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第44話

 校門を抜け、蛇岐のアパートへ向かう。つい先日も通ったばかりの道だけれど、道程はあまり記憶に残っていなかった。横並びになることはなく、俺は今日も蛇岐の背中を追っている。広くて大きな背中だ。制服ごしでもその逞しい筋肉がわかる。それを見つめながら、前回同様細い路地へ曲がったと同時に、その硬い背中にぶつかった。 「蛇岐………」  どうかしたのか、と前方を確認しようとすれば、蛇岐の腕が後ろ手に伸びてきて俺を隠すように強く腕をひかれた。 「まずった」  蛇岐のそんな呟きが聞こえる。首を伸ばして前を見やる。蛇岐の肩越しに、数人、いや十数人の男が見え、声にならない悲鳴が喉を掠めた。皆一様に、正気を失った目をしている。それが何かなんてすぐに予想はついた。恐らく非合法の薬だ。経験したことのない恐怖に、思わず蛇岐の背中にしがみ付く。蛇岐は前を見据えたまま上体を屈め、全身の筋肉を激しく強張らせた。 「椿」  本当に蛇岐の声だろうか。そう疑ってしまうほどに緊張と殺気に満ちている。 「十分、いや五分どうにか逃げろ。この路地を戻って大通りに出て獅子雄さんに連絡するんだ、いいな」 「でも蛇岐は………!」 「俺が何の為に雇われたと思ってんの。五分で片付けてすぐに追うから。俺か獅子雄さん、どちらかと合流できるまで逃げ続けろ」  しがみ付いたままの身体を片手で無理やり剥がされ、行け、と強く押される。よろめきながら何とか体勢を立て直し、震える足を叱咤して走った。背後から、正気を失った男たちの声が大波のように襲い来る。路地を曲がる寸前、一度だけ振り返ると蛇岐は両手に大きなナイフを光らせて、足元には既にいくつかの肉塊が動かずに横たわっていた。叫びそうになる口元を押さえ、大通りに出る。 「電話…獅子雄に………っ」  震える手をポケットに突っ込み携帯電話を取り出す。先ほど電源をおとしてしまったことを酷く悔やんだ。激しく震える指はボタンを押すことさえままならず、ついに携帯は手を滑り落ち地面に転がった。見失わぬよう必死に目で追い、それを拾おうと手を伸ばしたその時、ひとりの男が拾い上げ、無言で俺に差し出した。それを受け取ろうと視線を上げた瞬間、全身の血が引き息が止まった。 「……な、なんで………」  早く獅子雄に連絡をしなければ。そう思うのに、動けない。どうして、この男が、ここに。 「ほら、早く受け取れよ、椿」  意地悪く笑う顔、少しも変わっていない。俺を馬鹿にして、汚らしいごみを見るように冷たい視線を浴びせるところも。 「兄さん………」  ああ、誰か、誰か俺を救ってくれ。悲痛の叫びは俺の中だけに虚しく響いた。目の前に立ち塞がるのは、歳の三つ離れた腹違いの兄だった。俺は兄が父親以上に怖かった。暗くて重くて陰湿で、俺を精神的に苦しめた。おまえさえいなければ幸せな家庭だったのに、いらない子、早く死ね、毎日毎日数え切れないほど吐き捨てられた。それは次第に俺の心を蝕んで、腐らせていった。言葉を告げないどころかまともに息もできずに立ち竦む。 「おまえ、まだ生きていたんだね」  嘲笑い、あの頃と同じように言い捨てる。 「あの事故で死ぬかと思ったのに、ゴキブリ以上にしぶといね。でも備前に捕まったって聞いて期待したのになあ、備前ならさっさと殺してくれると思ってたけど、残念。ああ、もしかして、おまえ内臓とか売られるんじゃない? 若くて健康だからきっと高く売れるよ」  兄の言葉に耳を疑う。 「どういう意味………」  思わず口から零れ落ちた。誰が、誰を殺すって?  耳慣れない単語たちが五月蝿い音を立てながら脳内をかき乱す。この人は一体何を言っているのだろうか。頭は混乱し、意味を理解せぬまま言葉を追うのに必死だった。兄はさも愉快そうに喉を鳴らして笑う。 「それとも、その若い身体で一儲けしようとしてるんじゃないの? 汚いじじいに毎晩買われるのかも」 「獅子雄はそんなことしない!」  堪らず声を張り上げた。考えるより先に口が勝手に動いてしまった。兄は口を歪める。 「そ、そんなことしない………」  その表情に気圧されてしまいそうだけれど、ここで負ける訳にはいかなかった。獅子雄が、あんなに俺を大切に触れてくれた獅子雄が、蛇岐に少しちょっかいを出されただけであんなにも嫉妬に狂い取り乱した獅子雄が、俺を誰かに売るなんて有り得ない。そんなこと、あっていいはずないじゃないか。兄さんに口答えするのは初めてだった。しかしそれくらい、獅子雄を侮辱するのが許せなかった。獅子雄のことを何も知らないくせに。  兄は興味が薄れたように「ふうん」と呟き、抑揚のない声色で言葉を続けた。 「本当に? そう言い切れる? じゃあおまえは備前の人間に指一本触れられてないって言える? 誓える?」  それは、縮み上がってしまった心臓に重く圧し掛かった。  獅子雄とは何度も抱き合ってキスをした。だけどだってそれは獅子雄のことが好きだから。どうしようもなく好きで、そうしている間は幸せで、きっと獅子雄もそうだって信じたかった。でもそれも嘘だと言うのだろうか。俺の思い上がりなんだろうか。どうして俺は言い返すことができないんだろう。ただの一度も、獅子雄に好きだって言われていないから?  目の前が涙で霞む。兄さんの前では決して泣くもんか。拳を握り歯を食い縛った。 「ほらね、言い返せないってそういうことだろう? おまえは備前のこと、何にも知らないんだから。だからいつまでも馬鹿で出来損ないなんだよ。……いいよ、優しいお兄さんが全部教えてやろうか」  兄さんの顔が、まるでピエロのように醜く歪んだ。  ○  久留須蛇岐  椿の足音は急速に遠くなる。それを聞きながら、制服の下に隠し持っていたナイフを引き抜いた。  素人が一塊になって襲ってきたところで、なんてことはない。すぐに片付く。この男たちと違って、俺はこの道のプロだから。それよりも今は椿が心配だった。きっとこいつらは俺を足止めする使い捨ての駒に過ぎない。切っても切っても、ゾンビのように湧いて出る。きっと薬を打たれたのだろう。痛みも麻痺して、まるで生きる屍だ。  五分、長くとも十分。早く片付けて椿を追わなければ。その前にどうか、獅子雄さん気付いてくれ。 「だから俺は忠告したっつうのに」  奇声を上げて襲い掛かってきた男の首を切る。歯も抜け落ちて皮膚も黒ずんだ四十半ばほどの男だ。右からは裸足の若い男、左には口から泡を噴いている男、あっちは両手の小指がない男。それを順番に殺していく。ナイフは寸分の狂いもなく俺の思い描いた通りに命中する。ひとつ、またひとつと死体を作っていく。それは至極、単純でいて崇高な作業だ。  ああ、本当にとち狂った世界。こんな狂った世界に生きているのに、獅子雄さんはそれを忘れてしまったのだろうか。きっと俺の言ったとおりになる。歌劇の椿姫だ。こじれて捩れて歪んでいって。 (死ぬのはどっちだ) 獅子雄さんか、椿。 (………椿姫か)  切っても切っても湧いて出る。どんだけ殺しゃいいんだ。 「ああもう、ちくしょう」  本当に、獅子雄さんの頼みで報酬がいいからってこんな依頼受けるんじゃなかった。こんなに苦労してるのに椿が死んだらミッション失敗。報酬ゼロどころか信用失って今度から依頼が来なくなる。死活問題だ。 「だから死ぬなよ、逃げろ椿」  俺が渡したナイフ、あいつはどうしているんだろう。  ○  備前獅子雄 「電話は繋がりましたか」  時永の声は、珍しく急いている。 「いや、椿は駄目だ。蛇岐も繋がらない。だがおかしい、見てみろ」  パソコンに映し出された地図を時永に向ける。 「蛇岐の位置が移動しない。もう自宅の前なのに」  もう百メートルほど歩けば蛇岐の自宅だ。きっと、いや確実に椿は蛇岐と行動を共にしているはず。そもそも蛇岐が椿から目を離すことは絶対にない。余程のことがない限り。悪い予感がする。 「椿くん、何かあったの」  気配もなく近付いたそれに振り返れば、やはりそいつは亜鷺で、いつの間に部屋に入ったのか当たり前のようにパソコンを覗く。そして状況を把握したのか、ぴくりと眉を顰めた 「獅子雄くん…ごめん………」 「………この状況で謝るのは、どういう意味だ」 「昨日、椿くんが僕の部屋に来たんだ」 「なんだと?」 「いや、初めは偶然会ったんだけど……少し興味が湧いちゃって、余計なこと言っちゃったかも知れない」 「何を言った」 「GPSで監視されていることと……僕と獅子雄くんが兄弟だってこと、もしかして隠してた?」  亜鷺は俺の顔色を窺う。しかし反省の色はない。むしろこの状況を楽しんでいる節さえある。盛大なため息が漏れた。蛇岐にしても亜鷺にしても、どうしてはこんなに勝手なことをするのか。椿と亜鷺を会わせたくなかった。蛇岐はともかく亜鷺は俺の指示に簡単に背き、事態を一層ややこしくする。今がまさにそれだ。苛立ちを抑え、ちらと蛇岐の居場所を確認すれば、やはり移動している様子はない。 「それと……」  終わったかと思えば亜鷺は更に続ける。後は何があるというのか。 「本当のことを、教えてあげようと」  意識するより早く身体が動き、気付けば亜鷺の胸倉に掴みかかっていた。 「おまえ、椿に何をした」 「何むきになってるの?何もしてないよ。まだ、ね」  更にきつく襟ぐりを絞めて引き寄せ、頭突きを一発お見舞いする。亜鷺は眉間に皺を寄せて口を歪めただけで反撃はなかった。 「おまえも、蛇岐も、本当に余計なことをする」  亜鷺は悪びれる様子もなく、ふんと鼻を鳴らした。 「久しぶりに兄弟喧嘩でもしちゃう? 結果は目に見えてると思うけど」 「おまえこそ、どうなるか分かっているのか」  お互い微動だにせず睨み合っていると、その間に時永が割って入った。 「下らない兄弟喧嘩なんてしている場合ですか。落ち着きなさい」  あまりにも的を得た正論。舌打ちをし、乱暴に亜鷺を開放する。 「でも今回は本当に余計なことをしたって反省してる。で、どうするの獅子雄くん、今度こそきみの指示に従う」  俺は三たび液晶に目を向ける。蛇岐の場所が移動することなく十分、明らかに不可解だ。 「車を出せ、蛇岐の家へ向かう」  立ち上がり、指示を出す。急がなければならない、悪い予感が現実にならないように。

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