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第31話

 獅子雄の車を見送って、穏やかさを取り戻した庭をしばらく眺めた。獅子雄の言う色々なことは分からないけど、けれどその分からない何かを、分からないなりにも整理しなければならない。それは例えば獅子雄への気持ちとか。 (それが一番、面倒なんだけど)  一番面倒で、だからこそ知らないふりをしてきたのに。いずれ自然に消えるのを待とうと思っていたのに、それがどうして、あんなことになってしまったのか。あんなことをしてしまったのか。キスなんかしておいて、やっぱりあれは間違いです、忘れてくださいなんて有り得ようもない。俺も、獅子雄も。 (それなのに俺は、一度は獅子雄を拒絶したんだけど)  ほとほと都合のいい奴だと自分自身が情けない。精神的に妙にまいってしまって、ベッドに腰かけ大袈裟にため息を吐いた。 (………獅子雄はどう思っているんだろう、俺のこと) 「悩みごと?」  突如降りかかる声に、激しく身を揺らした。反射的に顔を上げると、目の前にはまたもやあの男が立っている。 「亜鷺」 「また来ちゃった。どうしたの、ため息なんかついて」  亜鷺は涼しげに、さも当たり前かのように何食わぬ顔でそこに佇んでいる。又、窓から侵入したのだろうか、先ほどと同様に些細な気配すら感じさせなかった。今だって目の前にいるのに、幻かと疑いたくなるほどだ。 「人の部屋に勝手に入ってくるな。タイミングよく入ってきやがって、どこかで監視でもしてたのか」 「まさか、そんな趣味はないよ。獅子雄くんの車が出て行く音がしたからね、それから走ってここへ来た」 「………そう」  獅子雄とのやり取りの一部始終を見られていなかったことに胸を撫で下ろすと、ひやりとした指先が悪戯に俺の首筋を突いた。 「もしかして、お取り込み中だった?」 「ああ、いや別に、ちょっと獅子雄に噛まれただけ。もしかして、痣になってる?」  痛みは噛まれたその一瞬、ちくりとした可愛いものだったけれど、まさか歯型までつけられていたら堪ったもんじゃない。首筋をさすると亜鷺は面白そうに笑った。 「噛まれた? ふふ、そうなんだ」  含みのある笑みが引っかかり、あからさまに顔を顰める。しかしこの話題を自ら掘り下げて、この男に更に揶揄われてしまうのは本意でない。俺はそれから何も言葉を返さなかった。 「ねえ、椿くん」  ベッドに腰かけたままの俺の隣に、亜鷺がゆったりと腰掛ける。何の気なしに顔を傾け亜鷺を見ると、その漆黒色の双眸にぶつかった。俺を覗くそれは、どこか獅子雄に似ている。 「椿くんは、獅子雄くんが好きなの?」  吸い込まれてしまいそうなふたつの丸が、瞬きもせずに俺を見据える。瞳の奥に闇を飼っているこの目を、俺は嫌いではなかった。 「どうしてそんなのこと、おまえが聞くわけ」 「好きなんじゃないかなって、思ったから。………そういう風に見えたから」  亜鷺の瞳を、見つめるともなく眺めていた。磁石みたいに引き寄せられて、逸らす気にもなれなかった。 「否定はしないの?」 「肯定もしたくない」 「どうして」  まるで細い糸を紡ぐようにするすると、流れるようにさらさらと、亜鷺の色のない唇が、匂いのない声が、俺の視覚と聴覚に直接訴えかける。共に流されなければ置いて行ってしまうよ、と言うように。無意識にそれにつられて、俺の口からはいとも簡単に言葉が滑り落ちた。 「俺は、歪んでいるから」  だけど上手く言葉を選べない。自らの感情を的確に説明する術を持ち合わせていないからなのか、それとも言葉にすべきではないことが多分に含まれているからなのか。 「きみは、どういう風に歪んでいるの」 「……………」  口を開くが、言葉が紡げない。やはり口にすべきではないと、己の中の何かが強く精神を揺さぶった。真実に近づいていく気がして、俺はいつだってそれを恐れている。  今まで誰にも見せずに隠し持っていたものを、大切に大切にしまってきたものを、獅子雄の存在それだけで、ただそれだけなのに、獅子雄がそこに在るというだけで、全てが溢れ出て零れ出て。両の手の中に閉じ込めてきたものが、指の隙間からさらさらさらさら、獅子雄を目の前にそれが抑えられなくなって、いつか俺は本当に。 「まあ、よくは分からないけれど」  黙りこくった俺の肩を亜鷺が抱く。 「歪みのない人間なんて、僕はいないと思うんだ」 「………どういうこと」 「………きみはもう、分かっているだろ」  亜鷺はその白く冷たい指で俺の顎を掬い、鼻先が触れ合うほど近くまで顔を寄せて俺の瞳を覗き込んだ。より一層、深いところまで。抵抗する間も、考える隙も与えず、亜鷺は喰らいつくように俺の瞳を見つめ続けた。その熱に、勢いに、視線を逸らすことも叶わず亜鷺の双眸を見る。繋ぎ合った視線の中で、瞳に映し出された光がくらりと揺れた。  堪らず息をのんだ。全てを飲み込み、身動きひとつ許さず有無を言わせない。その瞳に、妙な既視感があった。それも随分と記憶に新しい。そうだ、この瞳を持った人間を俺は既に知っている。 「蛇岐………」  亜鷺が口元だけで微笑む。そうだ、これは蛇岐と同じ瞳。 「そうだよ、僕は蛇岐くんと同じ」  亜鷺は一度だけ目を閉じ、そしてすぐに開いて、俺の額に自らの額をあわせて微笑む。 「そして、きみと、同じ」  その言葉を合図に全身が一気に総毛立ち、血の気が一瞬にして引いていく。本能的に亜鷺を押しのけ、立ち上がり距離をとる。冷や汗が噴き出て、頭から爪先までが大きく震えた。  俺の、もっとも見られたくないところ。 「やめろ……」  亜鷺に背を向け、耳を塞ぎうずくまる。時が過ぎるのをひたすら待って、いつの間にか忽然と、亜鷺が姿を消すのを強く願った。 「椿くん」  その願いも虚しく亜鷺は再び近づいて、うずくまる俺を背後から抱きすくめた。触れられた部分から、徐々に体温を奪われていく。全身が固く凍ったように、身じろぎひとつできない。 「正直になれば、今よりずっと楽になれる。獅子雄くんへの想いも、きみが過去にしてしまったことも」 「やめろ………お願い、やめて……亜鷺………」  おかしくなってしまいそう。何度やめてくれと懇願しても、亜鷺は耳元で尚も囁き続ける。それは直接、脳に響いた。 「椿くん」  その声が、嫌だ。耳を塞いでも、その隙間からそよ風のように注ぎ込む。 「きっとひとりじゃ、抱えられなくなる」 「やめろ!」  叫ぶと、数秒遅れて亜鷺の手がほどけた。そこから這い出てまたうずくまる。何度も強く耳を擦り、そこに残る亜鷺の声を掻き消そうと努めた。  どうしてどうしてどうして。鼓膜に焼き付いた亜鷺の声は、獅子雄のそれに余りにも酷似していて、きっとそれは俺の思い過ごしなのかも知れないけれど、それは俺にとって、途方もない苦痛だった。記憶に留められた声が、獅子雄のものなのか亜鷺のものなのか判断がつかない。それでも聞き親しんだと言いたくなる声が、こびりついて離れなかった。 「椿」  俺を呼んでいるのは誰だ。それすらも分からない。苦しい、怖い、助けて。助けて助けて助けて。 「………獅子雄」 「椿くん」 「呼ぶな………」  見られたくない、獅子雄には。 (違う、今ここにいるのは亜鷺だ………) 「椿くん」  名を呼ばれる度に、俺の汚い部分のひとつひとつを、獅子雄に暴かれているような錯覚に陥る。気分が悪い。 「なんでおまえ、獅子雄の真似するんだよ」  声が震えてしまうのを必死に隠して、背後に立つ亜鷺を見上げる。そうだ今ここにいるのは獅子雄ではない、亜鷺だ。そう確認する為に。そんな俺を見て、亜鷺は困ったように眉を下げた。 「うん、ごめんね、真似をしている訳ではないんだけど。ただ、似てしまうんだろうね」  この男の含みのある物言いが嫌いだ。秘密を持っているのを隠さないところが嫌いだ。それなのに他人の秘密を勝手に暴くところも、部屋にずけずけ上がり込むところも大嫌いだ。全部全部嫌いなのに、それなのにどうして。 「僕はね、椿くん」  こんなにも大嫌いなのに。 「きみを傷付けようとした訳じゃないんだ」  この男を見つめる度に、どうしてこんなにも獅子雄のことが頭に浮かぶのだろう。 「………出てけ」  大きく開いた窓を指差す。早く俺の前から消えてしまえ。 「………話したくなったら、話して欲しい。沈黙を守ることは決して楽ではないから。僕は」  妙に真剣な面持ちをした亜鷺が言葉を区切ったところで、それと同時に自室の扉が控えめに叩かれた。

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