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第43話『再会、過去』

○ 我妻椿 「お身体の具合はいかがですか」  今だベッドの中で寝ぼけ眼な俺を、まるで孫を見るような瞳をして優しく微笑む時永。獅子雄に噛まれた首の傷は一日二日でよくなる程度のものでないらしく、腕に力を込めるとやはり鋭く痛んだ。 「学校はどうなさいますか」 「大丈夫、行ける」  せっかく獅子雄に通わせてもらっているのだから、この程度の怪我で何日も休むわけにはいかない。制服に着替えている間、そういえばと思い出し枕元に放ってあった携帯を開く。蛇岐に昨日の授業のノートを借りなくてはいけない。奴が真面目にノートを取っているかも怪しいところではあるけれど。 「もしもし、蛇岐?」  コール数を重ねることなく、蛇岐はすぐに応答した。獅子雄も蛇岐も、電話にとり憑かれてしまったように反応が早い。 『はいはい、どうしたの』  蛇岐はとっくに起床していたらしく、朝早くにも関わらずいつもどおりのすっきりとした声だった。 「おまえさ、昨日のノートとか取ってる?」 『俺が取ってるとでも思う? 授業に出てないどころか学校にも行ってない、椿姫がいないからね』 「何それ」 『だってそうでしょ、俺は仕事で学校に来てるの。護衛の対象である椿姫がいなきゃ行く意味なんてありません』  護衛。その言葉が不自然に脳に浮かんだ。  俺を守るために雇われたという蛇岐、初めは大袈裟だと抗ったけど、蛇岐の説明がなんともそれらしく感じて渋々納得した。俺が姿を消すと執拗に捜す使用人たち、異常だとなじった。通学の送迎、一日に何度も部屋を訪れるメイド、それら全ては俺を守るため。GPSをつけられた携帯、それは獅子雄に渡されたものだ。獅子雄はいつだって俺を助けてくれる、そう思っていたから麻痺していた。昨日、亜鷺が言いかけた忠告は一体何だったのだろうか。俺は馬鹿みたいに純粋に、獅子雄を信じていた、守られている、そう信じて疑わなかった。 『椿姫?』  電話口の蛇岐の声が、やけに遠くに響く。思い至ったひとつの答えに、背筋が凍った。電話を耳に当てたまま、ゆっくりと振り返る。仕事用のデスクには獅子雄、出入り口には時永、ふたりとも俺を見ている。携帯を持つ手が震え、いやな汗が背筋を伝った。  なぜ俺は気付かなかったのだろう、考えれば考えるほどおかしいことだらけなのに。街から遠く離れた山奥の屋敷、過剰なほど世話をする使用人、片時も離れてくれない蛇岐、恋人じみた触れ合いを繰り返し俺を縛りつける獅子雄。愚かな勘違い、俺は守られているんじゃない。これは、監視だ。  どうしてどうしてどうして。  そればかりが頭に渦巻く。募る不信感に、獅子雄の顔を見ることが出来ない。学校までの無言の車内、獅子雄が何を考えているのかなんて考えることすらできなかった。学校に着けば、当たり前のように蛇岐はそこに立っていて、いつものようにへらへら笑いながらこちらへ近づいてくる。その笑顔は、更に不安を煽った。蛇岐も、俺を騙しているのだろうか。何の為に。  助手席に座ったまま動けない俺に気付いた蛇岐は、身を屈めて無遠慮に俺の顔を覗き込んだ。そして一瞬だけ訝しげな視線をくれると、何も反応しない俺の代わりにドアを開けてシートベルトを外してくれた。 「あらら、派手にやられてる」  蛇岐は俺の首を見てそう言ったのだろうが、俺はひたすらに黙り込んだ。俺の様子がおかしいことなんて、獅子雄もとっくに気付いているだろう。顔を上げて獅子雄を見る。俺はどんな顔をしているだろう。きっとぐしゃぐしゃになっているかも知れない。だってそうだろう、監視なんて、どうしてそんな。そんなことをする必要があるんだよ。  いつもみたいに不安を掻き消して欲しくて、縋るように獅子雄に手を伸ばしたとき、反対の腕を蛇岐に強く掴まれて車から引きずり出された。 「よっ、と」  咄嗟のことで体勢を崩す俺の身体を、蛇岐は両脇に手を差し入れて支えてくれた。そして足で助手席の扉を乱暴に閉めると、俺を背後に隠し開いた窓から車内に上半身を滑り込ませた。 「獅子雄さん、俺は忠告しましたよ」  蛇岐の、いつもとは様子の違う重たい声が聞こえる。  忠告。何のことだろうか。亜鷺も蛇岐も、何の忠告があるのだろうか。もしかしたら亜鷺は、監視されていることを教えてくれようとしていたのかも知れない。監視、その単語に絶望にも似た想いを抱えた。それから獅子雄を振り返ることなく、ゆっくりと校舎に向かって歩き出した。背後では獅子雄の車の音がどんどん小さくなって、やがて聞こえなくなった。どうして何も言ってくれないんだよ。泣いてしまいそう、それを必死に堪えた。 「椿ちゃん」  隣に並ぶ蛇岐が俺を窺う。そして表情を確認すると、蛇岐は何も言わずに珍しく歩調を合わせてくれた。  俺の不安定な精神とは裏腹に授業は滞りなく進んで、時折首が痛み顔を歪めたけれど、監視されているかも知れないという予感と獅子雄たちへの不信感の重さに比べたらあまりにもちっぽけだった。蛇岐は柄にもなく俺を気遣っているのか、一言も話すことなく、何もできないでいる内についに放課後を向かえてしまった。 「椿姫、帰んないの」  終礼も終わり、教室からひとりまたひとりといなくなり、とうとう俺と蛇岐のふたりきりになった。それでも席を立たずにいると、後ろに座る蛇岐に声をかけられ、ああ、と肯定とも否定ともつかない返事しか出来なかった。いつまでも何もせず座っているわけにもいかず、のろのろとした動作で鞄を開けると、どうしても捨てられずにいたナイフがそこに鎮座していた。そこで手が止まり、暫く食い入るようにそれを眺めた。 (俺は、いつまでも臆病)  ポケットで携帯が震えた。重たい右手でそれを取る。 「………もしもし」  確認せずとも分かる。この携帯を鳴らすのはただひとりだ。 『……これから迎えに行く。おまえに話したいことがある』  電話の向こうに張り詰めた空気を感じる。俺に話すこと。監視をしていてごめんなさいとでも謝るつもりなのだろうか。俺に与えた優しさも愛情も、全て嘘でした。そう言って俺を捨てるのだろうか、獅子雄も。 「獅子雄………」  小さな声で呼ぶと、なんだ、と優しい声が返ってきた。 「俺を監視してるの……?」  意図せず口からそう零れると、獅子雄が息を詰めるがわかった。なんだ、まじかよ。俺はなんて馬鹿な奴なんだろう。ふっと笑みが漏れ、なんだかとても可笑しい気持ちになった。そうか、おまえもそうなのか、獅子雄。 「おまえも俺を捨てるんだな」  最後にそう告げ耳から電話を下ろして、そのまま電源も落とした。俺の体調を気遣って、今朝屋敷を出る際に時永が持たせてくれたカーディガンに腕をとおす。どれもこれもすべて、獅子雄が用意してくれたもの。今の俺の全部は、獅子雄が作ってくれたもの。この皮膚も血液も、俺を構成する全ての細胞が獅子雄を欲しているのに。  監視なんかしてないって、言ってくれたらよかったのに。そうしたら俺はこれからも馬鹿みたいに獅子雄を信じていられたのに。嘘をつくなら、俺が死ぬまでつきとおして欲しかった。心にぽっかりと、大きな空洞ができたみたいだ。底の見えない穴。背後で、携帯の震える音がする。俺の空洞を、尚更深く抉った。 「……獅子雄さんだけど、出ないほうがいい?」  いつもは無視できないと言ってすぐに電話に出るくせに、蛇岐のそんな気遣いが今は痛くて苦しい。しかしそれに救われたのも確かだった。出ないでと頼むと、蛇岐は携帯を手に取ることもなく、着信を無視してくれた。 「蛇岐の家、行っていい?」  言葉尻が震える。まさか、泣こうとしているのだろうか。ふざけんなよ、たかだか他人に捨てられたくらいで、泣いて堪るかよ。 「蛇岐に訊きたいことがあって、獅子雄のことで」  確認しなければ、どうして俺は監視をされているのか。俺には、獅子雄の屋敷以外に行けるところなど何処にもない。俺は獅子雄から逃れられない。きっと蛇岐だって獅子雄の味方だろうけど、それでも今は獅子雄本人に会うよりはずっとましだった。  カーディガンの袖で目を拭い、立ち上がって蛇岐を振り返る。机の上に投げられていた蛇岐の携帯が再び震える。液晶には獅子雄の名前。 「……出ないで」 「わかってる。………行こう」  止まったはずの涙が一筋おちる。拭っても拭ってもそれは落ちてきた。蛇岐は慰めることもないまま俺を見つめている。 「ごめん、ちょっと……見ないで、教室の外で待ってて」  いいよ、と蛇岐は俺に背を向けて教室を出た。涙を流しながら、机の中に仕舞っているものを鞄に詰め込む。明日また、ここに来られるとは限らないから。鞄の底に押し込めていたナイフを手前まで取り出す。やっぱりずしりと重かった。暫くして蛇岐のもとに行けば、大きくて硬い豆だらけの指に目尻を拭われた。 「獅子雄さんは男泣かせだよねえ」  間延びした口調で、蛇岐はそんなことを呟いた。

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