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第39話
濡れた身体を拭いてから、どうせ首の手当をするのだから服は邪魔だろうと、スウェットのパンツだけを履いて浴室を出た。獅子雄につけられた胸周りの痕を時永に見られるのは恥ずかしいけれど、既に起き抜けに一度見られているのだから今更気にしても無駄だろう。空調の効いた部屋に戻ると、時永は救急箱を持って待ち構えていて、ベッドへ座るよう促された。ちらりと獅子雄を窺うと、俺に背を向けたまま革張りのソファに腰掛け、こちらを見ようともしなかった。中途半端に濡れた髪から雫が落ち、裸の肌を濡らして少しだけ寒かった。
「大変なことになっていますね」
時永は裸の半身を遠慮がちに見て、困ったように苦笑した。手当をしやすいように首を傾けると、傷口の皮膚が突っ張ってその痛みに顔を顰めた。
「可哀想に。動脈をかき切られなかったのがせめてもの救いですかね」
「はは……」
返事を乾いた笑いにだけ留める。獅子雄にも聞こえているだろうに、一言も発さぬまま動きもしなかった。時永はてきぱきと処置を施し、最後に眉尻を下げて微笑み俺の頭をひと撫ですると、無言で部屋を後にした。獅子雄とふたりきりになった部屋に、沈黙が流れる。気まずさや息苦しさこそないものの、不自然なこの空気に耐えかねて、俺は薄いシャツを羽織ると獅子雄の隣に腰掛けた。そこでやっと顔をあわせることが出来て、獅子雄も俺を見て、ゆっくりと息を吐き出した。
「………悪かった」
「首のこと? いいよ、どうってことない」
そこで会話は途切れる。獅子雄は黙りこくったまま一点を見つめ、何かを必死に考え込んでいるようだった。俺も獅子雄と同様に黙り込む。お互い話し出すタイミングを見計らっている。話さなければならないことがあるから、獅子雄も、俺も。まやかしに近い幸福を、なんとか現実にするために。それぞれの抱えている現実を、再び己自身に突きつけなければならない。忘れたはずの、忘れたふりを続けていることも、全てを。
「獅子雄、」話さなければ。
「し、獅子雄………」言葉に詰まる。必要な言葉が、どこを探しても見つからない。それでも、言わなければ。
「…………」
だけど、どうしても何も出てこない。
蓋を開けてしまいたいのに、全てを話さなければならないのに、もうひとりの俺がその箱に重くのしかかり、開けさせてくれない。どうやったって、話すことを、知ることを知らせることを、拒む自分がしつこく喉に絡みつく。弱虫、そう自分自身をなじっても何も変わらない。
ふと身体が傾いて、そのまま獅子雄に抱き寄せられた。珍しく、獅子雄の体温が上がっている。きっとこれから俺たちはキスをして、隙間を埋めるように抱き締めあって、互いの現実をあやふやにしてしまうだろう。ふたりとも臆病だから、やっぱり黙り込んでしまったまま硝子細工の幸福に逃げ出してしまう。その脆い幸福が散り散りにならないよう、仮初めの現実を守り続けるのだろうか。そんなの無意味だって、わかっているくせに。ソファの上で黙したまま、キスをして抱き締めあって、こうして触れ合っている間の幸せは幻じゃないと自らに信じ込ませた。
「獅子雄……」
獅子雄の首に両腕をまわして甘えるように額同士を擦り合わせると、獅子雄は返事の代わりに何度もキスをしてくれて、その度に俺は恍惚とした気持ちを抱えた。唇を重ねて舌を絡ませ甘噛みされて、柔らかな唇同士が触れ合い重なり合い、その合間に何度も好きだと言ってしまいそうになった。その度に、その言葉をふたり分の唾液と共に飲み下した。言ってはいけない、その言葉は、拒絶に繋がってしまうかも知れない。それが怖くて、もう何も言えない。
二十分ほどそんな(途方もなく不毛な)ことを繰り返して、獅子雄は出掛けると言ってスーツに着替えた。そして部屋を出るときも、俺の頬を撫でて優しくキスをおとしていった。獅子雄の車をバルコニーから見送って、部屋に戻るなり通学用の鞄を開けた。古い革の匂いが漂い、中を覗くとやはりそれは夢ではなく、確実にそこにあることを自らの目で確かめた。それを取り出し、蛇岐に教えられたとおり腰に巻く。蛇岐の腰のサイズにあわせてあるのか、思わず笑ってしまうほど俺には緩かった。ベルトを調整し、鞘からナイフを引き抜く。鋭く光る刃が、太陽を反射した。
いつか何かの役に立つ。そう言った蛇岐の言葉が頭から離れない。ふん、とわざとらしく鼻を鳴らした。こんな物騒なものを使う日なんて、役に立たせる日なんて来るはずない。ナイフを戻して、ベルトを外す。きっと蛇岐の思い違いだ。そう言い聞かせた。蛇岐は何かを勘違いしているんだ、馬鹿馬鹿しい。そう言って、このナイフを手放すことが出来ないのは一体何故だろうか。
獅子雄が出かけて暫くたった午後一時、食べ終えた昼食の皿をマリアが下げに来た。それを静かに眺めながら、俺はこれから行う計画を頭の中で反芻していた。
「マリア、ちょっと体調が悪くて少し休むから、今日は部屋の掃除はしなくていいよ」
「それは大変、お医者様をお呼びしますわ」
「いや、いいんだ。寝てれば治るから」
「ですが……最近ずっとお身体の具合が………」
マリアは心配そうに眉を下げる。それに少しの罪悪感を抱きつつも食い下がると、わかりました、と渋々承諾してくれた。マリアが部屋を出るのを確認した後、俺はベッドから出て部屋中の全てのカーテンを閉め切った。こうすれば外から様子を窺われなくて済む。そして携帯を消音にしてベッドの中央に隠した。
(ごめん)
俺はまた獅子雄の言いつけを無視してしまう。約束を破ってしまう。しかし迷っている暇はない。獅子雄がいない内に手早く済まさなければ。
カーテンの隙間から外を除き、植松やメイドがいないことを確認すると、少しだけ窓を開けてそこから外へ出た。室内履きを汚すと計画を知られてしまうから、やむなく裸足だ。外に履いていく靴は自室にはないから、こうするしかなかった。外から窓を閉め、息を潜めて周囲を確認する。ばくばくと心臓が五月蝿く鳴った。
考えるほどに納得しかねるが、どうしても確かめる必要がある。亜鷺のもとへ行く必要が。何も持たずに来いと言われたことを律儀にも覚えていて、俺は財布も携帯も(もちろんナイフも)衣服以外は何も身につけていない。マリアに嘘をついてまで亜鷺のもとへ行く必要が果たしてあるのか何度も自問したけれど、亜鷺は俺の何を知っているのか俺は確かめなければならない。現実に向き合う準備をしなければ。
額に滲む脂汗を拭い、ついに足を踏み出した。
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