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第40話
毛足の揃った芝がちくちくと足を刺激した。裸足だから多少の怪我は仕方がないと覚悟はしていたが、この状態で無事に西の棟まで辿り着けるのかと懸念する。しかし立ち止まっても仕方ない、やると決めたのだから。
建物の壁に沿うようにして、曖昧な記憶を頼りに初めて亜鷺に出会ったあの場所を目指した。昼の休憩中なのか運よく植松には遭遇せず、いつどこで何をしているのかさっぱり不明なメイドふたりにも見つからないまま、見覚えのある場所まで辿り着いた。
(ついた……此処だ………)
綺麗に磨き上げられたこの屋敷の庭にしては不自然なほど草が伸び、手入れがされている様子はまるでない。亜鷺に出会った場所は確かに此処。けれど亜鷺の言う西の棟は一体どこなのだろうか。
頬を伝う汗を着ていたシャツで拭う。足が痛い。視線をおとしてそれを見れば、草に負け小さな切り傷を無数につくり、硬い砂利や木の枝を踏んだのか左足の裏からは少しだけ出血していた。その痛みに耐えながら、辺りを見回す。部屋を出てから恐らく三十分、もしかするとそれ以上要したかもしれない。俺が寝ているはずの部屋がもぬけの殻であることが誰かに知られるのはまずい。早く帰らなければならないけど、亜鷺に会わなければここまで来た意味がない。意を決して、一か八か口を開いた。
「………亜鷺」
耳を澄ませる。何も聞こえない。
これは推測だが、恐らく亜鷺は異常に耳が良い。この間も遠くから来る獅子雄の車の音をいち早く察知した。しかし今は何も反応がない。もう一度、今度は大きな声で呼びかけようと息を吸い込んだとき、突然背後から口を塞がれた。
「!」
「静かに。いきなり名前を呼ばれるから驚いたよ」
音も気配もなく距離を詰めてきたそれに驚いたが、その所作と耳元で囁く声には覚えがある。亜鷺だ。
口を塞がれたまま、静かにできる?と問われそれに頷くと、気道が解放されて大きく息を吸い込んだ。振り返るとやはり亜鷺で、俺の姿を確認するとにこりと微笑んだ。
「来てくれたんだね、嬉しいよ。だけど靴はどうしたの? 傷だらけだ」
「そんなのどうでもいい、おまえに訊きたいことがある。部屋を抜けたことがばれるとまずいんだ、用件を済ませて早く帰らなきゃ」
慌てる俺に、亜鷺はすぐに合点がいったようで、ああ、と呟く。
「わかった、でもまず確認させて。椿くん携帯は?」
「持ってきてない。おまえが何も持たずに来いって言ったんだろ」
「覚えていてくれたんだね、よかった」
「だからそんなの今はどうでもいいんだよ!」
とにかく早く戻りたかった。亜鷺に対して不信感と少しの嫌悪感があるというのも理由のひとつだったけど、それ以上に獅子雄の言いつけに背き、信頼を裏切ってしまいたくない思いのほうがずっと強かった。
「椿くん、わかってるから落ち着いて。大丈夫、なるべく手早く済ませるけど、こんな外にいちゃ誰に見つかるか分からない。僕の部屋で話そう」
確かに亜鷺の言うことには一理あった。その申し出に乱暴に頷くと、亜鷺は俺の身体を引き寄せあろうことかそのまま軽々と持ち上げた。突然の浮遊感に寒気を覚える。
「降ろせ、歩ける!」
「確かに僕の部屋までは歩けるかも知れない。だけどきみはこの足で、また屋敷までの道のりを歩かなきゃならないんだ、できる?」
「……………」
あまりにも正論すぎるそれに、反論のひとつもできない。
「きみと接触しているのを、メイドふたりは兎も角、獅子雄くんや時永に知られるのは僕としてもまずいんだ。ここはお互い協力し合おう」
「………わかった」
警戒しながらも、渋々了承する。亜鷺は細い腕に似合わず涼しい顔をして俺を抱きながら早足で歩いた。
「………どうしてここには何も持ってきちゃいけないの」
亜鷺の部屋までの道すがら、疑問だったことを問うてみると、亜鷺は少し困った顔をした。
「ううん…そうだね、たぶん………」
言いづらそうに何度も言葉を詰まらせる。それでも俺は根気強く答えを待ち、それに負けたのか亜鷺は言葉を続けた。
「確証はないんだけれど、きみの携帯のGPSがね……きっと獅子雄くんが逐一居場所を確認していると思うんだ」
亜鷺はばつが悪そうにそう答えてくれた。
獅子雄がGPSで俺の居場所を確認している。どうしてそんなことを。そう疑問に思ったけれど、そこで蛇岐の言葉を思い出した。
「俺が命を狙われたときのために?」
「え?」
亜鷺が間の抜けた声を出す。
「備前が世界的にでかい企業で金と権力持ってるから色んな奴から狙われるって、関わってる俺も命を狙われるも知れないから危ないって、だから学校でも蛇岐を護衛に付けてるんだって、蛇岐がそう言ってた」
だから俺に万が一のことがあったとき、すぐに駆けつけられるように。随分自惚れた見解だろうが、俺の身を守るために蛇岐を雇ったわけだし、GPSで居場所を随時確認することくらい獅子雄なら当たり前にやりそうなものだ。亜鷺は一瞬戸惑いの色を窺わせ、俺はそれを見逃さなかった。
「………違うのか」
違うのならば、それ以外に何の理由があるというのか。
「ごめん椿くん、僕は余計なことを言ったみたいだ。こんなこと言っておいて卑怯だとは思うけど、実際のところ僕にも獅子雄くんが何を考えているのかさっぱり分からない」
亜鷺はそこで一旦言葉を区切り、でも、と静かに続けた。
「だからこそ、ここに来て僕と接触していることが知られちゃうとまずいんだよ」
俺は返事も相槌もできないでいた。ふと、嫌な予感が胸をよぎった。
荒れた草を掻き分けしばらく進んだ先に、古びた洋館があった。俺たちの住む屋敷と比べると随分と小さいけれど、それでもひとりで使うには持て余すほどの大きさだ。レンガ造りの壁にはびっしりと蔦が絡んで、まるで隠されるようにひっそりと佇んでいた。亜鷺は正面の大きな扉を素通りし横に逸れると、明らかに立て付けの悪そうな木製の小さな扉を、俺を抱いたまま器用に開けた。
「ここは裏口なんだ、僕しか使わない」
亜鷺は身を屈めて中に入ると、更にすぐ横の細工の細かい美しいドアを開けた。
「ここが僕の部屋だよ」
そう言って通された部屋は、白とベージュを基調とした清潔感のある部屋で、けれども中央に小さな円卓がひとつと、それと揃いの椅子がふたつ、そして隅には綺麗にメイキングされたベッドがあるのみで、蛇岐の部屋よりも一層シンプルで寂しげだった。
「………何もない」
「うん、必要ないからね、少し待ってて」
亜鷺は俺を円卓の前の椅子に座らせると、隣接している部屋に入っていき、程なくすると濡らしたタオルを持って現れた。
「足を出して」
亜鷺は俺の前に跪き、透きとおるほどに白い手を出し、そこに足を差し出すよう促した。男の俺でも見惚れてしまうその手に汚れた足など乗せられるわけがなく、俺は一向に動かずそれを拒んだ。
「いい、自分でできる」
「いいから、きみは僕に聞きたいことがあって、わざわざここへ来たんだろう」
拒む俺を無視して亜鷺は足を取ると、熱を持ったそこに程よく冷えたタオルを慎重に押し付け尚且つ丁寧に拭いてくれた。ずっと抱いていた嫌悪感は、いつの間にか薄れていた。
「おまえは……亜鷺は、俺の何を知ってる?」
亜鷺はせっせと足を清めながら微笑んだ。
「顔と、名前と、生年月日と血液型と性別と、両親の名前、家族構成………そして、きみが過去にしてしまったこと」
ふうん、俺は頷く。
「調べたの?」
「そうだね」
「……そう」
どうやって、とは訊かなかった。きっと訊いたって、俺には分かりはしないことなのだろうから。
「首は、誰にやられたの? 蛇岐くん?」
足を拭き終えた亜鷺が身体を起こし、大きな絆創膏の貼ってある首の傷口に優しく触れた。俺はさっぱりした足を引っ込めて、違う、とだけ答えた。
「………獅子雄くん?」
亜鷺は目を丸くしてそう訊ねる。返事はしなかった。それが答えだ。亜鷺は、そうか、と驚きとも感心ともつかない息を漏らし暫く何かを考えた後に口を開いた。
「椿くん、僕はきみに忠告したいんだ」
「忠告?」
亜鷺は再び床に膝をつき、俺と視線を合わせる。
「いいかい? 獅子雄くんは、」
そこまで言って、言葉を切られた。先を促そうとする俺の口に人差し指を立て、静かに、と囁いた。そうだ、亜鷺が初めて部屋に来たときもこんなことがあった。それを思い出し、胸がざわめいた。もしかして、獅子雄が――そう思ったと同時に亜鷺が呟く。
「獅子雄くんが帰ってきた」
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