36 / 56

第36話

 ○ 備前獅子雄 「坊っちゃんと蛇岐さんは随分と仲良くなられたようですね」 「どうだかな」  予定より早く仕事を終えて帰宅したというのに、二十時を回る頃になっても椿からの連絡は未だなく、自然と煙草の本数だけが増えていく。 「苛々するなら、お迎えに行かれてはどうです?」  呆れ半分、ため息まじりに呟かれた時永の言葉に、それもそうかと納得して席を立ったその時、デスクに無造作に放り投げられていた携帯電話が着信を告げた。 「坊っちゃんですか?」 「ああ………」  液晶に表示された名前は待ち侘びたそれで、安堵の息を吐きながら通話をタップする。 『お疲れ様っす、獅子雄さん』  ――蛇岐だ。 「………何故おまえが」 『え? いいじゃないっすか、そこは。それより椿ちゃん、うちで寝ちゃったんで迎えに来て下さい』 「寝てる?」 『そう、寝てます、俺のベッドで』  通話口の向こうで、蛇岐が笑うのが分かった。わざと言葉を区切り、しつこく言い聞かせるようなその態度に一瞬にして頭に血が昇り、殺してやろうかと拳を握る。 『ま、そういうことなんで、待ってますね』  蛇岐はそう告げると、一方的に通話を切った。暗くなった液晶を睨み付ける。  蛇岐を雇ったのは失敗だったかも知れない。私情で動く男だったとは、俺は蛇岐を過大評価していたのかも知れない。奴に任せたこの仕事は失敗してしまうのか。握った拳が震えた。これは怒りなのか、もしくは、嫉妬。ふと自嘲が漏れる。下らない。 「いかがなさいました?」 「………何もない。車の鍵を貸せ」 「こちらに。呉々もお気をつけて」  恭しく頭を下げる時永を通り過ぎ、部屋を後にする。蛇岐の自宅へ向かう道中、無意識に舌打ちが漏れハンドルを殴った。 「これはどういうことだ」  すっかり血の匂いが染み付いてしまったアパートの一室。その隅に置かれているベッドの上で、椿は頬を上気させながら横たわっていた。ネクタイもシャツのボタンも緩められ、着衣は乱れて額には汗が滲んでいる。ベッドの足元を見ると、空になった酒の缶がふたつ、そして目の前に佇む蛇岐は明らかに風呂上りと言った風体で髪から雫を垂らしている。 「おまえ何をした」  目を諌めて蛇岐を見る。ベッドマットの右上は布が裂け綿とスポンジが飛び出し、蛇岐が何らかの形でナイフを使ったのは明白だ。 「少し酒を飲ませただけです。そしたらへばっちゃって」 「酒を飲ませて何をしようとした。………殺そうとでもしたのか」  蛇岐はにこりと笑う。幾分の爽やかさまで滲ませて。 「まさか、そんなことする訳ないじゃないですか。俺が仕事には真面目なの知ってるでしょう」  どこまでも胡散臭い男だ、挑発でもしているつもりなのだろうか。 「もう一度聞く。酒を飲ませて何をした」  寛げられた胸元には、数日前に俺がつけたもの、そして首元には今朝までなかったはずのふたつの鬱血痕。 「嫉妬ですか?」 「………余程、殺されたいらしいな」 「あなたに殺されるなら喜んで」 「俺に殺されるとでも思っているのか」  そう嘲笑ってやると、蛇岐は上半身を屈めて肩を揺らした。さもおかしいとでも言うように、声は発さず喉だけを鳴らした。 「あんたに殺されるなら、今すぐにでも死んでやるのに」  上半身を折り曲げたまま蛇岐は顔だけを上げ、俺を見据えてそれでも笑い続ける。瞳は少しも笑っていないというのに。 「ああ、本当おかしい。………ねえ獅子雄さん、椿姫って歌劇、知ってます?」  蛇岐は散々笑い飛ばした後にやっと身体を上げた。 「………それがどうした」 「あれって人の繋がりの軽薄さをよく表していると思いません? 愛し合ってたふたりが男の父親の所為で決別しちゃうでしょう、お互いきちんと話もせずに、馬鹿な男は馬鹿な女に裏切られたと勘違いして」 「………おまえは何が言いたい」  蛇岐は表情を消し、俺の正面に立ち威圧的な態度で真っ向から顔を突き合せた。 「獅子雄さんたちも同じだ」  その言葉だけが、狭い空間にぽかりと浮かぶ。 「お互い何も話さないまま、中途半端な情だけでずるずる繋ぎ止めてる。いつか椿はあんたのことを知ることになる……………もうそこまで近づいてる」 「………………」 「椿は賢い。椿が真実を知るとき………そのときには、きっとあんたか椿のどちらかは死んでる。そういう世界で生きてるってこと、忘れちゃ駄目っすよ」  沈黙が漂う。言い返す言葉を探すこともしなかった。しかし、その通りだと素直に認めることも出来ない。椿を見ると、未だ顔を紅くしながら寝苦しそうに身じろいでいた。目の前のこの存在を手放すのが、今更惜しいとでも感じているのだろうか。真実を知るとき、死んでいるのは俺か椿、どちらだろうか。そんなもの考えずとも分かる、椿だ。  知らず、眉間の皺が深くなる。いつだったか椿に、強いと言われたことがある。強くて、優しいと。ふとそんなことを思い出した。しかしそうじゃない。俺には真実を伝える勇気も、待ち受ける現実を受け止められるだけの強さもない。臆病で、弱い。そんな自分を認められるだけの強さすら、ありはしない。 「生意気言ってすみませんね」  視線を椿からはずし横へ滑らせると、まったく悪びれた様子のない蛇岐と目があった。 「生意気だという自覚はあったのか」 「あは、当たり前じゃないすか、雇用主様に対してあんな物言いしちゃったんだし」  蛇岐はいつもの軟派な顔をして、へらへらと笑いながら俺の肩に腕をまわす。 「あと椿ちゃんには手出してないんで、安心して下さい。よっぽど犯してやろうかと思ったんですけど、全然タイプじゃないし疲れるし、勃たないと思ったんでやめました。分かってると思いますけど、俺が本当に抱きたいのはあんたなんですよね」  肩を抱く手に力が込められ、蛇岐の顔が近付くと同時に自らの懐に手を差し込む。顔が間近まで迫って、ぴたりと止まった。 「頭、ぶち抜くつもりですか?」 「おまえに抱かれるくらいなら、死んだ方がましだ」  そう告げると、蛇岐はあっさり離れていった。 「俺を殺してくれるのは構わないけど、獅子雄さんに死なれちゃ困りますね。死んだ身体は興味ないんで」  蛇岐は煙草を取り出し、それに火をつけた。 「じゃ、忠告もしましたし、とっとと椿ちゃん運んでください。生きた人間も死んだ人間も、黙って横たわってるだけって邪魔なんすよね」  椿の足元に座り煙草を吹かす蛇岐を見る。可哀想な奴だ。こいつだけじゃない、きっと俺も同じだ。俺も、亜鷺も蛇岐も、椿も。きっと皆、可哀想だ。  椿の枕元に跪き、首の後ろに手を回して上半身を起こすと椿は小さく呻いたが、起きる様子はなかった。余程深く眠り込んでいるのか声をかけても眉根を寄せるだけで、目は閉じたまま俺の首に両腕を巻きつけて頬ずりをするように肌を密着させた。 「あらら、甘えんぼちゃんになっちゃいましたね。椿姫の上着と鞄は持つんで、先に出て下さい」 「………ああ、頼む」  吸っていた煙草を床に押し付け椿の荷物をまとめる蛇岐を残して、部屋を後にする。血生臭い部屋から脱すると、外の空気は身体に悪いと感じるほどに澄んでいた。その空気を感じとってか、腕の中にいる椿が深く寝息を立てる。  軽くて、小さな身体だ。この身体に、いったいどれだけのものを抱えているというのか。それがあまりにも大きすぎて、この細い身体はいつか何かの拍子に、ぷちりと、いとも簡単に、粉々に潰されてしまいそうだ。それが恐くて、誰にも傷つけられないようきつくきつく、それでも細心の注意を以って抱き締めた。けれどきっと俺のこの想いこそが、この小さな身体を噛み砕いてしまうのかも知れない。そんなことを考えて、目の前は再び暗くなった。  椿を抱えたまま車の傍で佇んでいると、背後から顔を覗かせた蛇岐が俺から車の鍵を奪って後部座席の扉を開け、そこに椿の上着と鞄を乱暴に投げ込んだ。 「じゃ、荷物も積んだんで俺は戻りますね」 「世話になったな」 「………礼ならその身体でお願いします」  なんて、と蛇岐は呟いて、俺の両手が塞がっているのをいいことに頬に口付けた。そして形のいい額を俺の肩にのせ、しばらくじっと動かずにいたかと思うと唐突に、勢いよく顔を上げた。視線が絡み合う。感情の抜け落ちた表情だ。俺はこの男のこの表情を、もう何度も見ている。 「………俺を殺そうとしているのか」  もし本当にそうならば、俺に勝算はない。椿を抱く腕に無意識に力が入る。その筋肉の動きを目敏く見つけた蛇岐は、俺を椿ごと弱く抱き締め離れていった。 「………俺には、花一輪をさえ、程よく愛することができません……」  身体を離す直前、耳元で囁かれたその言葉に、秋風記かと訊ねれば、蛇岐は闇を孕んだ瞳をしたまま、嬉しそうに微笑んだ。

ともだちにシェアしよう!