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第37話
○ 我妻椿
頭痛と共に目覚めたときには、辺りは既に闇に包まれていた。
(頭いてえ………)
時間を確認しようと枕元を探るが、目的のものが見付からず諦めて目を閉じた。と同時に、そういえば、と思い至って再び瞼を持ち上げる。
確か俺は蛇岐の部屋にいたはず。そして酒を飲まされて、それで――
(ええと何だっけ……いつの間にか寝てた? ああ、よく思い出せない)
肌に触れるシーツの手触りは慣れ親しんだそれで、どうやら屋敷に戻ってきたことはすぐに分かった。そして俺は酷い頭痛に襲われて、おまけに吐き気まである。確認できる事実は今のところそれだけだ。
初めての酔いというものに唸りながらベッドに潜っていると、静かな音をたてながら扉が開き、誰かの入ってくる気配を感じた。ノックがなかったということは、きっと獅子雄だ。蛇岐の部屋で酒を飲んで酔い潰れたこと、獅子雄は怒るだろうか。少しずつ、ゆっくりとこちらへ近付く足音、すぐ横へ来たところでその音はやみ、俺は恐る恐る顔を出す。
「………気分はどうだ」
静かな部屋に、妙に冷ややかな獅子雄の声が響く。薄明かりの中、俺の様子を目を細めて伺う獅子雄と視線が絡んだ。
「水、飲むか」
その言葉に、無言で頷く。怒っている様子は今のところ見受けられないけれど、どことなく余所余所しい雰囲気を纏っている。ほんの少しだけ、違和感を感じた。獅子雄はサイドチェストに置かれていたグラスをひとつ取ると、きっとメイドのどちらかが準備したであろう水差しから、冷たい水を注いでくれた。
「起きられるか」
「うん……」
腕に力を入れて上半身を起こそうとするも、脳が大きく揺れた気がして、視界もくらむ。次の瞬間には吐き気も襲ってきた。
「無理……気持ち悪い………」
口元を押さえ吐き気を堪えながら、俺はベッドに逆戻りするほかなかった。調子に乗って(というか調子が狂って)煽られるがまま酒を二本も飲んでしまったことを強く後悔する。蛇岐は水を飲むようにビールを煽っていたというのに。そんな俺を見かねたのか獅子雄は枕元に座ると、グラスの水を自らの口に含み、俺の顎を強く掴んでそのまま唇を重ねた。
「! ん、ふ………ッ」
一瞬の隙をついて舌が差し込まれ、それと同時に獅子雄の口内で温められた水が次々と流れ込んでくる。ろくな抵抗もできないまま、ベッドを濡らさぬようそれを飲み下すのに必死になった。俺が全て飲み干すのを見届けて獅子雄はやっと離れていき、苦しかった気道が解放されて大きく深呼吸をした。
「いきなり………!」
口元を拭いながら獅子雄を睨みつけ、どうせいつものように俺を揶揄するのだろうと構えれば、どうやらそうではなかった。冷え切った瞳が俺を見下ろして、全身に寒気が走る。
「いきなり、何だ? 初めてでもないだろう」
「は……?」
それはそうだ。キスなんてこれが初めてではない。初めてでないも何も、俺のファーストキスを奪ったのも、二回目もその次も、俺にキスする奴なんて獅子雄以外にいない。ぎしりと小さくベッドが軋む。枕元に座っていた獅子雄はベッドに乗り上げ、あろうことか身動きのとれない俺の上に馬乗りになった。
「なに、獅子雄………」
普段と様子の違う獅子雄に不安を覚え、背筋には更に冷や汗まで伝った。ゆっくりとした動作で、それでも迷いや躊躇いのない獅子雄の手が俺のシャツの襟元を掴む。そしてそのまま力任せに左右に割り開き、勢いよくボタンが弾け飛んだ。重たい身体、働かない頭、それでも抵抗しなければと俺は獅子雄の手首を握った。
「離せ」
地を這うような重い響きに、いよいよ恐怖を覚える。どうして、急に。昨日まではいつもの獅子雄だった筈だ。今目の前にいる獅子雄は、俺の知ってる獅子雄ではない。胸元では、ぶちぶちと繊維の千切れる音がする。
怖い。
震えて息が乱れるのを必死に堪えた。
怖い。
それを押し隠して、俺は尚も獅子雄に抗った。
「離せと言ったのが聞こえなかったか、椿!」
「それはこっちの台詞だ、今すぐそこからどけ!」
初めて聞く獅子雄の怒鳴り声。それに対抗するように声を張り上げても、獅子雄に対する恐怖に言葉尻は震えた。どんなに俺が生意気を言っても、言うことを聞かなくても我儘でも、どんなに勝手なことをしても、声を荒げることなんてなかったのに。がちがちと奥歯が鳴る。それを噛み締めて、獅子雄の手首を掴む両手に、ありったけの力を込めた。抵抗を見せる俺の態度に、獅子雄は束の間瞠目した後すぐさま表情を強張らせると、唐突に身を屈め俺の肩口に顔を埋めた。生温い感触と、そこに触れる吐息に嫌な予感が胸を過ぎった。
「ああぁぁああ! ぅぐっ、やめ……やめろ………っ」
耳の下、恐らく蛇岐の唇が触れたであろう場所に鋭い痛みが駆け抜ける。容赦なく襲うその痛みに、喉は引きつり息が詰まった。噛まれているのだと気付いたときには、既に引き離せないほどぎちぎちと獅子雄の歯が肉を抉っていた。痛みを逃したくて暴れても、俺の両足はシーツを虚しく蹴るだけで、何度獅子雄を叩いてもぴくりとも動いてはくれなかった。耐えがたい痛みに涙がいくつもの筋を作り、感覚が麻痺して呼吸ができなくなっても、それでも獅子雄は許してくれなかった。身体は固く緊張して、獅子雄の手首を握っていた指が硬直して言うことを聞かず、俺は抵抗する力も削ぎ取られ恐怖に堪らず奥歯を鳴らした。
「やめて……獅子雄っ、な…なんで……も、やめろ………」
獅子雄の名を呼ぶと、今度は途方もない悲しみが訪れて、ぼろぼろと大粒の涙が流れた。どうしてこんなことになってしまったんだ。
抱きしめられると安心する。キスをされると嬉しくて、身体に触れられると幸せだし、それ以上のことだってされても構わない。獅子雄にだったら、どんなことをされてもいい。だけどこんな風に傷付けられるのだけはごめんだ。こんな、ただの、暴力なんて。
「………どこを触られた…………」
熱を持った傷口に吐息がかかるのを感じ、獅子雄がぼそりと言葉を紡いだのが分かった。束の間、痛みから解放されてほっとする。じんじんと痺れたように傷が疼いた。
「……どこを触られたんだ………」
「え………?」
ゆらりと顔を上げた獅子雄と視線が絡む。獅子雄の瞳が怒りに揺らいでいた。言葉の意味を今ひとつ理解できずに返事に困っていると、獅子雄は目を三角につり上げ額に血管を浮かせた。
「あいつにどこを触られたのか言え!」
狂いそうなほどの怒りを隠そうともしない獅子雄に、くらむ脳を必死に働かせて逡巡する。今日の出来事を反芻し「あいつ」と言われて出てくる人間はひとりしかいない。蛇岐だ。どうにか獅子雄の質問の意味を汲み取り、俺は勢いよく首を横に振った。
「何もされてない………!」
どろりと、生温かい液体が首筋を伝った。恐らく血が流れたのだろうと分かったが、そんなの構っていられなかった。
「蛇岐には、本当に何もされてない!」
誤解を解きたい思いよりも、これ以上の暴力から遠ざかりたい一心でそう叫んだ。はっきりとはした記憶はないけれど、しかし恐らく獅子雄の考えているようなことはされていない筈だ。身体には何の異常もない。それでも獅子雄は訝しむ表情を見せ、俺はその瞳を真正面から受け止め熱を上げた獅子雄の頬を両手で包んだ。温度をなくしていた指先が、その体温によって温められる。この男は、まさか嫉妬に狂っているのだろうか。俺のことを好きだなんて、一言も言ってくれないくせに。
「本当に何もされてないよ……」
きっと意識していなければ見落としてしまいそうなほど小さく、そして一瞬、獅子雄の唇が頼りなく震えて、それを目にして俺の胸は酷く痛んだ。俺の言葉を信じて欲しくて、目を見つめながらもう一度「何もされてない」と言い聞かせた。指先で頬を撫でて、俺の血のついた薄い唇に触れた。きっと弱々しく、ぎこちなくなってしまっただろうけれど、微笑んで見せると獅子雄の表情は幾分か和らいだように感じた。少しでも落ち着いてくれたらいい。
獅子雄の顔を両手で引き寄せると、なんの抵抗もなくすんなりと下りてきてそのまま互いの唇を寄せた。鉄の味が滲む。触れては離れてを何度も繰り返す。何度も、何度も、何度も何度も何度も。余裕のない獅子雄の唇が、忙しなく俺を貪った。
「獅子雄……不安なら、確かめてもいい………」
唇を離し鼻先を触れ合わせながら、獅子雄の柔らかな髪を混ぜ、自身の腰に獅子雄の大きな手を導く。遠慮がちにシャツを捲る冷えた指先が素肌に触れ、それに驚き身体がぴくりと反応すると、今度は噛み付くようなキスをされた。角度を変えながら深く合わさる唇、我が物顔で咥内を荒らす舌、それらに翻弄される俺を他所にシャツのボタンはひとつずつ外されていった。獅子雄の手によって、今度は優しい手付きで。
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