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第35話

 電話を耳に押し当て蛇岐は二三度短い返事をすると、今度は俺に向かって電話を突き付けた。 「はい、椿ちゃんに替われって」  拒否しようと押し返すも、無理やりそれを握らされ更にはきつく睨まれて、俺は渋々電話に応じた。 「もしもし………」 『椿、まさかこの間のことをもう忘れたのか。何の為に携帯を持たせているのか、その足りない頭でよく考えろ』 「………ごめん」  癪に障る言い方だけれど、つい二日前も同じ内容を注意されたばかりだ。素直に謝ると、獅子雄はまあいいと許してくれた。 『今から迎えに行く』  その台詞で途端に焦りを覚える。今は無理だ、どうしても。獅子雄を目の前に普段どおりになんかいられない。きっともんどりうって、脳も正常に機能せず、そんな俺を不審に感じるに違いない。何か良い断り方はないかと脳を全速力で回転させ考える。ふと蛇岐を見ると、面倒臭そうに背中を丸めて電話が終わるのを待っている。ふと閃いた、もうこれしかない。 「今から蛇岐の家に遊びに行くから、また帰るときに電話する、じゃあな」 「は?」 『待て、つ――』  そこで一方的に通話を終える。携帯電話を蛇岐に突き返した。 「ちょっと椿姫、困るって」 「いいだろ、別に。一緒に青春を謳歌しようとか言ったのおまえだろ、オトモダチになるんだろ」 「は、勘違いしないでよ。俺らは所詮、獅子雄さんのカネで繋がってるだけだから」  俺の身勝手な言動に対してさすがに苛立ちを覚えたのか、蛇岐は語気を強める。しかし怖がることも、狼狽えることもない。俺たちの間に上下関係があるのなら、獅子雄がついている以上は俺が「上」だ。 「だからだろ? カネで繋がってる間はオトモダチなんだろ」  その関係は、俺が今まで知っている中で最も強固なものだ。カネさえ途絶えなければ、それに勝るものなんてないほどの信頼関係を保っていられる。 「俺とおまえの関係より深いものなんてないと思ってたんだけど、おまえは違うの? まさか友情だなんてもの、本当にあると思ってるの?」  思えば蛇岐との関係はとても楽だった。駆け引きも探り合いもない。カネは強い。信頼も買えるし目に見える。実にシンプルで他の何にも代え難い武器だ。それがあまりに愉快で蛇岐の存在がより身近に感じ、目の前に立ち尽くす「何よりも信頼できる男」の盛り上がった筋肉を拳で叩いた。目を細めて一方の口角だけを上げると、蛇岐は一瞬瞠目した後ぴくぴくと頬を引きつらせ、ひひっと笑った。 「ああ、やっぱりいいね、椿姫。すげえぞくぞくする、そそられる」  蛇岐は肩を戦慄かせ、鈍く光るピアスの埋め込まれた舌をちらつかせながら、尚も喉を鳴らし俺の腕を取った。  蛇岐と連れ立って校門を抜け、行き道も分からぬまま置いて行かれないようついて行く。いつもは車で素通りするだけの道、こうして歩くのは初めてだ。一軒家が多く立ち並び、チェーン展開している大手のスーパーやファミレス、コンビニがどことなく治安の良さを醸し出していた。 「おまえの家、遠い?」 「ううん、もうちょっと」  蛇岐は広い公道を脇道に逸れて、まるで迷路みたいに入り組んだ路地に入り、人目を避けるように気配を消して迷いなく突き進む。俺には微塵の気遣いも見せず、その長い脚で尚且つ速足の蛇岐を、小走りで追いかけるので精一杯だった。割りと長い距離を歩いたと思う。辺りは先程とは打って変わって静まり返り、時代に取り残されてしまったようにひっそりとしている。小さな不安を感じた頃、蛇岐は唐突に立ち止まり、古びた小さなアパートを指差して、ここ、と言った。  二階建ての鉄筋コンクリートのアパート。部屋は四つのみで、蛇岐は二階の奥側に住んでいるらしい。階段の脇にある錆び付いた四つのポストを見ると、風雨に晒され色褪せたピンクチラシが溢れ返るほど乱雑に押し込められていて、風が吹くたびにガサガサと揺れ、蛇岐以外の人間がこのアパートに住んでいるとは到底考えられなかった。 「はい椿姫、入って」  いつの間に鍵を開けたのか(そもそも元から施錠されていないのか)、扉を大きく開いた蛇岐に促されて部屋に入る。 「………靴、脱ぐとこない」 「良いよ、履いたままで」  コンクリート打ちっ放しの壁はひやりとしていて、窓もなく生活感も薄い部屋は重く暗かった。狭いワンルーム。気持ちばかりのキッチンと、小さな冷蔵庫、木箱をひっくり返しただけのテーブル(とも言えないようなもの)、スチール製のシングルベッドと、ハンガーラックには学校で着用している白のカッターシャツに黒のタンクトップが数枚。部屋にあるものはただそれだけ。他には何もない。テレビや漫画、CDなどの娯楽品もない。生活するのにおよそ必要とされる最低限(本当に最低限、洗濯機すらない)しか、この部屋にはない。  蛇岐が俺の背後で扉を閉めて、鍵をおろす音がした。俺は立ち止まったまま、思わず身を硬くして動けなくなった。 「もしかして、警戒してる?」  視界の外から地を這うような重苦しい声で囁かれ、ついにびくりと肩を揺らした。背筋に生温い汗が伝う。 「偉いね、警戒心は大事だ。椿姫は特に、気をつけたほうがいい」  何故、と聞くのは最早愚問だろう。振り返ることもままならない。空気が張り詰めるのを肌で感じた。 「なあんてね」  蛇岐はぽん、と俺の肩を叩くと、その横をすり抜けて部屋に入った。冷蔵庫を開けてしゃがみ込み、冷えた缶をふたつ取り出す。 「冗談だよ、びっくりした? 俺が椿姫を手にかけるなんてこと、今のところないから大丈夫。そういう契約だからね、俺こう見えて仕事には真面目なんだよ」  今までの異常なほど張り詰めた空気を吹き飛ばすように、いつものおちゃらけた調子で蛇岐はそう言った。そして俺を手招きして迎え入れベッドに座らせると、持っていた緑のラベルの缶を俺に手渡し、自分はビールを開けてそれを煽った。 「………そういえば蛇岐、おまえに聞きたいことがあったんだ」 「へえ、何?」  蛇岐はベッドの向かい側にあるキッチンのシンクに浅く腰掛け、さらに一口ビールをあおった。 「おまえさ………亜鷺、って、知ってる?」  蛇岐の動きが一瞬止まる。初めて見る表情だな、とそんなことを思った。たぶん、驚いてる。 「へえ、会ったんだ? 亜鷺さんに」 「うんまあ、偶然なんだけど」 「ふうん、それ、獅子雄さんには?」 「言ってない。亜鷺に口止めされた」 「そう、それが賢明だな。で、亜鷺さんがどうかした? ていうか先に言っちゃうと亜鷺さんに関して俺に話せることはないよ。俺も色々と口止めされてるからね、亜鷺さんにも、獅子雄さんにも……って、こんな言い方したらもうどんな人か分かるでしょ」  俺はそれに返事はせず、冷えた缶を親指で撫でた。 「椿姫はさ、俺が何を生業としているか大方予想はついてるでしょう。だからこそ俺に話せた、自分が抱いてる世間一般では受け入れて貰えない気持ちを。どう? この部屋に入って、その予想が確信に変わらない?」  蛇岐は口角を上げ、至極面白そうに俺を見据える。俺はそれに、そうだな、と答える。  蛇岐と初めて会ったときに感じた違和感。今思えばあれは違和感ではなかったのかも知れない。亜鷺に会った時もそうだ。あれは違和感とは違う、妙な親近感にも似たもの。まるで自分を見ているみたいで、この感情を何というのか、一番近い表現は同族嫌悪なのかも知れない。伏せていた目を蛇岐に向けると、蛇岐は俺の隣に移動してベッドに腰掛けた。そして俺の肩に肘を置くと、その蛇のような鋭い瞳で俺を覗き込んだ。どうしてだろう、こいつも亜鷺も、獅子雄だってそうだ。こいつらに瞳を覗かれるたび、俺の記憶や潜在意識を呼び覚まされる感覚に陥る。蛇岐の目が俺の思考を絡め取る。亜鷺よりも獅子雄よりも、俺はきっと蛇岐に近い。 「………血の匂いが充満してる、この部屋」  視線を外さずにそう告げると、蛇岐は細い目をさらに細めて満足そうに、正解、と笑った。お互い目を逸らさずに、睨み合うとも見つめ合うともいえないような視線を絡ませる。まるで生き別れた兄弟にでも会った気分だ。 「亜鷺と……獅子雄も、みんな同じなの」 「全部が全部、同じって訳じゃない。細かく分けると役割はそれぞれ違う………獅子雄さんは特に」  蛇岐はやっと俺から離れて、持っていたビールの缶を軽く振り、顎をしゃくって俺にも飲むように促す。プルタブをあげると軽快な音を立てて炭酸が弾けた。それを勢いよく傾けると、口の中に一気にアルコールの匂いが広がり思わず噎せた。 「酒じゃん、これ」 「ジュースかと思った? うちにそんな可愛い飲み物はありません」  俺は暫く咳き込み、息を詰まらせながらもう一口飲んだ。 「ああ、頭がくらくらする」 「酒、初めてじゃないでしょ?」 「初めてだっつの、馬鹿」  悪態をつきながら、一口、また一口と飲み進める。慣れてくると桜桃の甘い香りが分かってきた。そうしてちびちび三分の二ほど飲むと、体温が上昇し瞼も重くなった。 「やばい……これマジでくらくらしてきた」  缶を床に置き、腰掛けていたベッドにそのまま倒れ込んだ。アルコールが身体を巡っているのが分かる。きっと俺は酔い始めている。 「………椿ちゃん」  ぼそりと呟くように名を呼ばれたかと思うと、それと同時に蛇岐が俺に覆い被さり、耳元すれすれに今までに聞いたことのない鋭い音が迫った。閉じかけていた目を開く。音の正体を確認したかったけれど、ぴくりとも動くことができない。 「隙ありすぎ。もし俺が椿姫を狙う殺し屋だったら、今頃とっくに死んでる」  今少しでも首を動かせば、俺の耳はただでは済まないだろう。蛇岐に突き立てられたナイフの冷たさが空気の粒子を通して伝わってくる。ベッドマットは切り裂かれ、スポンジと綿が飛び出している。  互いの間には蛇岐の長い腕一本分の距離しかない。いつもは軟派に笑う蛇岐の表情は、まるで別人のように冷徹だ。喜びも悲しみも、楽しさとか怒りとか、感情の一切が欠落してしまった瞳をしている。無表情、とはまさにこのことを言うのだろう。張り詰めた状況にも関わらず、意外にも俺は冷静にそんなことを思った。 「いつも……そんな顔して人を殺してるのか………」  蛇岐の、つるりとした頬を撫でる。思いのほか温かくて驚いた。 「………さあ、仕事中の自分の顔なんて見たことない」 「そう………」  そこで会話が途切れると、蛇岐は突き立てたナイフを引き抜き身体を起こして俺の上から退いた。俺は短く息を吐き、蛇岐に倣って上体を起こす。 「これ、椿姫にプレゼント」  はいどうぞ、と蛇岐は手にしていた小振りのナイフを俺に押し付けた。俺の腹にナイフの柄を向け蛇岐は受け取るのを待っていて、俺はそれを慎重に受け取った。 「おまえが仕事で使うものじゃないのか」 「そんなオモチャ、俺みたいなプロが使う訳ないでしょ」  そして蛇岐は徐ろに身を屈めるとベッドの下を探り、そこから使い込まれた革のホルスターを取り出した。 「これ、腰に巻いて携帯できるから」 「……こんなの俺に待たせてどうするんだよ」 「さあね、持ってて損はない気がして。いつかは何かの役に立つ。殺傷能力は低いけど足首かっ切れば相手の動きくらい鈍らせることはできる。椿姫が使い方さえマスターすれば、それによっちゃ獅子雄さんだって殺れるよ、お望みどおりね」 「……………」  ナイフの柄を強く握ってみる。小さい割りにはずしりと重くて、全く手に馴染まない。酒が入っているからだろうか、それを持つことに恐怖はなかった。 「椿姫はさ、力が弱いから逆手で持つといい。その方が体重をのせられる。しっかり握って、でないと相手の筋肉に返されてこっちが怪我をする」 「………ふうん」  握る指に力を込めると、その途端ぐにゃりと視界が歪んだ。妙な感覚が蘇る。かたくて、柔らかい。耳元で毀れた呻き声と血しぶき、そして俺の手に重ねられた血の気の引いた細くて冷たくて、頼りない両手。ぴり、と指の付け根あたりに痛みが走る。そうだ、俺はあの時、手を怪我したんだった。そうだ、あの時。 「!」  首筋に、生温かい感触とちくりとした小さな痛み。この感触が何なのか、俺は既に知っている。 「何か考えごと?」  ふと横を見ると、いつの間にか俺の肩口に顔を埋めていた蛇岐が視線だけをこちらに寄越した。そしてもう一度深く顔を埋めたかと思うと、耳の下辺りに唇を押し付けられちくりとした痛みに背筋が粟立つ。軽く肩を押し返すと、蛇岐はすんなりと離れていった。 「………何してんの」 「ちょっとだけ、味見」 「………あっそ」  薄い舌で挑発的に上唇を舐める蛇岐に大して取り合わず、ナイフを収めて鞄に仕舞う。飲みかけの酒を勢いよく煽る、蛇岐は気を良くしたのか冷蔵庫からもう一本酒を取り出して俺に手渡した。  きっともう、頭は正常な働きをやめている。右手にはナイフを握ったときの感覚がありありと残っていて、それが肉を割き、えぐる感触が何故だか全身に伝わって思わず震えた。 「椿姫の躰が覚えてるんだよ」  蛇岐は耳元でそう囁き、俺の右手に自身の左手を重ね、俺の持っている缶のプルタブを器用に開けて口元まで運んだ。俺はそれに抗うことも出来ずに従うほかなかった。蛇岐の呟いた言葉の意味を、理解しようとするのは早々に諦めた。頭はぼんやりとしていて身体も瞼も重い。缶を持つ手に重ねられた蛇岐の手が、引っ切り無しに缶を傾ける。続け様に口に流れ込む液体を、俺は必死に飲み下した。それでも間に合わず口の端から流れた酒を、ピアスのはめ込まれた蛇岐の舌が舐めとった。そして次の瞬間唐突に缶を奪われると、肩を押されてそのままベッドに沈められた。霞んだ視界の中で、無機質なコンクリートの天井と蛇岐のピアスが光ったのを見て、俺の意識は深く沈んでいった。

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