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第42話
部屋を後にするエティと入れ替わりで、獅子雄が浴室から姿を現した。小さな切り傷だらけだった俺の足は、出血したところだけ絆創膏を貼られてはいるものの、もとが大した怪我ではないので歩行に困難はなかった。
「おまえは怪我ばかりだな」
ベッドに腰掛けたままの俺の隣に、獅子雄が腰掛ける。その横顔を見れば見るほど亜鷺にそっくりだった。どうして今まで気が付かなかったのだろう、そう思えるほどに。獅子雄は何か、亜鷺の存在を知られたくない理由でもあるのだろうか。どうして嘘までつく必要があるのだろう。
「首は……おまえの所為だけどな」
不安は俺の中でむくむくと急速に成長し、それを掻き消したくて茶化すようにそう言えば、獅子雄は小さく苦笑した。
目元まで伸びた獅子雄の前髪を指先で掻き分け、闇を飼う双眸を見つめる。そうしたらこの不安なんて消え去ると思った。俺の不安と恐怖は、全部獅子雄が追い払って掻き消してくれる。いつもそうだ。そう思えるほどに、この数日で獅子雄の瞳に射抜かれることに幸福を感じるようになっていた。ひと月やそこらで、随分と絆されてしまったものだ。
亜鷺のことを聞きたいのに、聞けない。エティが身を挺してまで守ってくれたからだろうか。亜鷺のことを詮索すれば、エティの行動は無駄になってしまうだろうか。俺は目を閉じて首を伸ばし、獅子雄のその薄い唇に一度だけ口付け、離れようとすれば今度は獅子雄の唇がすぐに迫って来た。
「ん………」
獅子雄の温かく湿った肌が気持ちいい。薄く口を開けばそれを待っていたかのようにすぐに薄い舌が侵入してきた。
「獅子雄………」
キスの最中の声は甘ったるく掠れていて、そうしている間の自分は別人にさえ感じる。これは、獅子雄が生み出してくれた俺の一部。獅子雄しか知らない、俺の一部。その行為に俺はすぐに夢中になった。何も余計なことは考えなくていい。目の前にいる獅子雄ただひとりによってもたらされる愉悦にさえ縋り付いていれば、何も考えずに済んだ。
「獅子雄、キスして………」
呼吸の合間にそう強請れば、獅子雄は優しく微笑んだ。
「もうしてる」
不敵な笑みに魅せられて、束の間息を詰めた。
「………そう、じゃなくて……もっと………」
欲張りだ。もっともっと、獅子雄が欲しい。どこか誰の目にも触れることのない場所に閉じ込めてしまいたい。
獅子雄の大きな手が後頭部にまわり、熱を持った舌が先ほどよりも激しく咥内を弄ぶ。息を継ぐ暇がないほど深くて、脳内には薄い靄が掛り始めた。
「んっ、……ん、はあ………」
送り込まれる唾液を必死に嚥下する。飲み下せなかった唾液が、口の端から零れる。しかしそんなもの少しも気にならない。置いて行かれてしまわないよう、その広い背に腕を回してしがみ付いた。優しく抱き返してくれる獅子雄に、胸が熱くなる。こんなにも愛されているのだと、周囲に触れ回りたい気分だった。もう亜鷺のことなど、気にならない。気にしなくていい。それでいい、それでいいんだ。俺には目の前の獅子雄だけが、すべてだ。
まるで割れ物でも扱うように優しく、静かにベッドへ沈められた。
「何かあったか」
俺の頬を撫でながら伺う獅子雄に、ゆっくりと首を横に振った。
「………何もない」
きみに忠告がしたいんだ。
不意に、亜鷺の言葉が頭を過ぎる。あの後に続く言葉は何だったのか。言いようのない不安が再び押し寄せて、溜まらず獅子雄に抱き着いた。獅子雄の髪から落ちた雫が、俺の頬まで濡らした。
長く息を吐き、唇を獅子雄の首筋へと滑らせてそこに噛り付いた。獅子雄は身体を強張らせることもなく、俺の髪を優しく撫でている。二、三度噛んで口を離すと、思い切り噛んだつもりだったのに可愛らしい歯形がついているだけだった。
「……もっと本気でやれ」
穏やかな声が耳元で響く。獅子雄が亜鷺のことで嘘をついた理由。きっと何てことない。そんな嘘、きっと些細なものだ。自分自身にそう言い聞かせた。
「本気でやったつもり」
言えば、獅子雄はそうかと納得して俺を抱きしめた。抱きしめて、キスをする。このやりとりを、俺たちは昨日から何度繰り返しているだろうか。
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