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第32話

「坊っちゃん?」  叩かれた扉の向こうから、エティが遠慮がちに呼びかける。 「大きなお声が聞こえましたので……どなたかいらっしゃるのですか」 「いやっ………」  咄嗟の返事に困っていると、その隙をつかれて亜鷺に腕を引かれ再び抱き寄せられた。 「僕は西の棟にいる。気が向いたらおいで、絶対に何も持たずに」 「いやだ行かない」 「気が向いたら、でいいんだ」  また耳元で囁く。不快感を込めた横目で窺うと、静かに微笑みを返された。 「坊っちゃん、お邪魔させて頂きます」  エティのその一言に意識が扉に移ったその一瞬、ドアノブがかちゃりと傾いた、たった一瞬。その一瞬の間に亜鷺は俺の身体を解放し、風に吹かれるように窓辺へ近付くとそのまま音もなく外へ飛び出した。その一瞬で、瞬きをも許さない、息を飲む速さで。 「……エティ………」  床にしゃがみ込んだまま呆けたようにエティを見上げる。亜鷺の姿を見ただろうか。 「坊っちゃん、なんて酷い顔色! こちらへお座りになって」  汗の滲んだ背に温かな手が添えられる。焦った様子で俺をベッドへ座らせ、顔色を窺い見るなり医者を呼ぶと言うエティの手を掴みそれを制した。 「大丈夫、少し疲れただけだから」 「ですが」 「本当に大丈夫。少し休むから、起きても気分が悪かったら、その時に医者を呼んで。心配してくれてありがとう」  不安そうに俺を見つめるエティに、なるべく明るく元気に見えるよう笑いかけ退室するよう促す。エティは納得のいかない表情を浮かべていたものの、それからは何も言わずに一礼し渋々出て行った。  足音が完全に消えるのを待ち、俺は急いで洗面所へ駆け込んだ。 「うっ……うえっ…ぐ、ぅ………」  洗面台に顔を突っ込み嗚咽した。昼食を抜いた為か吐瀉物は少なく、その代わりにすえた匂いのする胃液が込み上げ食道を逆流した。吐いても吐いても、吐き気が治まらない。胃は何度も痙攣して、涎と鼻水と涙が顔を汚した。  蛇口を思い切り捻ると、勢いよく飛び出した水が放射状に跳ねて瞬く間に辺りを濡らしていく。荒い息を鎮めて、正面に取り付けられた広い鏡を見た。酷く草臥れた自分の顔が映っている。手のひらで、濡れた鏡を何度も擦る。少しはましな顔になるかも知れない。だけど拭いても拭いても、鏡に水が広がるだけで、ついでに俺の顔もどんどんくしゃくしゃになって、堪えられなくなった涙が頬にたくさんの筋を作っていった。  そうだよ、きみと同じ。  亜鷺の言葉が頭から離れない。ひき切れた声が漏れた。泣いている、俺の声だ。みっともない嗚咽が冷えたタイルに反響する。俺は違う、同じじゃない。誰にそう伝えたいのかも分からない。  ふと、父親の顔が浮かんだ。最後に会ったときのような、偉そうに威張り散らした顔じゃない。恐怖に怯えたような、バケモノでも見てしまったかのような、そんな震えた目をしている。これは、いつの記憶だろうか。分からない。きっとこれは、自分ですら忘れてしまった、自分自身の大切な記憶。思い出せないほど古びた、故意に古びさせた、大切な記憶。全部、忘れていいからね。それは、誰にかけられた言葉だったろうか。 「………全部……忘れていいからね……」  繰り返す。 「全部、忘れていいからね………」  繰り返す、繰り返す繰り返す。何度も何度も何度も。全部、忘れていいからね。  そのまま気を失っていたようだ。ぱたぱたと頬を濡らす冷たい雫で目が覚めると、蛇口を開け放したままタイル張りの床に倒れ込んでいた。怠く重い身体をどうにか起こし、血が通ってないように白くなった手で蛇口を閉めると、排水口がごくごくと喉を鳴らすように大量の水を気持ちよく飲んでいった。着ていた服は水気を含み、寒さから身体が震える。 (着替えなきゃ………)  ふらつく脚にどうにか力を入れて部屋へ戻ると、大きく放たれた窓から西日が差して思わず目を細めた。  僕は、西の棟にいる。  亜鷺の言葉を思い出し西の方角へ目を凝らすも、逆光にあてられて何も見えない。それでよかった。わざわざ出向いてやるつもりもない。 (もう、会いたくもない)  そう胸の内で唱える。そうすれば身の安全は確保された気がした。  クローゼットを開けて服を漁る。全身が乾涸びたみたいに頼りなく震えて、一度だけ胃が痙攣した。落ち着け、と自身に言い聞かせ、シャツを一枚取り出した。エティとマリアが管理してくれている衣類は、どれも手触りがよく美しい。それを手に取るだけで、少しだけ心が満たされる。 「ああ………」  湿った服を脱ぎ捨て、取り出したばかりのシャツに袖を通したときに気が付いた。 (獅子雄のだ、これ………)  獅子雄がいつも部屋着にしている柔らかな生地の白いハイネック。何かの拍子に誤って紛れてしまったのだろう。仄かに残る獅子雄の匂いにその服を脱ぐ気も起こらず、そのままソファに沈み込んだ。その服に顔を埋めると、獅子雄のぬくもりまで蘇りそれだけで泣いてしまいそうなほど心地よかった。  亜鷺と獅子雄は似ているけれど、そうだ匂いは全く違う。亜鷺は言うなれば無味無臭。気配も匂いもなく、例えるなら幻や蜃気楼、神々しいとも禍々しいともつかない、そんな印象を受ける。  しばらく天井だけを見つめて過ごしていると、エティが夕食を運んで来てくれたが生憎どうにも食べる気が起こらず、申し訳ないとは思いつつそれを断った。その際、獅子雄の帰宅時間を訊ねれば、本日は伺っておりません、と返された。そうか、と応える。今日はなんだか獅子雄の帰りが酷く待ち遠しい。早く会いたい。そう思うのはきっと、昼間の出来事と、一連の言い知れぬ不安の所為だ。  二十一時になった、二十二時を過ぎた。天井を見て過ごす。二十三時を越えて、諦め半分部屋の電気を消しベッドに潜り込んだとき、いつもの車の音を耳が拾った。 (帰ってきた……!)  堪らず起き上がりベッドサイドの間接照明をつけ、部屋の扉を見つめながら獅子雄が現れるのをじっと待つ。メイドふたりが部屋の前の廊下を通過して、正面玄関で獅子雄を出迎える気配がし、ぼそぼそと早口で話す声が一気に近づいて来る。そしてドアノブが傾き、ついに待ち侘びた瞬間がやってきた。 「お、お帰り!」  その顔を見るなり、意識するより先に口が動いた。獅子雄は俺を目視で認めると、鞄も置かずにネクタイを緩めながらこちらに近付いた。 「起きていたのか」 「眠れなくて」  まさか獅子雄の帰りを待っていたなんて、口が裂けても言えない。獅子雄はベッドの脇に腰掛けると、俺の額に触れた。 「昼から食事をしていないそうだな、顔色も悪い。何かあったのか」  色んなことが一気にあり過ぎた。それでも獅子雄に説明できるものは、ひとつもない。正直なことなんて何も答えられずに、か細く消え入りそうな声で、大丈夫、としか言えなかった。  視線を彷徨わせる俺を見て、獅子雄が小さく笑う。 「なに」  訊くと、獅子雄は俺が着ているシャツの首元を引っ張った。 「俺の服」  言われて気付く。そういえば獅子雄のシャツを拝借していたのだった。瞬く間に身体の熱が上がる。 「違う、これ俺のクローゼットに紛れてて、それで………」 「それで?」 「それで……っ」 「それで、着た?」 「…………着た……」  獅子雄は珍しくはにかんでいるような、嬉しそうな表情をしていて、それを見るとむず痒い気持ちになった。恥ずかしくて袖の余った部分を弄りながら様子を伺うと、それに気付いた獅子雄が静かに顔を近付けた。自然と瞼を閉じる。今までもそうしていたように。唇の端に獅子雄のそれが引っ付いて、離れる。 「似合ってる」  耳元で囁かれた声は間違いなく獅子雄のもので、亜鷺なんかにはちっとも似ていなかった。 (やっぱり、俺の勘違い)  今までの不安が嘘みたいに消え失せて、気分が高揚した俺は自ら獅子雄の唇にキスをした。大きな手で腰を抱かれ引き寄せられる。そのままゆっくりと身体が傾いて、優しくベッドに押し倒された。獅子雄が顔をあげ、見つめ合う。 「……夜の獅子雄は、いつも優しい………」  この家に来たときから、夜は必ず優しかった。夢みたいに甘くて優しくて、たくさん笑ってくれて、昼間とは全く違うから初めは本当に夢かと思っていた。でも違う。今俺は起きていて、目の前には獅子雄がいて、しっかりと触れ合っている。 「俺が優しいんじゃない、夜はおまえが素直になるだけだ」  そう言うと獅子雄は俺の首筋に顔を埋めて、またちりちりと痕をつけられて、そのくすぐったさに身を捩った。いつの間にか獅子雄もベッドに乗り上げて、捲れ上がったシャツの裾から覗く俺の肌を、まるで手触りを確かめるように丁寧になぞった。獅子雄とキスをする度に、獅子雄が身体に触れる度に、思考には靄がかかって次第に何も考えられなくなる。獅子雄の背に手を回し、ありったけの力を込めて抱きしめた。獅子雄の全部が欲しかった。この胸に顔を埋めて、この匂いと体温に包まれたら、きっと何も怖いことなんてなくなるはず。亜鷺に言われたことや、俺のしてしまったこと、そしてこれからのこと、獅子雄がいればそんなもの、きっといとも簡単に捨てられるはず。待っていた温度と匂い、いつの間にか好きになっていた煙草と、仄かに漂う香水の香り。 「……………」  それと、もうひとつ。いつもとは違う。この匂いは。 「獅子雄………」  背中に手を回したまま、力を緩めた。俺の身体をまさぐっていた手はとまり、ゆっくりと獅子雄が顔を上げた。 「どうした」  熱を持った獅子雄の瞳を、真正面から受け止める。  獅子雄の匂いと煙草と香水と、あとひとつ。いつもとは違う、もうひとつの匂い。これは恐らく。 「血の匂いがする」  獅子雄の表情が強張るのが瞬時にわかった。燃えていた瞳は姿を消し、代わりに全ての感情が欠落してしまったような、今の俺には到底読み取れない空虚な瞳が現れた。獅子雄は何も告げず、否定も肯定もしない。それが答えだった。 「獅子雄、疲れてる。疲れた顔してる」  そう言ってやると獅子雄は痛々しく自嘲した。そして荒々しく自らの伸びた前髪を掻き上げ立ち上がり、俺を残してシャワー室へ消えて行った。俺はベッドに倒れたまま動けずに、水の弾ける音にひたすら耳を傾けた。獅子雄が何を洗い流しているのかなんて、そんなの、分かりきっていた。

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