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第33話

「おはよー、椿姫」  この男の突き抜けた明るさというか、能天気さは、一体どこからくるのだろうか。 「………おはよう」  今朝の送迎役は時永だった。週末の夜の一件以来、獅子雄と少し気まずくなるのかと思いきや実はそうでもない。だからといって必要以上の触れ合いがある訳でもなく、本当にただただ何気なく過ごしている。  そして蛇岐もまた、相変わらず俺を校門で待ち構えている。毎朝、一日も欠かさずに。教室までの道すがら、ちらりと蛇岐を盗み見る。立派な体躯に、鈍く光るアクセサリーで武装された身体、耳を飾るピアスは、俺なら想像しただけで竦み上がってしまいそうなほど太くて重そうだ。決して親切な見てくれはしていないのに、蛇岐はどことなく人懐こく、無邪気な空気を漂わせている。不思議な男だ。 「なに、そんなに見つめてどうしたの」  もしかして惚れちゃった?と軽口を叩く蛇岐を無視して、教室の引き戸を開く。きゃっきゃと騒がしかった室内が一瞬静まり、俺たちを警戒するいくつもの目が素早くじとりとこちらを見た後、何事もなかったかのように再び賑わいを取り戻す。俺のバックについている「備前」という存在は、それほど大きなものだろう。おかげで俺は今だ蛇岐以外の誰とも口を聞いていない。気にすることはないと実際思ってもいるし、別段困ることもない。  亜鷺が部屋を訪れたのが一昨日の土曜日、そして昨日の日曜、俺は体調不良を理由に丸一日自室に籠もっていた。すべての窓を全開にし、そのひとつひとつを睨みつけながら監視していたが、亜鷺はちらりとも姿を現さなかった。待っていたのではないけれど、奴が何をどこまで知っているのかを確認したかった。しかし亜鷺の言う「西の棟」まで自ら赴く勇気もないまま無駄とも言える時間を過ごし、気付けば一日は終わっていた。亜鷺は俺を知っていて、そして蛇岐を知っていた。それもきっと、ただの知り合いではない。深い関わりを持っている気がする。蛇岐も、亜鷺を知っているだろうか。なるべく自然を装い、後ろに座る蛇岐を振り返ると、椅子に浅く座り踏ん反り返っている蛇岐が探るような瞳で俺を睨み付けていた。 「………なんだよ」 「いやあ? いつもに増して考え込んでるなあと思って」 「別に何も考えてなんか………」 「うそ、椿姫、すぐ分かる。目で分かる」  ぴくりと瞼が痙攣する。一体、俺がどんな目をしているというのか。まさか蛇岐まで、同じ目をしているだなんて言うつもりじゃないだろうか。それが怖くて、俺は静かに目を伏せた。 「ね、椿姫、ちょっと抜けない?」 「は、なんで」  蛇岐は返事を待たず、俺の腕を掴むとそのまま立ち上がった。体格の差は一目瞭然、抵抗するのも馬鹿馬鹿しい。小走りになりながら、ずんずんと風を切る背について行くと、階段をいくつも上がり辿り着いた先は、すっかり人気もなくなってしまった屋上だった。錆びついた鉄のドアには立入禁止と書かれた紙が乱雑に貼り付けられていたけれど、鍵が壊れているわけではないのに何故か施錠されておらず、蛇岐が片手で押すと甲高い悲鳴のような音を立てながらいとも簡単に開いた。 「おまえが鍵あけてるの?」 「まさか、はじめっから開いてた。で、俺に何か話したいことでもあるの?」  屋上に足を踏み入れるなり、蛇岐はそう切り出した。案外的を得た質問なだけに、すぐには返事ができなかった。蛇岐は俺の返事を待ち暫く黙っていたが、答えないことが分かると大きく伸びをしながら屋上を囲うフェンスに向かい歩き始めた。つられて俺もその後に続く。 「当ててみようか、獅子雄さんのこと?」 「なんでそうなるんだよ」 「だって俺と椿姫の共通の話題なんて、それ以外ないでしょ」 「それは……そうとは限らないだろ………」  居る、共通の知り合いがもうひとり。そうとは言えずに口をつぐむ。 「で、なに、恋のお話しでもする? オニイサンが聞いてあげようか」 「は?」 「あれ、違う? 付き合ってるんでしょ、獅子雄さんと」 「だから違うって何度も言ってる」 「じゃあ何、セフレ?」 「はあ? ふざけるのも大概にしろよ」 「だって、首」  それに俺が反応するより早く蛇岐の長い腕が伸び、俺のネクタイを瞬時に緩めるとボタンを弾き飛ばす勢いで襟を開いた。 「いきなり何だよ!」 「ほらやっぱり、キスマーク」  蛇岐は俺の首元に指を滑らせる。キスマーク、そんな色気を漂わせるものに心当たりはない、筈だ。 「あ」  変な声が出た。 (キスマーク、これが?)  キスマークなんて大人の男のワイシャツにつけられた、女の濃い口紅のことだとばかり思っていた。しかし蛇岐が言っているのは週末獅子雄に噛まれたと思っていた痕を指しているだろうし、俺自身もそれ以外に心当たりらしいものはない。あの日亜鷺が指摘したのもこれのことだったのだろう、見られたくない奴に見られてしまった。舌打ちを漏らす。 「で、したの? セックス」  蛇岐は俺から手を離すと、自身のシャツのポケットから煙草を取り出し一本咥えて火をつけた。 「………しない」 「なんで?」 「なんでって何」 「お互い好きで一緒に暮らしてるのに、しない方が不自然じゃない?」  蛇岐は深々と息を吸い込み、勢いよく一気に煙を吐き出す。風下で吸ってくれているのは、偶然なのか親切なのか。 「獅子雄が俺のことをどう思ってるかなんて、おまえ知らないだろ」 「はっきりとは知らないけど、好きでもない人間を自分の屋敷に、それも同じ部屋に住まわせて面倒見てくれるほど優しい人間じゃないってことは、少なくとも椿姫よりはよく知ってる」  一応付き合いは長いんだよ、と蛇岐は続けた。 「………なんでおまえは、俺が獅子雄のこと好きだって決めつけるんだよ」  蛇岐はくっと喉で笑った。そんなことも分からないのか、と馬鹿にするように。 「分かるよ。獅子雄さんが好きだって、顔に書いてる、目が言ってる」  がちん、と奥歯がなった。否定の言葉を飲み込んだからだ。違う、と声を荒げるのも、ここまで来れば馬鹿馬鹿しい。唇を噛み締めながら、燻る紫煙を見詰めた。 「椿姫はさ、何をそんなに頑なになって自分の気持ちを隠そうとするわけ?」  蛇岐はまだ長く残る煙草を指先で弾き足元に放ると、室内履きのままそれを踏みつぶし、フェンスに背をつけて胡座をかいた。俺はその一連の動作を見ながら、二メートルほど距離をとって立ち尽くす。 「あ、もしかして、おまえなんかに俺の気持ちが分かって堪るか、とか、そんな思春期じみたこと考えてる?」 「そんなこと考えてない」  子供扱いされたことに苛立ち、半ばむきになり早口で否定すると、蛇岐は悪戯っぽく笑って俺を手招きして隣に座るよう促した。きっと長くなりそうだと自らのことながら判断し、それに素直に従った。 「で、獅子雄さんとどうなりたいの」 「………そんなの分からない」  煮え切らない俺の返事に、呆れるでも腹を立てるでもなく、蛇岐はそうかあと呟いた。見てくれとは裏腹に蛇岐は存外いい奴だ。 「蛇岐はさ、好きな人とかいるの」 「ん?」  訊いてしまった後で、少し気恥ずかしい質問だったと気付く。この男は、色恋沙汰なんてそんなもの一ミリも興味がなさそうなのに。怪訝に思ったに違いない。きっと鬱陶しく感じただろう。ちらりと蛇岐を横目で窺うと、意外にも真剣な面持ちでううんと唸った。 「ああ、好きな人ねえ、あー、そうだなあ、うん、うん居る」 「まじで!」 「まじで」  思わず大きな声が出る。他人になんて興味なさそうなふりして、案外この男はしっかりちゃっかりしているのだ。 「それって、どんな感じ?」 「どんな感じって」 「いや、だからさ、蛇岐はその人のことを可愛いなあとか、大切にしたいなあとか、思うわけ?」  いつの間にか俺は身を乗り出し、蛇岐の恋愛事情に予想以上に自分が食いついていることに気付く。思えば誰かとこんな会話をするのは初めてだ。こんな、まるで、普通の友達みたいな。  蛇岐は、またも唸りながら首を捻ると、しばらく押し黙って考え込み、そしてやっと口開いたかと思うと静かに話し始めた。

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