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第38話
シャツの前を全て開いたところで、獅子雄はゆっくりと上体を起こした。視界が開けて、獅子雄の顔がよく見える。
「ふふ……っ」
状況に似合わず、つい笑みが漏れた。
「獅子雄も…そういう顔、するんだ………」
余裕のない表情、泣き出してしまいそう、俺も獅子雄も。不安も迷いも混在して、ふたりで迷子にでもなってしまったみたいだ。獅子雄も辛く苦しんでいるのだろうか、花一輪さえ、ほどよく愛することができないほどに。突風のごとく手折って、花びらむしって、唇のあいだに押し込んでぐちゃぐちゃにして、それから自分で自分を持て余す。獅子雄も、そうなのだろうか。
獅子雄に向かって両手を伸ばすと、首の傷がじくりと痛み涙が一筋零れた。その涙を獅子雄が舐めとり、伸ばした腕を絡め取られて抱き起こされた。ベッドの上で胡座をかく獅子雄に跨り、たくさんキスをしてやった。獅子雄の額や瞼、頬、耳、口と、至るところにあますところなく口付けた。獅子雄が俺にそうしたように。じっと見詰めていると、それに気付いた獅子雄が今度は俺の唇に口付けて、そのまま強く抱き締められた。
「確認は……しなくて平気………?」
訊ねると、耳元でふっと笑う気配を感じて安堵する。やっといつもの獅子雄が戻ってきてくれた。
「これだけで充分だ……今は」
含みのある言い方に堪らず笑みを零し、俺たちは長い間そうやって抱き合った。混在している不安や恐怖を、その壊れやすい幸福だけで満たすように。
暫くしてベッドに横になり、その中でも抱き合い微睡みながら過ごした。言葉を交わすことは少なかった。選択を間違えてしまえば、硝子細工のように脆いふたりの幸福はいとも簡単に粉々になってしまうと思ったから。話もせず、眠りもせず、ただふたりで抱き合ってさえいれば、この時間が永遠に続く気がして、獅子雄の腕に抱かれたまま身動きひとつできないでいた。
俺の髪を撫でていた手が、首筋に触れる。その指が傷口に辿り着き、大きく身体を揺らした。
「痛むか」
「痛いけど…大丈夫……」
ずくずくと瞬く間に痛みが蘇り、それと共に狂気じみた獅子雄が脳裏を過ぎった。獅子雄はそれを知ってか知らずか、身を捩ったかと思うとあろうことかその傷口に舌を這わせた。
「っ!」
痺れたような痛みが全身を駆け巡り、一気に汗が噴き出す。きっともう先ほどと同じような行為はされないと頭では分かっていても、一度恐怖を覚えた身体は油断すると獅子雄を拒絶してしまいそうで、俺は獅子雄の肩に爪を喰い込ませながら息を詰め、必死に耐えるしかなかった。執拗に傷口を舐めていた獅子雄が不意に顔を上げ、ようやくほっと息を吐く。視線を上げると獅子雄と目があって、至近距離で眺める獅子雄はすっかりいつもどおりに見えたけれど、そこに確かな愛情が含まれてしまったからだろうか今までよりももっと魅力的に思えた。
「獅子雄………」
囁いた声は自分自身でさえ驚いてしまうほど甘く響いて、隠しようのない恋情が溢れ出て、瞬く間に頭から爪先までを侵食した。
獅子雄の唇がおりてきて、もう何度目かのキスをした。お互いの気が済むまでじっくりと唇を味わって、その温もりに抗いようのない眠気が襲い、その夜は抱き合って眠った。この幸福がいつまでも続いてくれたらいいのに、と強く願った。一生ずっと、獅子雄とふたりでいられたら良いのに。
意識が暗闇におちる寸前、蛇岐から渡されたナイフが突如として思い出された。柄を握った右手が痺れた。酒に酔っていた筈なのに、その感触だけは鮮明だった。あれを使う日が、いずれ来るのだろうか。俺が、獅子雄に傷を付ける日が。
(そんなはずない)
目をかたく瞑り胸の内で何度もそう唱えて、痺れる右手で獅子雄のシャツを握った。
(そんな日、来るはずない)
この屋敷を訪れて間もなく、獅子雄は約束してくれた。絶対に捨てないと誓ってくれた。そんな獅子雄が、こんなにもたくさんの愛情を与えてくれる獅子雄が、俺を裏切るはずがない。腕の中に守られて、こんなにも幸福で満ち足りているのに、それを獅子雄が壊すなんてことあり得ない。そんなの許さない。俺を裏切るというなら、その時は獅子雄を。
「……………」
その時は、獅子雄を。
(その時は……)
俺は獅子雄を、殺すとでも言うのだろうか。
獅子雄の広い胸に額を擦り付けると、長い腕が俺を包み込み、もっと深く懐に沈み込ませた。苦しくて、それでも満ち足りて、また涙が溢れた。
「捨てないで………」
それが叶わないというのなら、今この腕に抱き殺されてしまえたら、俺は幸福なまま死ねるのに。
小さな物音で目覚めたときには太陽はすっかり昇っていて、俺を包み込んでいた温かな体温は既に隣にはなく、その代わりに(と言ってしまえば何だが)バルコニーへ続く扉の前に時永が静かに佇んでいた。
「おはよう………」
上半身を起こし乾いた目を擦る。時永は丁寧に挨拶を返し、部屋中のカーテンを開けると未だ寝ぼけ眼な俺の前に座りにこりと微笑んだ。
「やられてしまいましたね」
「………何が」
「首、痛みませんか」
「……ああ………」
昨夜のことを思い出し、心なしか体温が上昇する。傷口に触れるとやっぱり痛くて、すっかり乾いてしまった血がぼろぼろと瘡蓋のように溢れていった。
「さて坊っちゃん、何から始めましょう。服はぼろぼろ、身体もぼろぼろ、お酒の匂いも残ってますし、お風呂は獅子雄様が使用中、おまけに学校は大遅刻」
「……………」
俺はあからさまに顔を顰める。自分の状態を確認してみれば、シャツはところどころボタンが千切れて前が全開になったままだし、露出した肌には無数に紅い痕が散っている。首は言わずもがな痛々しくて、時刻は午前十時を廻ったところだった。
「起こしてくれたらよかったのに」
辛うじてシャツに留まってくれていたボタンを閉める。この貧相な身体をさらけ出したまま、何もしないよりはましだろう。
「あまりにも気持ちよさそうに寝てらしたものですから、獅子雄様もご一緒に」
時永は笑顔を崩さない。
「………見たの?」
「見ました」
「覗きなんて悪趣味だ」
「覗きだなんて、とんでもない。私は堂々と拝見しましたよ、真正面から」
「何それ」
堪らず笑みが漏れる。時永は更に笑みを深くして、暫く談笑していると獅子雄が浴室から戻ってきた。いつもの部屋着を着ている。仕事は休みなのだろうか。なんとなく、室内に気恥ずかしい空気が漂う。好き合う者同士が想いを交わした後は、皆きまってこうなってしまうのだろうか。そんなことを考えた。
「さあ坊っちゃん、シャワーを浴びて来てください。上がったら傷の手当をしましょう、放っておくと大変です」
さり気ない時永の助け舟に有難く乗っかり、俺はそそくさと逃げるように浴室へ向かった。扉を閉める直前「やりすぎですよ」と、珍しく時永の剣のある声が聞こえ、獅子雄が誰かに叱られているのが何だか堪らなくおかしくて、俺はひとりで笑った。そして裸になり、その姿を鏡にあてて愕然とする。
「うえぇ」
見なきゃよかった、と後悔する。首筋にくっきりと残された歯の形をなぞるように、赤黒く乾いた血がこびり付き肉が抉れて盛り上がっている。傷口を囲んだ皮膚は真っ赤に腫れていた。
「どれだけ噛んだらこんなことになるんだよ」
ひとりごちながらその傷を見、それと共に痛みを思い出して全身に鳥肌を立てて身震いした。急いでそこを視界から外し、改めて鏡にうつった上半身を見てみれば、首から腹にかけては無数の鬱血痕が散っていた。蛇岐が言うにはキスマークだそうだけれど、こんなに痛々しいキスマークがあっていいのだろうか。いつの間にこんなに付けられていたのか、数えるのも憂鬱になるほどだ。
(独占欲、キス魔)
そんな言葉を頭に浮かべてやっと浴室に足を踏み入れる。先ほどまで獅子雄が使っていたから、室内は程よく温められていた。頭からシャワーを浴びて、猫脚のバスタブに湯をためた。前日に酒を飲み、首筋にそれなりの怪我をしているのに湯に浸かっていいものかと懸念したけれど、それより何よりも先にこの疲れを癒したかった。今日はもう学校には行けないのだろう、蛇岐は授業のノートなんてとっていないだろうな。そんなことを考えてまたため息が漏れた。
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