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第34話

「………僕には、花一輪をさえ、ほどよく愛することができません。ほのかな匂いを愛づるだけでは、とても、がまんができません。突風のごとく手折って、掌にのせて、花びらむしって、それから、もみくちゃにして、たまらなくなって泣いて、唇のあいだに押し込んで、ぐしゃぐしゃに噛んで、吐き出して、下駄でもって踏みにじって、それから、自分で自分をもてあまします」 「………………」  あまりにも予想をはみ出した蛇岐のそれに、ぽかんと呆ける他なかった。蛇岐はそんな俺を見て、あははと、とても笑っているとは思えない笑みを浮かべた。 「これ知ってる? 太宰治」 「え……? ああ、そうなんだ……ううん、知らない………」  蛇岐は肩を竦めた。 「ま、俺の好きはこんな感じよ」  それをきっかけに、途端に胸がざわついた。文字の羅列が脳内を駆け巡り、単語のひとつひとつが呼び起こされて、血管をとおって脳にたどり着き、そこから身体中に深く染み入る。思わず武者震いをした。期待と希望に、胸を打ち震わせた。 「な、蛇岐、もう一回最初から最後まで、言って」  お願い、と頼むと蛇岐は面倒臭そうな素振りも一切見せずに快諾してくれた。そしてまた一から、ひとつひとつを言い聞かせるように、俺の瞳を真正面から見つめ話し始める。俺はそれを、一語一句聞き逃さぬよう慎重に、そしてこれ以上ないほど真剣に耳を傾け、のめり込んだ。文章が進むに連れ爪先からじわじわと熱くなっていき、得も言われぬ興奮と緊張を覚えた。蛇岐の唇から紡ぎ出される言葉が、ほつれた糸を丁寧に解き、するすると俺の中に染み込んでいく。それは間違いなく俺にとっての救いだった。  そして蛇岐は先程と同様に締めくくり、二本目のタバコを咥えた。俺はそれまでを眺めた後、立てた膝の上に顔を伏せ一度だけ大きく深呼吸をし、そして意を決して口を開いた。それは、俺が決して認めずに隠し持っていた一部分。 「俺、ときどき獅子雄を殺してしまいたくなる」  脳裏に浮かぶのは、植物園での出来事。 「駄目だって、悪いことだって頭では分かってる。もし本当に殺してしまったら、きっと後悔すると思う。だけど獅子雄に触れるたび、獅子雄が俺に好意(あるいはそれらしきもの)を示すたび全部欲しくなって、そしたらもう誰にも見せたくなくなって、ずっと俺の、俺だけの傍にいてくれたらいいのにって、好きだって思ったら、それを認めてしまったら、もうどうしようもなくなって、獅子雄が離れていくのを想像しただけで怖くなって耐えられなくなって、だからきっと安心したいんだ。獅子雄を手放さない為には、その為にはもう、こ、殺すしか………殺してしまえば、もう誰にも奪われずに済むって……だから、いつか本当に………本当に、殺してしまいそう………」  言った。言ってしまった。他人に話してしまった。もう取り消せない。知らないふりもできない。口から心臓が飛び出てしまいそうなほど、五月蝿く鳴っている。大きく荒い呼吸を繰り返しながら、蛇岐の反応を恐る恐る待っていると、蛇岐は黙って俺の話を聞いた後、うん、と頷いた。 「わかるよ、椿姫の言ってること。普通に理解できる。力加減が分かんなくなるんだよね、好きだな、可愛いな、抱き潰したい、ぐちゃぐちゃにしてドロドロにして、優しく痛めつけて、このまま殺してしまおうかって思うよ、俺も、いつも」  蛇岐はあっけらかんとしている。まさかこの男に、こんなにも大きな激情が隠れていたことに驚いた。この男がそれほどまでに他人を求めているだなんて。しかし俺は今それに酷く安堵し、救われている。持て余した自分自身が、この感情が、異常にしろそうでないにしろ、自分ただ一人が抱え込み隠し持っていたのではないと知ってただただ嬉しかった。 「俺………いつか本当に獅子雄を殺してしまうんじゃないかって思ったら怖くなるんだ……怖くて、獅子雄の傍にいるのが辛くなる」  そう零すと、蛇岐は突然声を上げて笑い出した。 「なんだよ!」 「あは、ごめんね。その点では椿姫が心配することないでしょ、いくら椿姫が獅子雄さんを殺したいからって、獅子雄さんが黙って殺られるはずないって。返り討ちだよ、一瞬で、返り討ち」  余程面白いのか蛇岐は更に腹を抱えて笑い転げ、しばらくして目尻の涙を拭った。 「それは………俺だったら確かにそうかも知れないけど……っ、それならおまえはどうなんだよ」 「ええ、俺? ううん、そうだなあ、俺の場合だと相手なんて簡単に殺せちゃうだろうからなあ………一日が終わる度いつも思うよ、ああ今日は殺さなかったって」  蛇岐はいつもと変わらぬ涼しい顔をしている。それはまるで天気の話でもしているかのようだった。ただの何気ない、世間話のよう。 「でも別に、殺したっていい。相手が死んでしまったって、きっと俺はどうってことない。ああ、やっちゃったな、でもまあいいか、だってそうしたかったんだし、寂しいなら俺も一緒に死んじゃおうかな、たぶんその程度」  やっぱりこの男は「そう」なのだ。胸の内で密かに確信する。だからこんなにもあっけらかんとしていられる。 「………おまえはいいね、迷いがなくて」 「椿姫が深く考え過ぎてるだけじゃない? 良いじゃん、椿姫がどんなに獅子雄さんを殺したくっても、獅子雄さんは死なない。そんなの心配するだけ無駄、こんなこと思っちゃう自分って落ち込んだって無駄。椿姫は獅子雄さんが好き、それだけ」 「…………………」 「ただ、それだけ」  身体の中心に、何かがすとんと落ちた。目から鱗がこぼれ落ちる。それは否定しようのない、納得のいくシンプルな答えだ。俺の中で複雑に絡み合い、膨れ上がった不安が蛇岐の手によって簡単に解かれていく。そうか、それで良いのか。 「……うん、俺、獅子雄が好きだ」 「そう、知ってる、よかったね」  屋上に風が吹き抜ける。煙草の残り香が鼻腔を刺激する。予鈴が鳴る。空が近い、鳥が飛んでいる。蛇岐が煙草をコンクリートに押し付けた。  人間とは不思議な生き物で、物事を言葉にして口にすると、より自覚を深めるものらしい。 「帰らないの、椿姫」 「無理、今日は獅子雄に会えない」  あの後、蛇岐とふたり一限目を欠席した。二限目から終礼の終わる今の今まで、獅子雄のことばかりが脳内を占拠している。いつもなら、さっさと迎えの車を寄越して貰ってとっとと帰るのだけれど、今日は違う。自分の気持ちを他人に打ち明けた途端、どんな顔をして獅子雄に会えば良いのかさっぱり分からない。昨日までの自分を思い出すのが難しい。今までどおりなんて到底無理だ。きっと赤面して、のたうちまわって発狂する。 「そんなのさあ、オンナノコじゃないんだし、一緒に住んでるんだし逃げられないでしょうよ」  確かに蛇岐の言う通りだ。それは分かっているけれど、それでも心の準備は少なからず必要で、悶々と考えを巡らせていると尻のポケットに入れていた携帯が小刻みに振動した。見ずとも分かる、獅子雄だ。はじめはそれを無視していたけど、あまりにも長い間俺を呼び出し続けて震えているから、仕方なくそれを取り出し液晶を覗く。 「獅子雄………」  だろうね、と蛇岐が言う。今朝は時永が送ってくれたから、帰りも時永が迎えに来てくれないかと少しばかり希望を持ってみるも、しかしきっとこういう時に限って獅子雄が来たりするのだろう。そのまま応答せずにいると、ようやく着信は切れてほっと息をついた。 「ねえ、椿ちゃん」  様子を見ていた蛇岐が呆れたように口を開く。 「無視するだけ無駄だと思うよ。さっさと腹決めて帰りなって。じゃないと俺も、ここから動けないんだけど」 「………冷たいこと言うなよ」  ぼそりと呟くと、蛇岐は盛大なため息を吐いた。 「ていうかさ、俺にも来てんの、電話が、獅子雄さんから、まさに今。椿姫、メールも無視してる?」 「………してる」 「あのね、俺は獅子雄さんからの電話、無視できないんだわ、出るよ」 「あっ、ちょっと待て………!」  腕を伸ばした俺の制止も聞かず、蛇岐は無情にも俺の目の前で通話ボタンをタップした。

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