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第41話

 毛穴と言う毛穴から、一気に汗が噴きだす。首筋の抉られた痛みが鮮烈に思い出された。 「どうしよう、早く戻らなきゃ……!」  焦る俺を亜鷺が制する。 「大丈夫だ、落ち着いて、僕の言うとおりにして」  何か案があるらしい亜鷺に、素直に頷く。藁にも縋る思いだった。亜鷺はまるで安心させるように微笑み俺の頭を一撫ですると、自身のポケットから携帯を取り出し、画面を数回タップして耳に当てた。 「もしもし、獅子雄くん? 少し話があるんだ、屋敷に戻る前にこっちに寄ってくれない? ……うん、え? いや………どうしてもすぐに確認してほしくて」  それから亜鷺と獅子雄の攻防は暫く続いて、俺は今にも獅子雄に見付かってしまうのではないかと気が気でなかった。そして亜鷺は電話を終えてこちらへ向き直る。 「椿くん、これから時永と獅子雄くんが車でこちらへ来る。僕が稼げる時間はどんなに長くても三十分が限界だ。その代わりどんなことがあっても三十分は必ず足止めするから、その間にきみは部屋へ戻るんだ。来た道と逆の方向へ、この間、僕が案内した道を覚えているかい? ガレージの前を通る道、少し遠回りだけどその道は獅子雄くんたちに見付かる可能性は低い。走ればきっとぎりぎり三十分………いけるね?」  切羽詰っているのは、きっと亜鷺も同じだろう。自信がなくてもそれ以外に方法がないのなら、やるしかなかった。強く頷くと、亜鷺は満足そうに微笑んだ。その表情を俺はどこかで見た気がする。そしてそれはすぐに分かった。 「亜鷺は……獅子雄に似てるね」  呟くと亜鷺は途端に嬉しそうに笑みを深くした。 「僕は獅子雄くんのお兄ちゃんだからね」 「え――」 「さあ行って、時間がない」  何を聞く間もなく、亜鷺に強く背を押され裏口から外へ出された。  とにかく必死に走った。全速力で駆けた。息は上がり喉もひり付いて、ただでさえ痛んでいた足は地面を蹴る力に耐えられずとうとう両足とも出血した。走るたびに腕を振れば噛まれた首がじりじりと痛み、それでも足を止めるわけにはいかなかった。亜鷺が稼いでくれている三十分、これは俺が獅子雄の信用を裏切らないための三十分。ごめん、ごめん、と何度も心の内で謝りながら走り続けた。  誰にも見付かることなく自室のバルコニーに着き、足を弛めながら窓のサッシに手をかける。服は汗で濡れているし、ところどころ泥も付着している。着替える余力はあるだろうか。息も絶え絶え最後の力を振り絞り、なんとか身体を持ち上げ部屋に入り、窓を閉めて施錠をしカーテンを引く。よかった、無事に戻って来られた。そう安堵したときだった。 「――坊っちゃん?」  背後から掛けられた声に、身体が激しく、大きく揺れた。浅く息を吐きながらゆっくりと振り返れば、グラスと水差しの載ったトレイを持つエティと目が合った。 「ちがう、これは………!」  慌てて弁解を始めた俺にエティは訝しげな眼差しで上から下までを観察してからトレイをサイドチェストに置き、焦ったようにクローゼットへ駆け寄るとその中から着替えを取り出してそれを俺に押し付けた。 「エ、エティ………」 「早く着替えて! 獅子雄様に知られる前に……!」  意識が整理されない内でも、獅子雄の名前に身体は素早く反応した。エティから着替えを引っ手繰るようにして奪うと、その場で手早く着替えた。部屋の外で聞きなれたエンジン音が響く。お互いの動きが一瞬止まり、息を呑んだ。どくんどくんと五月蝿く鳴る心臓の音が俺のものなのかエティのものなのか、束の間わからなくなる。それでも何もしないわけにもいかず、俺は汚れた服をベッドの下へ隠そうと足を踏み出した。 「痛っ………」  がくりと膝から崩れ落ちる。上手く足に力が入らない。 「坊っちゃん、足を……!」  草で切り、砂利を踏みつけ泥を撥ね、傷だらけの無残な両足がそこにはあって、これをどう言い訳すればいいのか途方に暮れた。  ぎぃ、と正面玄関の開く音がしそれを出迎えるマリアの声、近付く足音。焦りで喉が引くつく。もう手遅れだ。目の前に暗く重たい影が差す。成す術もなくしゃがみ込んでしまった俺の身体が、不意に大きく引かれた。 「立って!」  エティが顔を歪めるほどの有りっ丈の力を込めて俺を無理やりに引っ張りあげ、俺はそれにつられて身を起こし促されるままベッドの脇へ座った。何も出来ないでいる内に、エティは目にもとまらぬ速さで汚れた衣服をベッドの下に押し込めると、サイドチェストに置かれていたグラスと水差しの載ったトレイを徐に持ち上げた。  何をするのか、と考える間もなかった。  自室のドアが開く。それと同時に目の前で、がしゃん、とけたたましい音。膝から下が一瞬の内に濡れ冷たい水が滴った。 「…………………」  辺りは一気に静まり返る。何が起こったのか。俺は部屋に入った獅子雄を振り返ることが出来ず、足元で粉々になったグラスと水差しを呆然と眺めた。正確には、グラスと水差し、だったもの、だ。 「申し訳ありません、坊っちゃん!」  エティの悲鳴にも似た声が響いた。エティは俺の足元へ跪き、身に着けていたエプロンの裏でびしょ濡れになった俺の足を拭いた。正確には、俺の足に付着していた血と泥を。 「エティ……」  困惑したままエティを見つめるが、エティは何も言わず顔を上げることすらしなかった。 「………何をしている」  怒気を孕んだ獅子雄の声。遅れてきた時永が、部屋を見るなり驚いた様子でこちらへ駆け寄った。 「エティ、一体どうしたのですか」  それまで黙っていたエティは俺の足を手早く拭き終え、すっと立ち上がり獅子雄に向き直る。 「申し訳ありません、私の不注意で坊っちゃんにお怪我を負わせてしまいました」  呆ける俺をよそに、エティはいつもはぴんと伸びている背中を丸めて深々と頭を下げた。 「あっいや、違うんだ、これは俺のせいで………」  そうだ、本当に俺のせい。俺のせいなのに、気の効いた言葉のひとつも出てきやしない。 「とにかくエティは悪くない。獅子雄、信じて………」  信じて。なんて酷い言葉。俺はとっくに獅子雄に嘘をついて、信用まで裏切っていると言うのに。獅子雄は表情を険しくしたまま無言でエティを通り過ぎ、俺の傍までくると濡れた床に膝をつき足を掬った。どきり、と心臓が撥ねる。嘘がばれやしないかと恐れた。 「………切ったのか?」 「え、あ、うん……」 「――ガラスで?」  獅子雄は跪いたまま俺を仰ぎ見る。何かを探る目付きだ。悟られないよう固唾を飲み込む。 「……ガ、ガラス、飛び散っちゃって…それで少し切ったみたい。……で、でも本当にエティは悪くない。あのっすぐそばにエティが立ってるって気付かなくて、それで…ぶつかっちゃって………」  苦し紛れの言い訳。罪悪感で誰の顔も見ることができない。獅子雄は暫く俺の足を隈なく眺めて立ち上がった。 「……早く片付けろ」  ぼそりと呟き、バスルームへ消えて行く。それ以上掘り下げられなかったことにほっと息をついた。エティは頭をあげたものの、俺に背を向けたまま動かない。 「エティ、下がりなさい」  ガラスを片付けながら、時永が言う。 「時永さん、俺大丈夫だから………それに本当に俺が悪いんだ。エティを怒らないで……お願い………」  懇願に近かった。エティは俺を守ったのに、これから何らかの罰を受けなれればならないのだろうか。そんなのあっていいはずないのに。そんな不安を他所に、時永はゆっくりと顔を上げて俺に微笑みかける。 「エティはこの仕事を始めてから今まで、一度もミスを犯したことはありません。こんなことは今日が初めてです。彼女も余程疲れているのか、何か他に、そうしなければならない理由があったのでしょう、叱るようなことは致しません」  そうしなければならない理由。エティがグラスを割らなければならなかった理由。それは紛れもなく俺の嘘を隠蔽する為だ。 「……本当に、獅子雄も怒ったりしない?」 「本当ですわ、誰もエティを咎めたりしません。だって彼女は私と違って、いつもきちんとお仕事をこなすんですもの。今日はきっと、疲れていたのよ」  少しの間席を外していたマリアが、モップを持って戻ってくる。立ち尽くすエティの手を取り、励ますように何度も指で撫でていた。時永が粉々になった硝子片を持って部屋を出て、床を拭き終えたマリアもその後に続いた。壁を挟んで向こうには、水滴の跳ねる音がする。獅子雄の風呂はもう暫くかかりそうだ。 「あの、エティ………」  恐る恐る声を掛けると、ゆっくりとエティは振り返った。 「坊っちゃん、本当に申し訳ありません。ガラスで足を切ってはいませんか? あんな危険な真似をしてしまって………」  再び足元に跪いて頭を下げるエティに、違う、と強く否定した。 「悪いのは俺なんだ、本当に……だってそうだろう。エティは、俺を庇った……理由も聞かずに」  言いつけを破った俺の、その理由も聞かずに。エティは弱々しく微笑み、俺の手を取った。 「亜鷺様に、お会いになったのでしょう?」  いきなり核心をつかれ、身が強張った。何故それを知っているんだ。 「ふくらはぎまで切り傷をつくってしまうような毛足の長い草は、西の棟の周辺にしかありません。あちらには亜鷺さんしかいませんもの、すぐに分かります」  私だけでなく、獅子雄様にも。そう続く気がした。俺の心を見透かしたようにエティは眉尻を下げ、握られた手に力を込めた。 「このことは坊っちゃんと私、ふたりの間だけに留めておきましょう」  エティにしては珍しく、俺の意見など聞かない口ぶりだった。優しい言葉選びではあるけれど、決して口外してはいけないとその目が言っていた。 「ど、どうして俺と亜鷺を遠ざけるの……どうして会っちゃいけないんだよ、亜鷺は獅子雄の兄貴だってそう言ってた。でも獅子雄は、兄貴は海外にいるって言ったんだ。どうして、どうして嘘をつくんだよ」  訊ねても、エティは無言で首を横に振るだけだった。 (どうして………)  どうしてこの屋敷の人間は、俺に関わるすべてのことを、俺に話してはくれないんだろう。どうして何も言ってくれないんだ、エティもマリアも時永も、獅子雄だってそうだ。誰も何も、教えてくれない。

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