれた罠。家族だと思っていた人たちと、愛されていると信じていた獅子雄に、仕組まれた罠。今でもこんなに獅子雄を求めているのに、次に会う獅子雄は、俺を殺しにしか来ない。もうやめてくれ、そう叫ぶことすらままならない。それでも目の前の男がべちゃくちゃと、頼んでもいないのに喋り続ける。 「もっとおかしい話をしてあげる。備前に依頼したのはね、俺の父親。俺と、おまえの、父親なんだよ。実の父親にまで死ぬことを願われるなんて可哀想、これなら生まれてこなきゃよかったのにね」  最後に会った父の顔が頭に浮かぶ。病室で罵倒された日だ。どんな目をしていた? どんな風に口を歪めて、あの汚い言葉を吐いたのだろう。おかしいな、思い出せない。父との一番古い記憶を取り出す。鮮明に思い出されたのは、父の怒号と、ヒステリックな女の泣き声。この泣き声は誰のものだ。 (ああ、そうか………)  不思議と、涙はぴたりと止まった。あんなに激しく荒んでいた感情が、前触れもなしに、驚くほど唐突に凪いだ。それはもしかすると、諦めや呆れとも似た感情かも知れない。そうだ、俺はもう、考えることを諦めたのだ。どうしてどうしてどうして。どれだけ考えても、俺は俺自身が望む答えを見出すことなんか出来ない。目の前にいるこの男は真実を知っていて、それをその口が語っている。真実はとても簡単であまりにも単純。獅子雄は俺の父親に依頼されて俺を殺しに来た。ただ、それだけだ。  捕まれていた髪が開放されても、俺は顔を俯けることはなかった。腹違いの兄を真正面から見据える。自分と似ているところなどひとつもない、まるで赤の他人だ。こんな男の何を、俺は一体何をそんなに恐れていたのだろうか。俺と目を合わせると、兄(だと思っていた他人)の顔は瞬時に強張り、頬がぴくりと震えたのが分かった。そしていつの間にか後ろに控えていたふたりの男に指示を出すと、俺は臭くて汚い男ふたりに両脇を抱えられ傍に止められた車に乗せられた。 「備前の仕事が遅いから、別の殺し屋を雇ったんだ。その男たちに弄ばれて、今度こそきっちり死んでね」  殺し屋。ふっと笑みが漏れた。この男たちが殺し屋。笑わせるなよ、ど素人のくせに。プロの殺し屋は襟元正しく清潔感のある身なりで、美しく鍛え上げられた身体をしているのに、この男たちはどこからどう見たってカネに目の眩んだ、ただの浮浪者じゃないか。こんな奴らが殺し屋だなんて、獅子雄たちに失礼だ。  後部座席の扉が閉められる直前、立ち去ろうとする兄を呼び止めた。 「……優しい兄さんにもうひとつだけ教えて欲しいんだ」  冷徹な視線が俺を捕らえる。 「どうして俺は、殺されなきゃならないんだろう」  訊ねると兄さんは嘲笑し、俺に顔を近づけて吐き捨てた。 「おまえが人殺しだからだよ」  そう、と俺は返事をする。車はゆっくりと発進した。  ○  備前獅子雄  現場についてみると辺りは血の海だった。おびただしい数の肉塊に囲まれた中心に、全身真っ赤に染め上げられて立ち尽くす男がひとり。 「蛇岐」  呼べばその男はすぐに振り返った。 「まじ、おっそい。俺がこの短時間で一体どれだけ働いたと思ってんの。人数ばっか多すぎて疲れる」  悪態をつきながら、死体をいくつも飛び越えてこちらへ近付く。 「とりあえずこれ急ぎで掃除屋呼んだほうが良いですよ。匂いもやばいでしょ」  蛇岐は着ていた服で頬の返り血を拭うが、どこもかしこも血まみれで少しもよくなった形跡はない。しかしそれよりも急がなくてはならないことがある。 「椿はどうした」  は、と蛇岐は目を丸くする。 「大通りで拾ったんじゃないんですか」 「なに?」 「椿ちゃんから連絡なかった?」 「携帯の電源は切られたままだ」 「来る途中にすれ違わなかった?」 「いや、すれ違ったなら必ず気付く」 「嘘でしょ、最悪、GPSはひとつだけ? 馬鹿じゃん、自分の犬には首輪くらいつけとけっつうの。マジありえねえんだけど、これすげえピンチよ。分かる?」  饒舌になる蛇岐から焦りが伝わる。嫌な予感はいつも的中する。ここへ向かう途中、椿は見かけなかった、そしてここにもいない、連絡もない。考えられる可能性はひとつ。 「拉致された………?」  そう呟いた亜鷺の声はよく響く。そんなことしか考えられなかった。  ○  我妻椿  少しだけ裕福な、けれど平凡で幸せな家庭に生まれ育った。少なくとも俺はそう思っていた。  父親は仕事に真面目、専業主婦の母はお菓子作りが得意で、特別な日でなくとも望めばたくさんのケーキやクッキーを作ってくれた。父の仕事が忙しくない限り、なるべく食卓は家族みんなで囲んだし、週末は旅行やドライブに出かけた。学校の行事にも母は必ず出席してくれた。本当に満ち足りた、それでいて有り触れた家庭だった。  それが壊れたのはいつだったろうか。始まりは一本の電話だった。そうだあれは、俺が小学校に上がった年の夏。空調の効いた居間で、夏休みの宿題に取り組んでいた。宿題を済ませれば、母と一緒にプールに行って、その帰りにアイスを買うと約束してくれたからだ。宿題も終わりに近付いて、何のアイスを買ってもらおうかと考えていたときだった。母の立つキッチンに置いてある電話が鳴った。音には少し驚いたけれど、電話なんて珍しいことでもない。受話器を取る母を確認して、俺はすぐに宿題に意識を戻した。よそ行きだった母の声が、次の瞬間には暗く響いた。不自然さを覚え、視線を上げて母を見やる。表情こそ読み取れなかったけれど、それから暫く続いた電話に、母はついに一度も返事をしなかった。静かに受話器を置いて、無言で家事に戻る母。それから黙々と宿題を終わらせて、それを手に嬉々として母へ見せに行くと、今日はもうプールへは行けないの、と言われた。どうして、約束したのに、と地団駄を踏んでごねて見せても、母は決して取り合ってくれなかった。  ぎゃあぎゃあ喚き散らして、泣き疲れて眠ってしまったその日の夜、自室のすぐ隣にある両親の寝室からヒステリックに泣き散らす母の声と、今までに一度だって聞いたことのない父の怒号が耳に迫った。痛々しくて悲しくて聞いていられなくて、俺は布団に潜り込んで耳を塞いだ。それでも指の隙間から母の泣き声が聞こえてくるから、俺は耳を塞いだまま、あーあーだとかうーうーだとか意味不明な自分の声で、両親の声を必死に遮った。  それからの家族の崩壊は目に見えて明らかだった。毎日身綺麗にしていた母は、化粧はおろか髪を梳かすこともしなくなり、次第に家は荒れ食事も疎かになって父の帰宅は極端に減った。一日に何度か、母は思い出したように泣き崩れ、どうしたのかと訊ねれば、パパが帰ってこないの、としか言わなかった。幼い俺は成す術もなく母に寄り添い、その泣き声につられて涙を流すほかなかった。

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